医局のロッカー。

 いきなり駆け上がってきた僕には全く無関心で、ひたすら喋っている大学院生たち。

 「データ、出た?今回は」
 「有意差はなかったけどね」

 上着を脱ぎ、白衣を羽織る。

 「けどこういった実験はまだ、どこもしてない」
 「なら発表できるな」

 聴診器。ライト。メモ帳。

 「あとここだけいじればな」
 「そこの数字・・?消しとけ消しとけ」
 「そうすりゃ有意差、出そうだな」

 今日の予定表・・学生指導、などなど・・・。

 「出た出た!このデータでいこう!」
 「マジでいけるんちゃうか、これで!なあおい!」

 準備、完了。

 病棟へ。

 カンファレンスルームの外で立っている、ひ弱そうな男子学生。

「先生ですか、お待ちしてました」
「?ああ、聞いてた。担当の学生さんね」
「はい、細川と申します。先生の貴重なお時間を割きまして誠に・・」
「いや、いいよ。ところで僕のどの患者を診てくれるの」
「はい、昨日夜にカルテのほうを丸写しさせていただきましたところ」
「ええ?おいおい、そんなこと・・」
「ああっ!い、いけませんでしたでしょうか!あああ・・・」
「いや、そうじゃなくて・・何も丸写ししなくても」
「それからワープロにデータを取り込み、グラフ化しました」

「すごいな・・検査データが全部グラフになっている」

僕の書いた言葉も全てワープロに記録されている。
「これ、くれない?」
「ダメです」
「こういうのが趣味?」
「はあ、まあ」

天才的なのか、不器用なのか、オタクなのか・・。

廊下を歩きながら、話した。

「こ、この方でございますね。小野さん、肺癌の患者さんです」
「そう、この人は半年前にピシバニ−ルを胸腔内投与した人だね。ピシバニ−ルの投与量はどれくらいだと思う?」
http://mid.cc.kumamoto-u.ac.jp/data.php?record=1071600
「10-15KEでしょうか、たまたま読んだ本では」
「う!・・そうそう、まあ国試には出ないだろうけどね」
「それでいったん退院されたのが、数ヶ月後に再入院になったわけですね」
「そう、それから点滴での抗癌剤投与を始めている・・今、2クール目のDAY 10、つまり抗癌剤の治療2セット目の10日目だ」
「全部で何ヶ月するものなんですか」
「決まってないけど、さあ、3-5クールくらいはしてるな」

いちいちメモしてるな、こいつ・・・。

「一般状態のほうは・・」
「あまり良くない。栄養状態が悪い。アルブミン値で2.4g/dlしかない。3g/dl以下だと胸水や腹水が溜まってきても不思議じゃない」
「悪液質、というほどではないですね・・。しかし、食事はあまりできてませんね。副作用のせいかもしれませんね」
「だから栄養補給目的で、朝夕の点滴をしてる。でも末梢輸液だと、1本500ccでせいぜい200kcalくらいしか入らない。1日2本で400kcalしかない。この人の体重は50kgくらいだけど、本来1日でどれくらいのカロリーが最低でも必要だと思う?」
「えっと、基礎代謝が25kcal/kgなので、25x50=1250kcalです。労働者はさらにこの上で・・」

なかなかしぶといヤツ。

「凄いな、君・・よく知ってるなあ」
「そうなると、十分なカロリー補給をするには」
「IVHしかない」
「それをされない理由は?」
「それが入ってしまったら、その・・感染の危険性が出てくるだろう、それに・・高カロリー輸液を本気でやるには1日中点滴してないといけない」

 学生というのは、いつもしょっぱなから核心をついてくる。

「自由を奪うということですね」
「それに家で管理するのは難しい。できないこともないが、よほど了解が取れてないと」
「家族とのですか」
「うん。自由を奪われるのはADLもQOLも低下させることになってしまう」
「は?何ですか、エーディ・・・」
「ADL」
「あの、それは・・・」
「調べておくように」

 なんか、俺、オーベンのような口ぶりだ。

 ところで、何の略だったっけ・・・?

「そうそう、僕の今のオーベンは安井先生といって、呼吸器の先生。温厚で病棟医長も最近兼任するようになった。クラブとかにも連れてってくれるよ」
「はあ、いや、僕はそういうところへは・・・」

細川君はもじもじしはじめた。病室に着いた。

「部屋に入るときは、これ、ガウン・手袋・マスク着用で・・靴ダメ!そこのスリッパ!」
「あ!申し訳ありません」
「それ!辞めたほうがいいよ、謝るクセ・・!」
「以前からそうなんですが」
「謙虚でいいと思うかもしれんが、それは自分の弱さを認めるようなものだよ」

 何言ってんだ、オレ。だいいち俺のそのクセは直ったのか・・?

「失礼します!」

 個室のクリーンルームに、小野さんは横たわっていた。ベッド45度で、顔だけ持ち上げながら・・。
「ああ・・先生・・よかったよかった・・もう来ないかと」
「いえ、昨日の夕方からよその病院に行ってたんです」
「ああ、そう・・・」
「紹介します。これから2週間、私といっしょに・・」
「ほほ、細川と申します」
「細川先生ですか、よろしくお願いいたします・・・」

彼女の差し出した手はかなり細く、疲弊していた。言葉にも張りがない。

「先生、今日の白血球はどのくらいだったですか」
「ああ、これです。これが今日のデータ。白血球4500、好中球55%。だいぶ上がってきました。先日の皮下注射G-CSFの効果でしょう」
「今日は・・しませんの?」
「今日は必要なさそうです。で、次は・・あさってまた調べます」
「先生、もういいんですのよ・・」
「え?」
「私の病気ね、先生、癌なんですってね・・・あの時点で、わりともう進んでいたんですね」
「そ、それは・・・」

 家族の希望で告知してなかったのに・・。

「ありがとう、先生、気をつかってくれて・・以前に胸に管を入れてもらって、あのあたりから普通の病気じゃないと分かってたような気がします」
「か、家族の方が話されたんですか」
「そうそう。でも怒らんでやってください。あの子たちも、私のために病気の名を伏せるよう先生にお願いしていたそうで。先生にも無理をさせたような気がしまして」
「・・・・・」
「2回目の点滴、あれが抗癌剤だというのも薄々感じてはおりました・・・ですからいいんです、先生。これからは本当のことのみおっしゃれば」
「・・・・・」
「でも先生、人生というのは分かりませんね。私の以前のベッドの前にいた人・・糖尿病だったんですってね・・あの方、亡くなられたんですってね。私よりも先に・・分からんものです」

 脳梗塞で亡くなったんだ・・。サドン・デス=突然死だった。

「苦痛はなかったのなら、羨ましい・・・」

 返す言葉がなかった。

 家族の方々は告知しないよう半年前希望されたが、いろいろ悩んだ末本人に打ち明けることになったのだろう・・。

 でも、それでよかったのかもしれない。告知する・しないは本来ドクターの特権ではないはずだ。

 しかし告知してるかしてないかで、僕らは演じ分けないといけない。

「どうもありがとうございました」

後ろから突き刺さるその声に、涙が少し混じっていた・・。

<つづく>

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