< オーベン&コベンダーズ 1-4 レジデント対助教授 >
2004年7月20日 お仕事夕方、いつものように各患者の『本日の経過』をオーベンに報告。
「失礼します」
実験中のオーベンは、顕微鏡から目が離せない。何やらカチカチ計算している。
「今、よろしいでしょうか?」
「ダメだ!あーっ!どこまでか忘れた!なんてウソだ」
「・・・」
オーベンでも冗談、言うんだ・・・。
「ああ、どうぞ」
「ターミナルの方は相変わらず徐脈です。今日のカリウムは6.6」
「相変わらず、とは何だ。言葉に気をつけろ」
「家族の方がムンテラを希望されてました」
「先週したよ」
「東北の親戚の方が来られて、明日の朝には帰ると」
「初めて見る家族だ」
「で、じゃあ今日説明できるようお願いしてきますと言っておきました」
「わかった・・・なんだと?」
カチカチが止んだ。
「アホかお前?なんでお前の判断で俺が動かなきゃならんのだ?」
「す、すみません。明日の朝には帰られると・・」
「もう5時過ぎてる!平日の昼間に来てもらえ!」
「そ、そのように・・・?」
「とにかく今はダメなんだよ!早く行って来い!」
実験がうまくいってないのか・・すごく機嫌悪い。
というか単に僕が怒らせた?
「はい、行ってきます・・」
また戻らないといけない医局をあとにし、トボトボと歩き始めた。
久しぶりに根回しよく物事を運べると思ったが。
すると、後ろから肩を叩かれた。
「?あ、オーベン!」
「いいデータが出そうだぜ!」
僕らは早足で病棟へ向った。
オーベン、感謝してます・・。
そして。
教授回診前の新患プレゼン。2時間前から僕らは準備に取り掛かっていた。
大きな机の上に散乱する心電図、レントゲン、コピー用紙、グラフ用紙。
僕は先日入院があった高血圧の患者の準備。
カルテを開く。
主訴は・・・主訴?
この人は健康診断で高血圧を指摘されて、外来へ書類を持ってきて、血圧がかなり高かったから入院になったんだよな。
本人の話ではそうだった。
それにしても外来カルテは字が煩雑で読みにくい。検査データばかりで記載がほとんどない。まあ全部、頭に叩き込んでいるんだろうけど?
血圧は180/110mmHg、pulse rate 88/min整、心音はno murmur・・・。心電図はサイナスリズム。
「いいなあトシキは」
水野はうらやましそうに覗き込んでいる。
「どうして?」
「高血圧だろ。ゆっくりいけそうじゃない?僕はほら!今までの経過がすっごく長い・・・縦隔腫瘍の患者だ」
「今まで何クール、ケモ(化学療法)やってんだ?」
「8クールぐらいやってる」
「今回は再発?」
「そうみたい。縮小したら退院かな」
「そうか。森さんは?」
「今は話しかけないで!」
「なんだよ・・・拡張型心筋症?おい水野、このレントゲン見てみろよ、CTR 80%はあるぜ!」
彼女は走ってきてシャーカステンのフィルムを取り去った。
「いちいち、もう!」
彼女は焦ると完全にパニックになる性質だ。
どんどん時間が過ぎ、次から次へと先生方が入ってきた。あちこちのイス・ソファーで2、3人同士が固まり、ある者はタバコにまみれ、ある者はヒソヒソ話。講師クラスの先生はまだ来てない。
僕は時計を見た。
「おい、もう8時だよ」
水野は机にうつむいてひたすら筆記中だった。
「自分のが準備できたからって、ジャマに入らないでよ」
「そ、そうじゃないって!」
やがて窪田先生が入ってきた。うっすら余裕の笑顔を浮かべて。女学生からの人気ナンバー1もうなずける。
「や、おはようさん!コベンちゃらん」
「おはようございます!」
僕らは一斉に挨拶した。
「もう後ろから教授、来てまっせ。覚悟おし」
ところてんの如く講師クラスが続けてやってきた。みんな正規の位置に着席していく。やがて私語も少なくなっていった。
水野は書きかけていたが中断した。
「ええい!もうあとは野となれ!」
白髪の教授が助教授と入ってきた。みんな無言で待ち構えていた。
「うん。じゃあ、始めようか」
教授と最前列に座った助教授が、進行係。
「レジデントから!さ、我さきという者から!」
「では、わたしが!」
森さんが自分を奮い立たせるように声を荒げた。彼女は教壇に立った。
「40歳の男性。主訴は呼吸困難です。既往歴は10年前よりDCM。H2年とH5年に入院歴があります」
助教授がところどころツッコミを入れる。
「君、言葉の最後はきちんと!DCM。で終わらすんじゃなくて、DCMの既往があります!とか、わかりやすく!」
「はい!」
「それと入院歴があったなら、いつだけじゃなくて、何で入院してたかを明白にね!」
「はい!この方は・・・」
彼女はさっそくオーベンを目で探し始めたようだ。助教授は察知した。
「ん?オーベンか?オーベンは誰だ?」
「畑先生です」
医局長がとっさに答えた。
助教授は呆れた顔をした。
「畑。おーい、ハタケ?いないな。あいつがオーベンか・・。で、畑君は?医局長!」
「まだバイトから帰ってきてません」
医局長が答える。
「なに?バイトは早朝で切り上げだろう?」
「ですが・・・まだこちらには着いてないようで」
「バイトが終わるのは通常、何時だ?」
「名目上は、その病院の日勤の先生が到着する時間・・・9時前くらいでしょうね」
「なに?今日は大事なプレゼンだぞ。早く戻ってきてもらわんと困る!」
「ですから、早めに切り上げて戻ってくるよう伝えているのですが・・・」
このため早朝の時間帯にドクター不在とならざるを得ないケースが多い。
教授がボソッと呟く。みんなが一斉に耳ダンボとなる。
「はやく切り上げるって、あなた、それ・・・常勤の先生来るまでは、その病院・・・医者不在ってこと?」
助教授が少し取り乱していた。
「い、いやあ、それはないはずです、それは。じゃあ医局長!月曜日はプレゼンの時間帯のこともあるから!向こうの病院の常勤の先生にもうちょっと早めに来てもらうとか!君がいろいろ話し合って決めておくように!」
「ですが先生、よその病院の常勤の先生にそこまでは・・・」
「うちの系列か?」
「は?」
「そこの病院は、うちの大学の系列か?」
「いえ」
「うーん・・・ま!そこは臨機応変に!
臨機応変に!助教授の口癖だ。
この人たち、政治家みたいだなあ・・・。
助教授は少し機嫌が悪くなったようだ。
「じゃ、次いこう!わっちゃ、10分のロスタイムだ!はいはい!間宮くん!次々!」
「森ですが・・・」
「ん?ああ、そうだったな!現病歴!」
「昭和60年頃より当院循環器外来で定期内服されておりましたが平成2年と平成5年に呼吸困難で急性心不全にて入院。その後は安定していましたが3日前に呼吸困難が出現し、2日前に外来受診しました。急性心不全と診断し、入院しました」
「おいおい待ってくれ。何を根拠に急性心不全と?」
「え?呼吸困難があって・・」
「それで?」
「それで?」
「真似するなよ。それでどういう所見があって、どういう検査をしてそうなったんだ?って聞いてるんだよ?僕の言うこと、おかしい?」
「いえ・・」
「松田くん、僕の言うこと、おかしいか?君、笑っているようだが」
1列うしろの松田先生はハッと口を閉じた。
「いえ・・・」
「さっさと実験のデータ出せよ、きみい」
「はい・・・」
せっかく鬱から立ち直りかけていた松田先生は、またブルーに突入した。
<つづく>
「失礼します」
実験中のオーベンは、顕微鏡から目が離せない。何やらカチカチ計算している。
「今、よろしいでしょうか?」
「ダメだ!あーっ!どこまでか忘れた!なんてウソだ」
「・・・」
オーベンでも冗談、言うんだ・・・。
「ああ、どうぞ」
「ターミナルの方は相変わらず徐脈です。今日のカリウムは6.6」
「相変わらず、とは何だ。言葉に気をつけろ」
「家族の方がムンテラを希望されてました」
「先週したよ」
「東北の親戚の方が来られて、明日の朝には帰ると」
「初めて見る家族だ」
「で、じゃあ今日説明できるようお願いしてきますと言っておきました」
「わかった・・・なんだと?」
カチカチが止んだ。
「アホかお前?なんでお前の判断で俺が動かなきゃならんのだ?」
「す、すみません。明日の朝には帰られると・・」
「もう5時過ぎてる!平日の昼間に来てもらえ!」
「そ、そのように・・・?」
「とにかく今はダメなんだよ!早く行って来い!」
実験がうまくいってないのか・・すごく機嫌悪い。
というか単に僕が怒らせた?
「はい、行ってきます・・」
また戻らないといけない医局をあとにし、トボトボと歩き始めた。
久しぶりに根回しよく物事を運べると思ったが。
すると、後ろから肩を叩かれた。
「?あ、オーベン!」
「いいデータが出そうだぜ!」
僕らは早足で病棟へ向った。
オーベン、感謝してます・・。
そして。
教授回診前の新患プレゼン。2時間前から僕らは準備に取り掛かっていた。
大きな机の上に散乱する心電図、レントゲン、コピー用紙、グラフ用紙。
僕は先日入院があった高血圧の患者の準備。
カルテを開く。
主訴は・・・主訴?
この人は健康診断で高血圧を指摘されて、外来へ書類を持ってきて、血圧がかなり高かったから入院になったんだよな。
本人の話ではそうだった。
それにしても外来カルテは字が煩雑で読みにくい。検査データばかりで記載がほとんどない。まあ全部、頭に叩き込んでいるんだろうけど?
血圧は180/110mmHg、pulse rate 88/min整、心音はno murmur・・・。心電図はサイナスリズム。
「いいなあトシキは」
水野はうらやましそうに覗き込んでいる。
「どうして?」
「高血圧だろ。ゆっくりいけそうじゃない?僕はほら!今までの経過がすっごく長い・・・縦隔腫瘍の患者だ」
「今まで何クール、ケモ(化学療法)やってんだ?」
「8クールぐらいやってる」
「今回は再発?」
「そうみたい。縮小したら退院かな」
「そうか。森さんは?」
「今は話しかけないで!」
「なんだよ・・・拡張型心筋症?おい水野、このレントゲン見てみろよ、CTR 80%はあるぜ!」
彼女は走ってきてシャーカステンのフィルムを取り去った。
「いちいち、もう!」
彼女は焦ると完全にパニックになる性質だ。
どんどん時間が過ぎ、次から次へと先生方が入ってきた。あちこちのイス・ソファーで2、3人同士が固まり、ある者はタバコにまみれ、ある者はヒソヒソ話。講師クラスの先生はまだ来てない。
僕は時計を見た。
「おい、もう8時だよ」
水野は机にうつむいてひたすら筆記中だった。
「自分のが準備できたからって、ジャマに入らないでよ」
「そ、そうじゃないって!」
やがて窪田先生が入ってきた。うっすら余裕の笑顔を浮かべて。女学生からの人気ナンバー1もうなずける。
「や、おはようさん!コベンちゃらん」
「おはようございます!」
僕らは一斉に挨拶した。
「もう後ろから教授、来てまっせ。覚悟おし」
ところてんの如く講師クラスが続けてやってきた。みんな正規の位置に着席していく。やがて私語も少なくなっていった。
水野は書きかけていたが中断した。
「ええい!もうあとは野となれ!」
白髪の教授が助教授と入ってきた。みんな無言で待ち構えていた。
「うん。じゃあ、始めようか」
教授と最前列に座った助教授が、進行係。
「レジデントから!さ、我さきという者から!」
「では、わたしが!」
森さんが自分を奮い立たせるように声を荒げた。彼女は教壇に立った。
「40歳の男性。主訴は呼吸困難です。既往歴は10年前よりDCM。H2年とH5年に入院歴があります」
助教授がところどころツッコミを入れる。
「君、言葉の最後はきちんと!DCM。で終わらすんじゃなくて、DCMの既往があります!とか、わかりやすく!」
「はい!」
「それと入院歴があったなら、いつだけじゃなくて、何で入院してたかを明白にね!」
「はい!この方は・・・」
彼女はさっそくオーベンを目で探し始めたようだ。助教授は察知した。
「ん?オーベンか?オーベンは誰だ?」
「畑先生です」
医局長がとっさに答えた。
助教授は呆れた顔をした。
「畑。おーい、ハタケ?いないな。あいつがオーベンか・・。で、畑君は?医局長!」
「まだバイトから帰ってきてません」
医局長が答える。
「なに?バイトは早朝で切り上げだろう?」
「ですが・・・まだこちらには着いてないようで」
「バイトが終わるのは通常、何時だ?」
「名目上は、その病院の日勤の先生が到着する時間・・・9時前くらいでしょうね」
「なに?今日は大事なプレゼンだぞ。早く戻ってきてもらわんと困る!」
「ですから、早めに切り上げて戻ってくるよう伝えているのですが・・・」
このため早朝の時間帯にドクター不在とならざるを得ないケースが多い。
教授がボソッと呟く。みんなが一斉に耳ダンボとなる。
「はやく切り上げるって、あなた、それ・・・常勤の先生来るまでは、その病院・・・医者不在ってこと?」
助教授が少し取り乱していた。
「い、いやあ、それはないはずです、それは。じゃあ医局長!月曜日はプレゼンの時間帯のこともあるから!向こうの病院の常勤の先生にもうちょっと早めに来てもらうとか!君がいろいろ話し合って決めておくように!」
「ですが先生、よその病院の常勤の先生にそこまでは・・・」
「うちの系列か?」
「は?」
「そこの病院は、うちの大学の系列か?」
「いえ」
「うーん・・・ま!そこは臨機応変に!
臨機応変に!助教授の口癖だ。
この人たち、政治家みたいだなあ・・・。
助教授は少し機嫌が悪くなったようだ。
「じゃ、次いこう!わっちゃ、10分のロスタイムだ!はいはい!間宮くん!次々!」
「森ですが・・・」
「ん?ああ、そうだったな!現病歴!」
「昭和60年頃より当院循環器外来で定期内服されておりましたが平成2年と平成5年に呼吸困難で急性心不全にて入院。その後は安定していましたが3日前に呼吸困難が出現し、2日前に外来受診しました。急性心不全と診断し、入院しました」
「おいおい待ってくれ。何を根拠に急性心不全と?」
「え?呼吸困難があって・・」
「それで?」
「それで?」
「真似するなよ。それでどういう所見があって、どういう検査をしてそうなったんだ?って聞いてるんだよ?僕の言うこと、おかしい?」
「いえ・・」
「松田くん、僕の言うこと、おかしいか?君、笑っているようだが」
1列うしろの松田先生はハッと口を閉じた。
「いえ・・・」
「さっさと実験のデータ出せよ、きみい」
「はい・・・」
せっかく鬱から立ち直りかけていた松田先生は、またブルーに突入した。
<つづく>
呼吸管理トレーニング
2004年6月30日 お仕事
ISBN:4498031091 単行本 諏訪 邦夫 中外医学社 2002/06 ¥5,460
「レジデンツ・フォース」の内科学会、購買部でグッチが購入していたのがこれ。その後も彼女の必須アイテムとなったそうです。
「レジデンツ・フォース」の内科学会、購買部でグッチが購入していたのがこれ。その後も彼女の必須アイテムとなったそうです。
< レジデント・ファースト 14 問診係 >
2004年2月2日 お仕事朝6時の目覚ましが鳴った・・はずだった。知らない間に止めてしまっていた。
朝の7時。
「こりゃえらいこっちゃ!」
昨日の集中治療室の患者のことではない。
「生食負荷試験があるんだった!」
そう、今日は朝の6時すぎから約2時間、生理食塩水を2時間で点滴、合間に採血を何度か行うんだった。検体の一部は
大学院生に渡さないといけない。検査終了後に患者は朝ごはんをやっと食べれる。従って点滴の開始が遅くなると終了も遅くなり、朝食の時間が遅れていく。
自転車で行きたいところだが、ダッシュでいきなきゃならない。車を猛発進させた。
病室に着いた。最近また新しく入った高血圧の患者。
「あー、あ、来た来た、やっと来た」
中年女性が苛立った表情で迎えてくれた。
「すみません、遅くなりまして」
「あーあ、わしゃもう見捨てられたんや、そうみんなに言いよったんや。わしのことを何とも思ってない。第一に考えてくれてへん」
部屋中がどっと沸いた。
ある意味当たっていた。
「痛いイタイ!何をしまんの!」
「点滴です」
「何も言わず刺してくるから、ビックリこいたわ」
「・・あれ」
「?・・・どしたの。入らないの?」
「うーん・・」
血管がない、この人。
「まだ?」
「うーん・・ないな、こりゃ」
「なんて?」
「いえいえ、ちょっと時間がかかるかなあと」
「はようしてえな、先生」
「うーん・・・ここか?」
「知らんよ、そんなん聞かれても」
「・・・あ、血返ってきた。よし・・」
「イタイイタイ・・」
「いや、血管の中入りましたよ」
「いや、なんかイタイ・・抜いて抜いて!」
プクーっと膨れてきた。
「ああ、漏れたんだ・・」
「ッーっ!ああ、痛かった!もうええんじゃないの、こんな検査!あ、看護婦さん!」
ちょうど部屋周りしていた看護婦が。
「看護婦さん、ちょっとあんたが入れてえな」
「点滴は規則でドクターが入れることになってますので」
「そんなん言わんといてえな、頼むわー」
「失礼します。申し送りがありますので・・・」
「あ!待って待って!」
そう叫んだのは僕のほうだった。
この検査は中止になってしまった・・・。
外来の問診係。問診の部屋にはいろんな科の研修医がいる。まるで職業相談所だ。1対1の会話があちこちで行われている。研修医の目は患者のほうでなく、問診表の方に釘付けだ。
「家族の構成は・・・・」
「そこで飲んでた薬は・・・」
「その手術は何年・・病院名は・・・」
僕が担当することになったのは、30後半、女性。きゃしゃで物静かな方だった。
「問診を」
「はい」
「主訴・・いやいや、症状は」
「胸が痛いのです」
「どこらへんです?」
「左胸の前・・ここ」
彼女は僕の手を自分の胸に持っていった。あまりに突然だったのでドキッとした。
「か、家族構成ですが」
「主人とは離婚してます。娘が2人います。1人は中1です」
「タバコは」
「吸ったことないです」
「なるほど・・」
「これだけいろいろ聞かれるということは・・何かあるのでしょうか」
「いえ、そういう意味ではありません」
なんか自分も大学病院の人間に染まってきたのか・・・。
「お待たせしました。検査に行きましょう」
あと数人の問診が終わったときは昼の2時を過ぎていた。
昼2時過ぎの食堂は、邪魔な学生や看護婦がいなくていい。
「ランチは何が?」
「うどんしかありません」
「ああ、それでいいです」
適当なところに座った。また誰か来たりしないだろうな。
またポケベルが振動してる・・。
「もしもし」
「病棟医長です。1人入院だよ。先生、主治医な。病名は、たぶん癌性胸膜炎。レントゲンで肺の異常な影と、胸水。組織型はまだ不明だが、たぶんアデノだろう。アデノーマ。腺癌だ」
「肺癌ですね」
「ああ、状態は落ち着いているんで。検査の予約を出しといてほしい。オーベンに許可取ったが、呼吸器の助手の益田先生が指導してくださる。今日はちょうど晩に呼吸器カンファレンスがあるので、それまでに経過をカルテにまとめておくように」
「え?今日の夜?」
「そうだ。何がいけないか!」
「夜、何時くらい・・」
「知るか。益田先生に確認を取れ。呼吸器のカンファレンスのあとは外科との混合カンファレンスがあるらしいぞ。帰る暇などないぞ!」
こりゃ、遅くなるな・・・。
「医局秘書さん。川口先生はどこに」
「彼女?フフーん、怪しいねえ、キミたち」
「相談事があるんで」
「川口先生は今日は臨時のバイトを頼まれて、よその県へ行ったわ」
「帰ってくるんですか」
「先ほど出られたのよ。病院へは戻ってこないみたい。夜は講演会を聞きに行くと言ってたので」
「たしか彼女には重病の患者さんもいるんですけど、変わりは誰が診てるんですかね」
「間宮先生が代理になってる。彼女は何人いようと見れるから、凄いよねー」
「ええ、僕と違ってね・・」
そうか。講演会ということになってるのか。なんか嬉しい。
病棟では入院カルテができていた。
「病室は・・この大部屋か」
その患者は、僕が朝問診した女性だった。
「ああ、先生でしたか。宜しくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
「娘が来てるんですが、もう帰ってもいいでしょうか。学校休んでるんで」
「ええ、どうぞ」
「姉妹も来てるんです。もう帰ったかも・・」
詰所のすぐ外にその姉はいた。
「こちらの、カンファレンスルームへどうぞ」
と導く。
中年肥満ドクターの益田先生と僕は腰掛け、患者の家族と向かい合った。
「指導医の益田といいます。この先生と2人で見させていただきます」
「はい。で、病名は何なんでしょうか」
「それはですね・・」
「癌なんでしょうか」
「後ろの写真、ここ・・ここです。肺の上のほう。左の上。肺の中に、腫瘍と思われる影があります」
「かげ?」
「それを取ったわけではないので、確定ではないのですが、水まで溜まっています。肺の外に。これはこの腫瘍が胸膜に浸潤して溜まった、胸水と思われます」
「・・・・・・」
こんな説明では、理解できるはずがない。
「この胸水の中に癌細胞があれば確定的です。胸膜が炎症を起こして溜まったものである可能性が高い。胸の痛みはそのためと思われます」
「先生、私が聞きたいのは・・・」
「ドレナージといって、管を胸に入れて、水を抜きます」
「よく分かりません、ただ聞きたいのは・・癌だとすれば・・その、長くないっていうことでしょうか。そうなんでしょうか。娘はまだ小さいのに」
姉はもう感情を抑えきれてなかった。
「さっそく明日にでも、ドレナージを行おうと思います。まず胸水を抜いて、もう出なくなったらそこへ薬を入れます。胸膜に炎症を起こして、糊付けするのです。そこにもう水が溜まらない様に」
「ちょ、ちょっとすみません・・難しい話・・私には」
「家族の方の了解も必要なので」
なんか冷たい医者だなあ・・。姉は続ける。
「本人に、どう言えばいいのでしょうか」
「病名が癌と確定した場合、本人への告知はまたここで話し合って決めましょう。そのときは家族全員を」
「でも・・小学生の娘には・・ダメです。ダメです。本人に知らせたとしても・・・」
「・・・では、これが同意書です」
「先生、私、病室へは戻れない。混乱してしまう」
朝の7時。
「こりゃえらいこっちゃ!」
昨日の集中治療室の患者のことではない。
「生食負荷試験があるんだった!」
そう、今日は朝の6時すぎから約2時間、生理食塩水を2時間で点滴、合間に採血を何度か行うんだった。検体の一部は
大学院生に渡さないといけない。検査終了後に患者は朝ごはんをやっと食べれる。従って点滴の開始が遅くなると終了も遅くなり、朝食の時間が遅れていく。
自転車で行きたいところだが、ダッシュでいきなきゃならない。車を猛発進させた。
病室に着いた。最近また新しく入った高血圧の患者。
「あー、あ、来た来た、やっと来た」
中年女性が苛立った表情で迎えてくれた。
「すみません、遅くなりまして」
「あーあ、わしゃもう見捨てられたんや、そうみんなに言いよったんや。わしのことを何とも思ってない。第一に考えてくれてへん」
部屋中がどっと沸いた。
ある意味当たっていた。
「痛いイタイ!何をしまんの!」
「点滴です」
「何も言わず刺してくるから、ビックリこいたわ」
「・・あれ」
「?・・・どしたの。入らないの?」
「うーん・・」
血管がない、この人。
「まだ?」
「うーん・・ないな、こりゃ」
「なんて?」
「いえいえ、ちょっと時間がかかるかなあと」
「はようしてえな、先生」
「うーん・・・ここか?」
「知らんよ、そんなん聞かれても」
「・・・あ、血返ってきた。よし・・」
「イタイイタイ・・」
「いや、血管の中入りましたよ」
「いや、なんかイタイ・・抜いて抜いて!」
プクーっと膨れてきた。
「ああ、漏れたんだ・・」
「ッーっ!ああ、痛かった!もうええんじゃないの、こんな検査!あ、看護婦さん!」
ちょうど部屋周りしていた看護婦が。
「看護婦さん、ちょっとあんたが入れてえな」
「点滴は規則でドクターが入れることになってますので」
「そんなん言わんといてえな、頼むわー」
「失礼します。申し送りがありますので・・・」
「あ!待って待って!」
そう叫んだのは僕のほうだった。
この検査は中止になってしまった・・・。
外来の問診係。問診の部屋にはいろんな科の研修医がいる。まるで職業相談所だ。1対1の会話があちこちで行われている。研修医の目は患者のほうでなく、問診表の方に釘付けだ。
「家族の構成は・・・・」
「そこで飲んでた薬は・・・」
「その手術は何年・・病院名は・・・」
僕が担当することになったのは、30後半、女性。きゃしゃで物静かな方だった。
「問診を」
「はい」
「主訴・・いやいや、症状は」
「胸が痛いのです」
「どこらへんです?」
「左胸の前・・ここ」
彼女は僕の手を自分の胸に持っていった。あまりに突然だったのでドキッとした。
「か、家族構成ですが」
「主人とは離婚してます。娘が2人います。1人は中1です」
「タバコは」
「吸ったことないです」
「なるほど・・」
「これだけいろいろ聞かれるということは・・何かあるのでしょうか」
「いえ、そういう意味ではありません」
なんか自分も大学病院の人間に染まってきたのか・・・。
「お待たせしました。検査に行きましょう」
あと数人の問診が終わったときは昼の2時を過ぎていた。
昼2時過ぎの食堂は、邪魔な学生や看護婦がいなくていい。
「ランチは何が?」
「うどんしかありません」
「ああ、それでいいです」
適当なところに座った。また誰か来たりしないだろうな。
またポケベルが振動してる・・。
「もしもし」
「病棟医長です。1人入院だよ。先生、主治医な。病名は、たぶん癌性胸膜炎。レントゲンで肺の異常な影と、胸水。組織型はまだ不明だが、たぶんアデノだろう。アデノーマ。腺癌だ」
「肺癌ですね」
「ああ、状態は落ち着いているんで。検査の予約を出しといてほしい。オーベンに許可取ったが、呼吸器の助手の益田先生が指導してくださる。今日はちょうど晩に呼吸器カンファレンスがあるので、それまでに経過をカルテにまとめておくように」
「え?今日の夜?」
「そうだ。何がいけないか!」
「夜、何時くらい・・」
「知るか。益田先生に確認を取れ。呼吸器のカンファレンスのあとは外科との混合カンファレンスがあるらしいぞ。帰る暇などないぞ!」
こりゃ、遅くなるな・・・。
「医局秘書さん。川口先生はどこに」
「彼女?フフーん、怪しいねえ、キミたち」
「相談事があるんで」
「川口先生は今日は臨時のバイトを頼まれて、よその県へ行ったわ」
「帰ってくるんですか」
「先ほど出られたのよ。病院へは戻ってこないみたい。夜は講演会を聞きに行くと言ってたので」
「たしか彼女には重病の患者さんもいるんですけど、変わりは誰が診てるんですかね」
「間宮先生が代理になってる。彼女は何人いようと見れるから、凄いよねー」
「ええ、僕と違ってね・・」
そうか。講演会ということになってるのか。なんか嬉しい。
病棟では入院カルテができていた。
「病室は・・この大部屋か」
その患者は、僕が朝問診した女性だった。
「ああ、先生でしたか。宜しくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
「娘が来てるんですが、もう帰ってもいいでしょうか。学校休んでるんで」
「ええ、どうぞ」
「姉妹も来てるんです。もう帰ったかも・・」
詰所のすぐ外にその姉はいた。
「こちらの、カンファレンスルームへどうぞ」
と導く。
中年肥満ドクターの益田先生と僕は腰掛け、患者の家族と向かい合った。
「指導医の益田といいます。この先生と2人で見させていただきます」
「はい。で、病名は何なんでしょうか」
「それはですね・・」
「癌なんでしょうか」
「後ろの写真、ここ・・ここです。肺の上のほう。左の上。肺の中に、腫瘍と思われる影があります」
「かげ?」
「それを取ったわけではないので、確定ではないのですが、水まで溜まっています。肺の外に。これはこの腫瘍が胸膜に浸潤して溜まった、胸水と思われます」
「・・・・・・」
こんな説明では、理解できるはずがない。
「この胸水の中に癌細胞があれば確定的です。胸膜が炎症を起こして溜まったものである可能性が高い。胸の痛みはそのためと思われます」
「先生、私が聞きたいのは・・・」
「ドレナージといって、管を胸に入れて、水を抜きます」
「よく分かりません、ただ聞きたいのは・・癌だとすれば・・その、長くないっていうことでしょうか。そうなんでしょうか。娘はまだ小さいのに」
姉はもう感情を抑えきれてなかった。
「さっそく明日にでも、ドレナージを行おうと思います。まず胸水を抜いて、もう出なくなったらそこへ薬を入れます。胸膜に炎症を起こして、糊付けするのです。そこにもう水が溜まらない様に」
「ちょ、ちょっとすみません・・難しい話・・私には」
「家族の方の了解も必要なので」
なんか冷たい医者だなあ・・。姉は続ける。
「本人に、どう言えばいいのでしょうか」
「病名が癌と確定した場合、本人への告知はまたここで話し合って決めましょう。そのときは家族全員を」
「でも・・小学生の娘には・・ダメです。ダメです。本人に知らせたとしても・・・」
「・・・では、これが同意書です」
「先生、私、病室へは戻れない。混乱してしまう」
< レジデント・ファースト 13 SECRET >
2004年2月1日 お仕事ノックなしで間宮が入ってきた。
「病棟医長!呼吸が促迫してます!血液の酸素分圧も低いです!」
「数値でいくらだ」
「80くらいです」
「酸素マスクいっぱいで・・?」
「はい、もうこれで限界です」
「じ、人工呼吸器の準備だ!お、俺は呼吸器グループだ・・循環器呼べ、循環器の医者をっ!」
「今日の循環器グループの先生方は、おおかた研修日です。大半は夕方にならないと帰ってきません」
「またか、このォ・・いつもいつもバイトバイトであいつら!」
「週に1回だけです」
「うるさい!大学院生でもいいから、実験中断させてでも見に来させろ!」
病棟医長が僕のほうを睨んだ。
「ぼけっとせずに、かか、患者を運べ!」
研修医は全員召集され、全員でストレッチャーを押しながらエレベーターに向かった。野中が先頭だ。
「通ります、道を空けてください、道を!」
エレベーターは間宮が前もって予約、「延長」モードにしていた。些細な配慮がさすがだ。
「みんなは無理だ。先頭の僕以外は階段で上がって、上で待ってて!」
野中が仕切る、仕切る・・。
集中治療室の外から入り口へ・・。そのとき家族が追っかけてきた。川口が捕まった。
「主人は、あのう主人は、どうなんでしょうか」
「今からベッドのほうへ行くんで、入ってこないでください」
「家族です」
「わかってますけど」
「どうして入れないんですか!」
「とにかくお待ちください!」
一通りの申し送り、準備が整った。
「人工呼吸器は準備オッケー・・」
集中治療担当の医師。麻酔科らしい。熟練してそうだ。
「モニターの数字では、SpO2は・・リザーバマスクいっぱいいっぱいで82ですか。さ、もう挿管していいですか?」
野中が出てきた。
「今、上の先生が家族に説明しているところです。管を入れるかどうか。それが決まるまでは待ってください」
「んー、そうだが。もうすぐICUカンファレンスがあるんでね」
野中が僕の方を向いた。
「先生、主治医なんだろ、この人の。家族へのムンテラは病棟医長がしてるけど、いいのか?行かなくて」
「ああそりゃ行くよ。でも何か起こるか分からんだろ」
「こんなに人がいるんだから。僕らが見てるよ」
「そうよ、主治医らしく印象付けないと」
川口はこいつの味方か・・そうかい。
向こうから病棟医長がやってきた。
「研修医諸君、ご苦労さん・・奥さんの要望で、意識がある間は呼吸器はつけないことになった。今は苦しそうなんだが・・一応意識はあるからね。意識がなくなったときのタイミングが難しいな」
麻酔科医は警戒した。
「我々の判断では困ります。そちらの科の先生がついておくべきでしょう。とにかく判断はしかねます」
「・・で、主治医、おう、ユウキな。血液検査では心筋酵素は上がってなかった」
「?心筋梗塞じゃないってことですか」
「うううん、梗塞になったばっかりなら血液に異常が出ないとか、そういう報告があったことないか?確か、○○ジャーナルの5月号で」
何言ってんだ。ホントか?能のない奴ほど論文に偏る。
「研修医しょくんに聞いても、いかんわな。で、院生は来たか。今日の院生は、だれがいた?確認したか?」
「院生の先生方はラットの入荷の契約とかで、市外にいます」と間宮。的確だ。
「なっ・・そんなもん、日曜日に仕入れに行けらっと!」
「1人医局にいらっしゃるようですが、中国人の留学生です」
みんな、病棟医長を見つめた・・。
「超音波検査、できる先生はおらんのか・・誰か」
すると間宮が
「教授なら」
「アホ!教授にそんなこと頼めるか!」
「しかし頼める人がいないなら」
「発症して何時間だ」
「・・3時間くらいです。血栓溶解剤はダメでしょうか」
「心筋梗塞と確定してないのにか?肺、呼吸器はとにかく関係ない。それは確かだ。肺炎はない!」
肺炎がなかったら、循環器疾患なのか?専門ってこんなものか・・。
「循環器の連中と連絡をとれ。バイト先だろうがかまわん!」
またか。
病名は、ひょっとしてと思われた「肺血栓塞栓症」だった。エコノミークラス症候群で最近話題になった。血栓がどこからか飛んできて、心臓と肺を結ぶ肺動脈を詰まらせた病気。肺の血管に起こるから、肺が心筋梗塞起こしたようなもの。心臓超音波では肺動脈が拡大、その手前の右心室は拡張、左心室をおしくらまんじゅうしていた。押されるその姿は、僕を象徴していた。押しているのは、オーベンだろう。僕は押されて、アウトプット;心臓から出る血液量が減って・・萎縮してしまう。ますますオーベンが押してくる。弱気のままじゃ、押されるだけだ。
結局抗凝固剤であるヘパリンが投与された。その後は比較的落ち着いたようだ。血栓溶解剤であるt-PAは保険では承認されてなかった。現在もそうだ。しかしモノは病院に置いてある。効果が大きいなら、保険適応など無視すべきだ・・。
医局では川口が必死でそのことを病棟医長に訴えていた。
「川口くん、まあわかる、わかるよ。t-PAは有効だろう。でも副作用が起こったら大変だよ。脳出血・胃潰瘍。ましてや保険適応外なのを使用したってことで家族から訴えられたら?君らは負ける、俺らも巻き添えだ。新聞に載る。教授のメンツは?そこまで考えたことあるか?めんどい家族とか、たくさんいるんだよ、お前ら知らないようだけど」
口調が荒くなってきた。
「病態の把握もできずに薬の使用を判断する権利は、君らにはないんだからな」
研修医全員、静まり返った・・。
病院の玄関。僕は憤慨していた。
「川口さん、アイツも診断できなかった。呼吸器疾患じゃないって。ところがどっこいだった」
「・・・あたしが落ち込んだとでも?」
「そうじゃないけど、腹たったろう」
「そうは思わない。どちらかというと、循環器のほうの専門でしょ?この病気は」
「呼吸器科だったら分からなくてもいいっていうのか」
「そうじゃないけど、他人のせいににしたらダメってこと」
「くやしくないの?」
「その悔しさを、自分に向けるのよ」
「それで、やる気が?」
「あたしは苦痛をバネにするほう。一生独身でもね」
「?」
「でもね先生、仕事時間中に図書館だとか、購買部とかでサボってる奴になんか説教されたくないの」
「あれ、なんで知・・」
「なんて冗談よ。あーあ・・飲みにいく?今度」
2人で・・?
「なかちゃんもよ。野中くんも。嘘よ」
「ああ・・だったら行かない」
「じゃあ明日、行こう。みんなには秘密」
明日は夜、用事があるんだが・・。
「どしたの、用事?家に早く帰るの?」
「あ、うん、早く帰らないといけなくて」
「1人暮らしなんでしょう・・?変なの。ビデオばっかり見てるんだーやらしい。じゃあね」
こんな約束したのは初めてだ。
みんなには、秘密、か・・・。
「病棟医長!呼吸が促迫してます!血液の酸素分圧も低いです!」
「数値でいくらだ」
「80くらいです」
「酸素マスクいっぱいで・・?」
「はい、もうこれで限界です」
「じ、人工呼吸器の準備だ!お、俺は呼吸器グループだ・・循環器呼べ、循環器の医者をっ!」
「今日の循環器グループの先生方は、おおかた研修日です。大半は夕方にならないと帰ってきません」
「またか、このォ・・いつもいつもバイトバイトであいつら!」
「週に1回だけです」
「うるさい!大学院生でもいいから、実験中断させてでも見に来させろ!」
病棟医長が僕のほうを睨んだ。
「ぼけっとせずに、かか、患者を運べ!」
研修医は全員召集され、全員でストレッチャーを押しながらエレベーターに向かった。野中が先頭だ。
「通ります、道を空けてください、道を!」
エレベーターは間宮が前もって予約、「延長」モードにしていた。些細な配慮がさすがだ。
「みんなは無理だ。先頭の僕以外は階段で上がって、上で待ってて!」
野中が仕切る、仕切る・・。
集中治療室の外から入り口へ・・。そのとき家族が追っかけてきた。川口が捕まった。
「主人は、あのう主人は、どうなんでしょうか」
「今からベッドのほうへ行くんで、入ってこないでください」
「家族です」
「わかってますけど」
「どうして入れないんですか!」
「とにかくお待ちください!」
一通りの申し送り、準備が整った。
「人工呼吸器は準備オッケー・・」
集中治療担当の医師。麻酔科らしい。熟練してそうだ。
「モニターの数字では、SpO2は・・リザーバマスクいっぱいいっぱいで82ですか。さ、もう挿管していいですか?」
野中が出てきた。
「今、上の先生が家族に説明しているところです。管を入れるかどうか。それが決まるまでは待ってください」
「んー、そうだが。もうすぐICUカンファレンスがあるんでね」
野中が僕の方を向いた。
「先生、主治医なんだろ、この人の。家族へのムンテラは病棟医長がしてるけど、いいのか?行かなくて」
「ああそりゃ行くよ。でも何か起こるか分からんだろ」
「こんなに人がいるんだから。僕らが見てるよ」
「そうよ、主治医らしく印象付けないと」
川口はこいつの味方か・・そうかい。
向こうから病棟医長がやってきた。
「研修医諸君、ご苦労さん・・奥さんの要望で、意識がある間は呼吸器はつけないことになった。今は苦しそうなんだが・・一応意識はあるからね。意識がなくなったときのタイミングが難しいな」
麻酔科医は警戒した。
「我々の判断では困ります。そちらの科の先生がついておくべきでしょう。とにかく判断はしかねます」
「・・で、主治医、おう、ユウキな。血液検査では心筋酵素は上がってなかった」
「?心筋梗塞じゃないってことですか」
「うううん、梗塞になったばっかりなら血液に異常が出ないとか、そういう報告があったことないか?確か、○○ジャーナルの5月号で」
何言ってんだ。ホントか?能のない奴ほど論文に偏る。
「研修医しょくんに聞いても、いかんわな。で、院生は来たか。今日の院生は、だれがいた?確認したか?」
「院生の先生方はラットの入荷の契約とかで、市外にいます」と間宮。的確だ。
「なっ・・そんなもん、日曜日に仕入れに行けらっと!」
「1人医局にいらっしゃるようですが、中国人の留学生です」
みんな、病棟医長を見つめた・・。
「超音波検査、できる先生はおらんのか・・誰か」
すると間宮が
「教授なら」
「アホ!教授にそんなこと頼めるか!」
「しかし頼める人がいないなら」
「発症して何時間だ」
「・・3時間くらいです。血栓溶解剤はダメでしょうか」
「心筋梗塞と確定してないのにか?肺、呼吸器はとにかく関係ない。それは確かだ。肺炎はない!」
肺炎がなかったら、循環器疾患なのか?専門ってこんなものか・・。
「循環器の連中と連絡をとれ。バイト先だろうがかまわん!」
またか。
病名は、ひょっとしてと思われた「肺血栓塞栓症」だった。エコノミークラス症候群で最近話題になった。血栓がどこからか飛んできて、心臓と肺を結ぶ肺動脈を詰まらせた病気。肺の血管に起こるから、肺が心筋梗塞起こしたようなもの。心臓超音波では肺動脈が拡大、その手前の右心室は拡張、左心室をおしくらまんじゅうしていた。押されるその姿は、僕を象徴していた。押しているのは、オーベンだろう。僕は押されて、アウトプット;心臓から出る血液量が減って・・萎縮してしまう。ますますオーベンが押してくる。弱気のままじゃ、押されるだけだ。
結局抗凝固剤であるヘパリンが投与された。その後は比較的落ち着いたようだ。血栓溶解剤であるt-PAは保険では承認されてなかった。現在もそうだ。しかしモノは病院に置いてある。効果が大きいなら、保険適応など無視すべきだ・・。
医局では川口が必死でそのことを病棟医長に訴えていた。
「川口くん、まあわかる、わかるよ。t-PAは有効だろう。でも副作用が起こったら大変だよ。脳出血・胃潰瘍。ましてや保険適応外なのを使用したってことで家族から訴えられたら?君らは負ける、俺らも巻き添えだ。新聞に載る。教授のメンツは?そこまで考えたことあるか?めんどい家族とか、たくさんいるんだよ、お前ら知らないようだけど」
口調が荒くなってきた。
「病態の把握もできずに薬の使用を判断する権利は、君らにはないんだからな」
研修医全員、静まり返った・・。
病院の玄関。僕は憤慨していた。
「川口さん、アイツも診断できなかった。呼吸器疾患じゃないって。ところがどっこいだった」
「・・・あたしが落ち込んだとでも?」
「そうじゃないけど、腹たったろう」
「そうは思わない。どちらかというと、循環器のほうの専門でしょ?この病気は」
「呼吸器科だったら分からなくてもいいっていうのか」
「そうじゃないけど、他人のせいににしたらダメってこと」
「くやしくないの?」
「その悔しさを、自分に向けるのよ」
「それで、やる気が?」
「あたしは苦痛をバネにするほう。一生独身でもね」
「?」
「でもね先生、仕事時間中に図書館だとか、購買部とかでサボってる奴になんか説教されたくないの」
「あれ、なんで知・・」
「なんて冗談よ。あーあ・・飲みにいく?今度」
2人で・・?
「なかちゃんもよ。野中くんも。嘘よ」
「ああ・・だったら行かない」
「じゃあ明日、行こう。みんなには秘密」
明日は夜、用事があるんだが・・。
「どしたの、用事?家に早く帰るの?」
「あ、うん、早く帰らないといけなくて」
「1人暮らしなんでしょう・・?変なの。ビデオばっかり見てるんだーやらしい。じゃあね」
こんな約束したのは初めてだ。
みんなには、秘密、か・・・。
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