思えば周囲の開業医も変化した。コロナワクチン50名で補助金50万出る、という自治体の話が出てからおかしくなってきたように思う。そのころ(1年ほど前)開業医は通常の3~5割減で、閉院を迫られるところも多かった。いや、閉院かどうかはその後の融資=借金をするかどうかなのだが・・・。
そんなとき、彼らの多くにとっては朗報だった。検査キットの注文、発熱外来の別途設置。「この状況はもう何十年も続く」と発言する医師が増えた。
これらはあくまでも自分の体感温度だが、自分は<マイノリティ>に徹した。しかし患者は堂々とワクチンしたか聞いてくる。そこは胡麻化さざるを得なかった。何かの重苦しい映画と重なる・・・「リベリオン」?
著名な医療人がワクチンについて今も声高に奨励するが・・・研究者という立場は、個人的な犠牲があってもそれを統計的に抹消することができる。実験データも、例外的なものを除いたうえで素晴らしい曲線が出来上がる。それを上手に作れる者の論文が認められるようになっている。
信念の積み重ねで生きてきた者たちだから、自分の論ずることに反対する意見には、非人間的なほどに冷酷だ。統計的に抹殺する。最後は無視という形で。という手段も併せ持つ。
自分は、まだ小林よしのりのほうがマトモに映る。
コロナワクチン2回目の注射も、ようやく一巡して・・・それにしても、副反応の相談は多かったなあ。吸気時の呼吸困難から心膜炎を確認しようとしても、必ずしも心臓の周囲に液がたまるわけではないし、診断自体が難しい。というか、心膜炎の患者を持ったことのない医者自体がほとんどだと思う。心筋炎はそれこそもっと少ないのではないか。
医師にとって、未経験の病気ほど自信のないものはない。今回のコロナで、その意味がよく分かった。
医師の年収は確かに高いが、いつ起こるか分からない訴訟・事故を考えると余裕ぶっこくわけにはいかない。特に訴訟は、意外なタイミングで突然発生したりもするし、複数科を巻き込んで長期化するタイプもある。それでも日々の診療は続いていく。弱気なメンタルだと診療でも弱気になる。
そんなメンタルの現実逃避として、最近投資熱を帯びている医師・医局が増えているように思う。身近なものでは株取引だ。今やトイレでiphoneにて売買できるとは。どうりでトイレがなかなか空かないわけだ。
しかし、僕の知ってる限りこういったギャンブルは・・・(現物長期以外)全員失敗している。なぜか。簡単に言うと、ギャンブルする人間は毎日が<隣の芝生>でなければ苛立つ。なので地合いが悪い時でも勝負に出てしまい、負けるまで毎回試合に出る。もはや目的は<非日常>でしかない。
民間病院のリッチなケースでは、医局秘書なるものが存在する。各医師のスケジュールを把握して外部と連絡したり、雑用を背負ったり。医局の不具合のメンテナンスを引き受ける人物ともいえる。雰囲気を柔和にするためにも、女性のほうが好ましい。
しかし、その正体は・・・たいてい、病院長や事務長へは真の報告は伝わっている。個人情報を漏洩するわけではなく、あくまでも病院存続を第一にしてのこと。たまに病院経営を揺るがす情報が入ることもあるのだ。なので、絶対に(経営側からも医師らからも)信用のおけそうな人物が選ばれる。まあ愛人という場合もあるがね。
関心を持ち始めたら、いろんなことが連動して・・・繰り返し見ることに興味が尽きない。これができない医師は、人生が苦痛の連続だ。自分の専門分野が自分に合わないと知ったときは悲劇だ。しかし、苦手な分野でもそこでやり尽くせばその権威となりうる。その自信がまたやる気へと繋がる。
しかし、そうなるまでが正直しんどい。やる気のない医師への教育は、しょせん追いつめでないと分からせることができない。家庭教師などでやる気のない子供に当たった経験などしたことないか。いや家庭教師でなくても自分の子供への経験とか。
で、結論としては<なるようにしかならない>。でもそれは決してネガティブな意味ではない。変えようとして消耗して、でもまた新しい展開を夢見て。いい年の取り方ではないか!
だから自分は<なるようにしかならない・けど>、とあえて抵抗してみる。
部下がなかなか思うようにならず、僕は定食屋で時間をつぶした。この頃はガラケーが当たり前で、iモードとか言ってた頃だ。コンテンツも魅力がない。メールするタチでもないし。
「よっこらせっと」
ただ、ノートパソコンは常に持ち歩いていた。カードを差して、通信まで時間がかかる。この位置は壁に囲まれていて、ひょっとして繋がりにくい可能性。
「ふむふむ・・・おっ」つながった。点滅が止んだ。
ふつうにヤフーなどを見る。このところ凝って見ていたのは2ch。病院の口コミも現れるようになった。ま、スレッド建ては間違いなく病院関係者だろう。
自分がブックマークしていた<真田病院>を今日も見る。
新しい書き込みが3件。しかない。
<受付のオバサン、うっとうしい>
<駐車場、なんでいちいちスタンプもらわなあかんの>
<新入り医師、ただの給料泥棒>
給料泥棒。
なんてことを!と思ったが、それはうわべの感情だった。もろシンクロした。
「ホンマ、そうかもな」
ノートパソコンをたたんだ。近くのオッサンが何度も覗くからだ。
しかし、退屈でまた開く。これまで来たメールをまた見返してみる。時間を遡るほど、はじけた内容。
僕は湯気の蒸気する天井を仰いだ。
「ほんと、俺って・・・」
友達減ったなあ・・・。
さっきの重症患者のとこに行ったが、奴はいない。
「おい何やってんだ・・・トイレか?」
近くでナースがもうパニックっている。これから夜勤だ。
「ああ、これもせなあかん。あれもせなあかん。休むんやったら、もっとはよ言えよ!」
「あの」
「うわあっ!」ナースはどうやら僕の気配に気づいてなかったようで。
「ごめん、慎吾はどこに・・」
「あたしが出勤して着替え終わったら、廊下ですれ違いましたけど。はいバルーン!」
無意識に尿道バルーンを受け取り、そのまま処置。
「私服だったか?」
「はい・・・」
「帰りやがったか」
カルテを見るが、やはりよくわからん。でも、あれ以後の記載もない。
「このあと、ちょっと僕。指示出すわ」
「ええーっ?明日にしてください!」
「そうもいかんのよ。状態が一定するまでは」
カルテに検査伝票。画像も近くで表示。
「急性心不全。基礎に弁膜症があり・・・何が契機だ。何かあるはず・・・感染か。CRPが高い。レントゲンは肺炎像はハッキリしないが・・・尿沈渣は。これか・・いや肺と両方かも。培養は」
こんな感じで、触手をめぐらす。あと、抜けがないか手帳で確認。この手帳は・・世界に一冊しかない、自分の集大成が入ったものだ。中には、尊敬する先生のサインも入ってる。
「尿量の目標を設定・・・利尿剤の指示。あすの検査指示」
チラッと横目をやるが、慎吾はやはり戻ってきてない。
いや、そこに誰か立ってる。
「なんだよ事務長か」
「なんだよ、で悪かったですね」今でいうイケメンの事務長は、じっとこっちを見ている。
「こっち見るなよ。うっとうしい」
「医局長、ならびに教育係お疲れでございます。どうですか?彼の働きぶりは」
「お試し期間は3か月だったな。今日でもう半分かな」
「ええ」
「覇気がないんだよ。覇気が」
僕らはそのまま廊下を出た。
「もし救急とかドッと来てみろ」
「まあ彼はもと研究肌ですから。徐々に慣れてきますよ」
「民間病院はな。泥臭いんだよ。試練の過去が要るんだよ」
「ま、先生。優しくお願いします」
「甘やかすのかよ?」
「先生、今の時代。厳しくしたら人は去ってしまいます」
またコイツの孔明節か。
「世の中に合わせろと言うんだろ」
「優しさで、彼が目覚めるかも」
「お前が言うと、ホモ話にしか聞こえんよ。じゃ!」
僕はこの事務長への態度はでかかった。でも医師らにとって経営側は、油断ならない存在なのだ。下手したら慎吾よりも厄介だ。
それは、この後でもわかるようになる。
医局に戻ると、僕の右腕がコーヒーを入れていた。
「ちわっす先生!」山崎という部下。
「わざとらしい。逃げただろさっき」
「ばれましたか。巻き込まれたくないんで。教育係頑張ってはい!一丁あがり!」
「すまんな」
僕らはソファで並んで液晶画面を見ている。
「どうっすか?彼の暴れん坊ぶりは」山崎は爪を切り出す。パチン、パチンと。
「研究室から出てきた奴だからな。頭が固いわ」
「やさしいから先生。俺ならもっとキツくしばきまわしますよ」
「うちの病院にとって、やっと新米が入ったんだ。また新入り探すのは大変だ」
山崎は神妙な顔をした。
「アイツの給料俺、知りませんけど・・まあ俺らとそう変わんないでしょ。だったら、患者も多く持ってもらうべきっすよ」
「1つ1つ教えないといかんから。大変なんだよ」
「早いとこ、しごいてくださいよ軍曹先生」
「医局長なんて、やりたくないよ。雑用係だこんなん」
ガラッと戸が開くと、僕らは条件反射で口をつぐんだ。医局秘書だ。若い女性が雇われるのが常だ。
「ラーメン買ってきました~」彼女はそのまま台所の下の扉を開けて、どん兵衛などをしまう。当直用の非常食だ。
「1当直1個でお願いしますう~」
ぶりっ子しても許されるほどのメイクだ。当時はやりの<あゆ>メイク。しかしそれでも3か国語話せるのだから侮れない。
「まもなく17時ですね。タイムカード、お忘れなっく~やった今日はナイターだ!」テレビCMを見ている。
民間病院の医局。このぬるい雰囲気。手慣れた環境。しかしこんな病院でも、かなり多忙な日がある。その日はもう、目前に迫っていた。
山崎はタイムカードを押し・・
「じゃ、おっさきー!」
「僕は、慎吾のことがあるから」
「頑張ってくださーい!」
「さて」立ち上がった。
「今日も残業?」秘書が微笑む余裕。
「あんまり僕も、怒りたくはないんだがな・・・」
「ユウ先生の研修医時代を振り返れば」
「?」
「ちょっと優しくできるんじゃない?」
「ああ。そうだな。そうなんだが」
多分、このあと怒りそうな気がする。
なるほど、確かに人工呼吸器のアラームは鳴りっぱなし。痰吸引をする際に、いちいちアラーム停止を押すナース。
「あ、止まった」と慎吾。
「あのなあ・・・」
「で。大先生はどうなさるのですか?」
「そのまえに。どういう病態なのか教えてくれよ」
「カルテがないと。説明できないだろ」
「おいおい・・・カルテある?」
慎吾の字は、筆記体すぎて読めたものではない。
「心不全、これは循環器の医者が診断してくれて」慎吾が指さすが、もちろんなんて書いてあるかが読めない。
「これ、あってる?」失礼な・・・
「そいつはおれの右腕だから。問題ないと思う」
「胸水、どんどん抜いたんだよ」
「抜きすぎたら、よけい貯まることになるから気を付けなよ」
「胸水抜いて、早く呼吸器外したいんだが」
「それはお前の願望だろ」
僕は丁寧にカルテの欄外に記載。
「外科医やICUの奴に多いが・・・すぐ管入れて早いとこケリをつけようとする考えのもいる。悪いとは言わんが、感染のリスクを考えるとまず利尿剤の注射からだろう」
「地味やなあ」
「いいじゃないあ、地味で」
「で、何時間ごとに投与するの?」
「状況を見ながら」
「は~、またそれ・・・」
この男みたいな態度は初めてではない。叩き直すべきところは多そうだ。
「慎吾先生。患者の状況をずっと見続けることは、先生のおっしゃる<耳学問>に勝ると思う」
「見続ける・・・」
「じっと見るだけじゃアカンよ?この呼吸器に、モニターに、尿量に、呼吸状態。繰り返し繰り返し・・・」
慎吾は持ってたメモを閉じた。期待外れの表情だ。
「で?アラームはなぜに?」彼は懲りてない。
「え?ああ、そうだったな・・・あ、気道内圧が高い」
どうやら1回に送り込む空気の容量が多すぎるようだ。ダイヤルで減らす。
「いやでも、これで正しいと限らない。慎吾先生は、しばらくここで観察してて。で、今僕が書いたこの通りに従って」
「・・・アイアイサー」
彼は元気をなくしたが、まだまだこれから洗礼が必要だ。
うちの医局の慎吾という医者は、大卒後に大学院へ入り・・・運よく?研修医の洗礼を受けないまま、僕の勤務する民間病院に入ってきた。自ら進んで履歴書を持ってくるカモ、いや医者を断るはずがない。業者を通じて雇う場合、病院はその業者に1-2か月分の月給を支払う必要が生じる。
で、この慎吾というダルそうな医者が今日も根掘り葉掘り・・・たしか世紀末頃の話だったと思う。
「人工呼吸器の患者だけど・・・」彼はいちおう同年齢ではある。
「ああ、新患の人か。落ち着いてるの?」
「それが。アラームばっかり鳴っててな」
「(そこかよ)なんで鳴ってる?」
「いや、それが分からないから聞いてんねん」
「いやだから。何が考えられる?」
「それがおい。分からないから君に聞いてんだ」
「まず本とか読んで調べたの?」
「いや!だから!」
こうやって次第に怒ってくる医師もいる。
「本読むのもいいけど、耳学問が一番早いだろうが!」彼は強気だ。
「現場に行かんと分からんわ・・」僕は観念して、ソファから立ち上がった。
「さ。お願いしますよ大先生」
「いてっ!つつくな!脇を」
廊下を歩いてても、彼は黙ってない。
「どの設定が一番ええの?」
「状況によるだろ」
「状況?そりゃそうだろ」
「くっ・・」
事務長から頼まれて、暫くこいつの世話をすることに。しかし、それは友情の始まりでもあった。
少しずつ書いていくこと
2021年12月1日 連載SNSなどいろんなものを見る限り、残念ながら<弱い自分>というものは描かれていない。読ませるタッチは常に<勝者>であることを前提に描いており、要は自己満足なものだ。かといって愚痴っぽい内容の終始は、<敗者>であることを認めてのものだ。勝者は勝者の内容しか描かないし、敗者は敗者から出ようとしない。
自分がこれから描くのは・・・主には医師2人どうしの会話だが。どっちが正しくて何が正義でもない。ただ、実際にそういう会話が行われてどう対処して、それに対して自分はどう思うか。それをきっかけに考え直したり、反省したりすることができるか。良い感触ではなくとも、良い書物との出会いは自分を変える動機でなければならない。
自分がずっと持っているテーマは、その<信念>を持ち続けることへの葛藤だ。なるほど、患者を徹底して診療するには確固たる知識、それも最新のエビデンスに基づいてアップデートしていく。それがあるべき姿かもしれない。いやしかし・・・それはひょっとしてある視点から見ると、ものすごく独りよがりなものではないか?むしろ本題から離れてないか?
時には立ち止まって迷いながらの診療も生き方も、あってもいいのではないか・・・?弱いのも人間らしさではないか?
確かに医療人たちのSNS発言はかなりの専門性があり、敷居の高いところに位置しているようにも思う。ただそれに一貫性を持たせようとするあまり、自分の意見と異なる者への攻撃性は同時に差別的である。味方をつけて、戦わせたりする状況に酔っている。
結局彼らは・・・自分の信念をより柔軟性のないものに、聞き分けのない自分を創り上げてしまったのではないか。矛盾があってもそれは人間性なのに、信念のもとに生きようとする。それはもう宗教に近い。
日常がこの6-7年で大きく変わったのは、言うまでもなくiphoneをはじめとするモバイルの登場だろう。もはや小学生でも当たり前。コンテンツが多彩すぎて、今はみなその物量に追われている毎日に見える。食堂や教習所、いたるところの待ち時間でも誰も苦情は言わない。学生らさえも大人しい。
ブログからSNSへの流入が増えて、ブログもいつしかアフェリエイトの商売っぽいものが増えだしたのが悲しい。みな有名人の話に集まるようになる。医療人のもいろいろ読んできたが・・・
果たして、それが自分の糧になるのか?
いろいろ見てきた。平成から令和に変わっただけだが、それでもかなり様変わりしている。表現の自由が大きく奪われたような感覚。みな<現状>を書きすぎて、まるでCGで不可能がないような世界。表現したことがそのまま事実にでもできるのだ。言語がCG化した。しかしその内容は、大多数が望むものでなくてはならない。マイノリティ意見は、晒される。
しかしこの知名度の低いブログなら、表現の自由はまだ可能ではないか。
第10話 ICUカンファレンス
2015年9月22日 連載厳しい視線を投げかけてくる家族らを避けるように歩きつつ、カズは靴脱ぎ、手洗いへの準備へとかかった。ウイーン、とICUのドアが開いた。直後、浅黒い長身が続いて入った。
「何を調べるつもりで?」循環器の野中部長だった。
「あ、お疲れ様です」
「あの診療所で。何を?」
「あ、あそこでですか。ですから、過去の病歴を」
「どうせ細かい記録なんて、なかっただろ?」
カズはかまわず、消毒した両手をふき取った。帽子をかぶる。そのとき、野中のPHSが鳴った。
「緊急カテ?くそっ!」
「失礼します」
野中は去り、カズはICUの多数のベッドを縫うように歩き・・・奥のカンファレンスルームへ。途中、デンゼルの姿を探しつつ。たぶん、奥の呼吸器だ。身内がおらず、見舞いが来ないのは寂しいものがある。
夕方のカンファレンスは始まりかけ。医療器具のごったがえす部屋に、30-40の椅子がまばら。そのほとんどを、帽子・マスクした緑色オペ着の医者らが陣取る。遅れ目のカズは立っていた。
「カンファ始めます」前方に向かって座っている肥満体。中堅どころのその医者が、大汗の噴出した状態でプリントを配る。
「ああ、もう行きわたったかな」
カズの直前でプリントが切れる。その医者は振り向くがものともせず、データに視線を落とした。カズは上からなんとか見下ろせた。
「50代男性。こ、これは・・・呼吸器の大塚先生、ですね?」
肥満体は少し人間らしく見せたが、やっと露出した目が小さく仏像のようだった。
「はい」カズは大きく返事。担当医の若い医師が周囲を見渡す。
「主治医です。呼吸器にのせたあとは各種バイタルは安定。循環器科に打診しました。超音波ではEF70%と心機能は問題なし」
「喘息重責発作と?」と肥満。
「ステロイド大量投与中」
「近いうちに抜管?」
「可能と思われますが、循環器科が病棟で行うそうで」
「ここでやればいいのに」
肥満体はときどきカズを見ていた。まるで気のある女子のように。
「入院直後に、利尿剤が投与されていたみたいだけど?」と別医師。
「記録が曖昧ですが、循環器科があとで記入すると」
「なるほど?」
利尿剤が投与されていて、そのあとの心機能評価か。なら、心臓が悪かったかもしれないのでは。でもこの肥満の先生、カズを気にしすぎている感がある。デンゼルは言ってた。気になるしぐさがあるときは、もう1回覗け。病室でもなんでも・・・
カンファが解散した直後、カズはこっそりと肥満先生のあとを追った。というより、彼はそこの部屋にいたままだ。何度もPHSを押している。スロッターのように、素早い動作を繰り返す。
「あっち。ちち・・おっ」
どうやら、つながった?
「部長か。カテやろ?ごめん・・・・ま、セーフと違う?あの分だったら。いちおうアズマ(喘息)ってことやけど。彼も納得しとった様子やし。あ!」
近くのディスプレイの反射に気づいたのか、彼は後ろを振り返った。
「ちょっと待ってな。な、なに?」
「いえ」
「不気味なやっちゃな。なに?盗み聞きが趣味?」
カズは混乱のあまり、会議室を出た。動揺を隠せない。大した陰謀でないにしても、どうやら自分の周囲で渦巻くものがある。デンゼルはこうも教えてくれた。まずリーダーを疑え、と。リーダー、というのは指導する者、という意味ではなく常にその場を仕切る者。権限を与えられている者だ。
権限を与えられている者は、何かの絶対命令で動く。いや自分の意志にしても、それは民衆への配慮を欠いたものだ。組織というものがある限り、生存の順序は年功序列だから。
実はカズは、医師になって人間不信になりかけていた。最初はゆとり独特の無神経さもあったが、大人的にいろいろ受け入れるほど、耐え難い現実に立ち会うことになる。患者のための医療といえど、まずそれが第一になってない現実を突きつけられるのだ。
このICUも、そんな聖域に思えて仕方がない。ならば我ら研修医は、いざというときの捨て石予備軍なのだろうか?<ゆとり>呼ばわりの上級医師らは、僕らに何を目指せというのか?
デンゼルはかくも言い放った。<疑問符の終わる地点が成長の終着駅>であると。なら自分はまさに休まぬ夜行列車といったところか。行きつく先は闇か。トンネルの出口は・・・
「あっ。大塚先生」
衝撃的でもなかった。たしかに眠ったデンゼルが挿管され鎮静されているわけだが、ふだん診ている患者らと変わらない。ただ、今回はカズも自分に落ち目は感じていた。あのときデンゼルが呼吸困難になり、大学まで連れ戻すまでかなりの時間を要した。いろんな病院に問い合わせたが受け入れ無理で。
自分が医者なんだから、対応の場だけかしてくれと、無理にでもお願いすればよかったんだ。
カズは願った。どうか、どうか脳血流への影響がなかったことを、この近い先に証明されてほしい。
それは医局会というより、尋問会のようなものだった。海外出張より戻ってきた、ダンディな新任教授が大人ぶってコノ字型の中央を陣取る。その向かい側、カズは立たされていた。
「その。なんだな。僕は海外に出ていたから、何も知らなかったわけだが」
「・・・・・」
「上の許可も取らずに、紹介先の病院までわざわざ出向くものかね?」
「すみません」
教授の関心は謝罪ではなく・・・
「誰の指示だ?」
「指示ではなく、自分の判断です」
みな、こっちを冷ややかに見る。しかし目が合うと、すぐ逸らす。その繰り返し。
「それは違うとして。どうせまた、大塚君の暴走だろう。おい、彼に家族は?」
「ありません」デンゼルに忠実な古谷部長が答えた。
「よりにもよって、喘息発作とはな。なんだな?」
教授は循環器グループの野中部長を見やった。
「心疾患ではなくて?だな?」
「え、ええ。喘息の重責発作です。心機能は良好なので」
「さては、土地が合わんかったか」
カズは何か言いたげだったが、ポケットに手を突っ込み小さなメモ帳を握りしめていた。
「(違うと思う。あれは点滴したせいで・・・)」
教授は高価な腕時計を手首からずらし、サッと顔を上げた。
「患者の過去の病歴も分かるが、時間は刻一刻と過ぎている。未来を見失わないように」
「はい」到底、権力には逆らえない。
「君の未来もな」
「あっ、はい」
やっぱりか。
ズカズカと引き上げていく医局員たち。研修医らが、各指導医に今後の相談をしていく。指導医らは歩みを止めず、金銭にも等しい雑言をばら撒いていく。拾う研修医たち。
カズはしばらく呆然としていた。ああ、注意された。自分の評価が落ちた。どうやったら元に戻せるか。今後に指標はないか。ふつうの医者ならそう思っただろう。研修医ならなおさらだ。ここは自分を洗脳してでも、完璧さに上方修正したいところだ。
しかし、デンゼルに会って彼は少しずつ変わってきた。循環器グループでなく、呼吸器グループに回ってからだった。いや別に循環器の人間性がどうとかではない。デンゼルや古谷らの、個別だがその強烈な個性に惹かれたのかもしれない。循環器の集団心理よりも。
「君への代わりの指導は、僕が」ややうつむき加減の古谷が、斜め後方より囁いた。
「きちんと発言できず、すみません」
「多勢に無勢だ。研修医の小言な発言は、自分に不利となるよ。発言は小さいものほど、解釈が無限だからね」
発言は記憶に残る。自分でなく、他人に。それは時間とともに、株価のように価値を変える。口は災いの元というのは、医療ではなおさらあてはまる。
「それにしても、よく手に入れたね」
「ああ、あれですか。医局の引き出しにあります。泥棒になるんでしょうか」
「いや、僕が指示したことだ。責任は取る。それに、そのカルテの患者はうちに入院してるんだ。もう戻ることもないだろうし」
「貴重な情報があるかどうか」
「あの診療所のカルテは難攻不落、というくらい読みにくい。ちょうど他科の言語学の知り合いがいる」
「解読、お願いします」
古谷は、そこまでしてそのカルテが欲しかったわけだ。しかし、そこまでの価値があるんだろうか。教授の言う通り、未来を見失うことにならないだろうか。
ペコッと頭を下げて、カズは廊下へ出向いた。しかし方向がしばらく定まらず・・・
「・・・・・」
一路、ICUへと向かった。その後ろ、ゆっくり近づく影があった。
第8話 FAILURE
2015年9月14日 連載 デンゼルは、日焼けした裸体(上半身)をさらし、診察室の副院長と向かい合った。
「だから。なんで脱ぐん?」
「診察しない内科医でないなら。君は誰だ?」
「いちおうオレ、医者なんやけど・・・」
副院長はクルッ、と振り向いた。
「カズ先生。ほらもう5時過ぎてるで。帰りいや!研修医はもう終わりなんやろ?」
「まあ待て」制するデンゼル。「この先生は見たことがある。そうだ!大学の先生だ!」
あまりにもわざとらしい芝居。
「大学の先生!あなたは呼吸器科の!」
「決めてません」とカズ冷淡。
「呼吸器科!そうだろ進路はもう決まったも同然だ!」
デンゼルの丸椅子がくるっ、と反転され背中の聴診。
「ちょっと、喘鳴があるんとちゃうか?」
「えっ?」カズは驚いた。ホントに病期なのか。
「点滴や。点滴。たぶん、ぜんそくやろ。かんごふさーん!」
デンゼルは、カズへ顔で指示した。
<今のうちにカルテを見ろ>
カズはさきほどのカルテを、隅の方でめくりまくった。
「・・・・字が。字が読めない。しかし部分的には」
5年前。肺癌手術後して大学病院を退院後にこの病院へ。大学の再診をせず、いや・・する前に、風邪をひき・・・この病院へ臨時で受診。これが始まりだ。
その後、薬剤アレルギーからか、重大なアナフィラキシー。呼吸困難。なんとか助かるが、この病院での通院を毎日命ぜられる・・・そして月日は数か月過ぎる。大学の受診も行けることなく。
「まるで囲い込みだ・・・」
点滴通院を続け、検査を毎月。呼吸状態が悪く、在宅酸素導入。
「点滴が500、1日2回も。これで悪化したんだろうか」
今から2年前。胸痛にて救急車より問い合わせ。このとき非常勤が待機していて、受け入れ拒否。怒った院長は呼び戻そうとしたが・・・患者は民間の大病院へ。
「これが、2年前の心筋梗塞か。その民間病院からの診療情報も、なしか・・・」パラパラめくるが、資料関係はない。封筒はあるようだ。だが中身がない。捨てられたか。
「そのあと、ここへ連れ戻される。受診はこれまで一貫して契約施設から」
そうか。この患者は・・独り身をいいことに、この病院から都合よく利用されたのでは・・・。
遠くでは、デンゼルが起坐呼吸になっている。汗が流れる。点滴がボタボタ落ち続ける。こちらに向かって、またピースするが、苦しそうだ。
「ま。点滴したら、ましになるんとちゃうか?」副院長が白衣両ポッケに手を突っ込んだまま喋る。
「フー。ヒー。ありがと、ヒー」しかし、どんどん呼吸は悪化しているようだ。
「まーそしたら。今日はもう終わりやからねー。帰って水分取って、よう寝やー」
どこまでも、ありきたりな開業医。彼も以前は呼吸器科でよく働く医者だった。しかし大学を離れるとどんどん医学から置いて行かれ、お山の大将になった、プライドだけが。
受付嬢によって、あちこちのサッシが閉じられていく。部屋はだんだん薄暗めになっていった。開業医での点灯の速さは鮮やかだ。
「なんや?まだおんのか!」副院長は隅のカズをにらんだ。
「あの患者さん。ちょ、調子が悪いのなら」
「なに言うとん?あいつには治療したんやで?」
「呼吸状態は悪化してます!」
「なんやて?」
カズは、そのまま胸ぐらをつかまれた。
「ぐっ!」
「ええか~きいとけ。年上にはむかったら、この世界じゃ生けていけんのやで~?ゆとりが何ほざいとん?」
「くくく・・・!」
バアン、とカズは外に放り出された。デンゼルも何とか壁伝いに出てきた。すると、診療所の電気が一気に消された。とたんに周囲は闇に切り替わった。
「医局長!」倒れる寸前のデンゼルを、カズはガシッとつかまえた。
「ヒー!フー!ああ、患者を演じるのも楽じゃないなヒー!」タバコを取り出そうとした手を、カズは弾いた。
「ご、ご病気だったんですか?本当に?」
デンゼル医局長はジャージのポケットから錠剤を出した。
「フーヒー!古谷に、俺を病人にしてくれと頼んだら。これを飲めと」
「これは・・・βブロッカー?そこまでして病人に?」
「ああ、気を引くためにな。連絡がないからお前が心配で。だがちょっくら、飲み過ぎたヒー!」
カズは憎らしげに、暗くなった診療所を見上げた。
「あの副院長。喘息と、全然違うじゃないですか!」
「あーいや。心臓喘息、という言い訳も立つ。ヒー」
「あれだけ点滴したから、もうバリバリの心不全になってますよ。どうしますか?大学へ戻りましょう!」
カズは、車のドアを開けた。
「助手席に乗ってください。さ。大学へ行きましょう!」
「ホヒー!」医局長はかなり前のめりになった。げぼげぼ、と嘔吐物が足元にまき散らされた。
医局長は息も絶え絶えになりつつ、自分のウエストポーチのチャックを指差した。手が震えて、届かない。
「医局長・・・医局長!医局長!」
「ヒー・・・」
「これは?まずい・・・!返事をしてください!あのだれか!ふくいんちょ・・」
暗い診療所はやはり暗いまま。何のアクションもない。ただ目が慣れていたのか、誰かがそこに顔を出していたのは分かった。白いカーテンの狭い間、そこに浮かぶ宇宙人のような無表情。あの副院長が、キツネのようにつり上がった邪悪な目でこちらを凝視している。
その頃上映していた映画で流行したセリフ、をカズは手当たり次第に叫んだ。パワーウインドウが開いた。
「誰か、助けてくださーい!」
「だから。なんで脱ぐん?」
「診察しない内科医でないなら。君は誰だ?」
「いちおうオレ、医者なんやけど・・・」
副院長はクルッ、と振り向いた。
「カズ先生。ほらもう5時過ぎてるで。帰りいや!研修医はもう終わりなんやろ?」
「まあ待て」制するデンゼル。「この先生は見たことがある。そうだ!大学の先生だ!」
あまりにもわざとらしい芝居。
「大学の先生!あなたは呼吸器科の!」
「決めてません」とカズ冷淡。
「呼吸器科!そうだろ進路はもう決まったも同然だ!」
デンゼルの丸椅子がくるっ、と反転され背中の聴診。
「ちょっと、喘鳴があるんとちゃうか?」
「えっ?」カズは驚いた。ホントに病期なのか。
「点滴や。点滴。たぶん、ぜんそくやろ。かんごふさーん!」
デンゼルは、カズへ顔で指示した。
<今のうちにカルテを見ろ>
カズはさきほどのカルテを、隅の方でめくりまくった。
「・・・・字が。字が読めない。しかし部分的には」
5年前。肺癌手術後して大学病院を退院後にこの病院へ。大学の再診をせず、いや・・する前に、風邪をひき・・・この病院へ臨時で受診。これが始まりだ。
その後、薬剤アレルギーからか、重大なアナフィラキシー。呼吸困難。なんとか助かるが、この病院での通院を毎日命ぜられる・・・そして月日は数か月過ぎる。大学の受診も行けることなく。
「まるで囲い込みだ・・・」
点滴通院を続け、検査を毎月。呼吸状態が悪く、在宅酸素導入。
「点滴が500、1日2回も。これで悪化したんだろうか」
今から2年前。胸痛にて救急車より問い合わせ。このとき非常勤が待機していて、受け入れ拒否。怒った院長は呼び戻そうとしたが・・・患者は民間の大病院へ。
「これが、2年前の心筋梗塞か。その民間病院からの診療情報も、なしか・・・」パラパラめくるが、資料関係はない。封筒はあるようだ。だが中身がない。捨てられたか。
「そのあと、ここへ連れ戻される。受診はこれまで一貫して契約施設から」
そうか。この患者は・・独り身をいいことに、この病院から都合よく利用されたのでは・・・。
遠くでは、デンゼルが起坐呼吸になっている。汗が流れる。点滴がボタボタ落ち続ける。こちらに向かって、またピースするが、苦しそうだ。
「ま。点滴したら、ましになるんとちゃうか?」副院長が白衣両ポッケに手を突っ込んだまま喋る。
「フー。ヒー。ありがと、ヒー」しかし、どんどん呼吸は悪化しているようだ。
「まーそしたら。今日はもう終わりやからねー。帰って水分取って、よう寝やー」
どこまでも、ありきたりな開業医。彼も以前は呼吸器科でよく働く医者だった。しかし大学を離れるとどんどん医学から置いて行かれ、お山の大将になった、プライドだけが。
受付嬢によって、あちこちのサッシが閉じられていく。部屋はだんだん薄暗めになっていった。開業医での点灯の速さは鮮やかだ。
「なんや?まだおんのか!」副院長は隅のカズをにらんだ。
「あの患者さん。ちょ、調子が悪いのなら」
「なに言うとん?あいつには治療したんやで?」
「呼吸状態は悪化してます!」
「なんやて?」
カズは、そのまま胸ぐらをつかまれた。
「ぐっ!」
「ええか~きいとけ。年上にはむかったら、この世界じゃ生けていけんのやで~?ゆとりが何ほざいとん?」
「くくく・・・!」
バアン、とカズは外に放り出された。デンゼルも何とか壁伝いに出てきた。すると、診療所の電気が一気に消された。とたんに周囲は闇に切り替わった。
「医局長!」倒れる寸前のデンゼルを、カズはガシッとつかまえた。
「ヒー!フー!ああ、患者を演じるのも楽じゃないなヒー!」タバコを取り出そうとした手を、カズは弾いた。
「ご、ご病気だったんですか?本当に?」
デンゼル医局長はジャージのポケットから錠剤を出した。
「フーヒー!古谷に、俺を病人にしてくれと頼んだら。これを飲めと」
「これは・・・βブロッカー?そこまでして病人に?」
「ああ、気を引くためにな。連絡がないからお前が心配で。だがちょっくら、飲み過ぎたヒー!」
カズは憎らしげに、暗くなった診療所を見上げた。
「あの副院長。喘息と、全然違うじゃないですか!」
「あーいや。心臓喘息、という言い訳も立つ。ヒー」
「あれだけ点滴したから、もうバリバリの心不全になってますよ。どうしますか?大学へ戻りましょう!」
カズは、車のドアを開けた。
「助手席に乗ってください。さ。大学へ行きましょう!」
「ホヒー!」医局長はかなり前のめりになった。げぼげぼ、と嘔吐物が足元にまき散らされた。
医局長は息も絶え絶えになりつつ、自分のウエストポーチのチャックを指差した。手が震えて、届かない。
「医局長・・・医局長!医局長!」
「ヒー・・・」
「これは?まずい・・・!返事をしてください!あのだれか!ふくいんちょ・・」
暗い診療所はやはり暗いまま。何のアクションもない。ただ目が慣れていたのか、誰かがそこに顔を出していたのは分かった。白いカーテンの狭い間、そこに浮かぶ宇宙人のような無表情。あの副院長が、キツネのようにつり上がった邪悪な目でこちらを凝視している。
その頃上映していた映画で流行したセリフ、をカズは手当たり次第に叫んだ。パワーウインドウが開いた。
「誰か、助けてくださーい!」
第7話 デンゼル・ピース!
2015年9月14日 連載副院長が小川のほとりで眠っている隙に、カズは病院の受付へと。
小窓の奥には、田舎にいるにはもったいないような若い女性。何段階かかかって、やっと窓が開く。デスクからその窓へ乗り出す。
「どうしました?先生」
「お世話になります。今日の日直のカズです。お借りしたいカルテがありまして。いえ、ここで見るだけでいいんです」
女性は、まるで誘うかのような怪しい目に変わり、カズを品定めする。
「ふーん。患者さんのお名前は?」
「・・・という方です。60代の男性で、5年前に大学病院で肺癌の手術をした方です。退院後は住所不定で、受診に来ず。その方がつい先日、ここからうちに紹介されてきたんです。紹介状には<血痰あり、2年前心筋梗塞>。それだけです」
「ふーん・・・短い紹介状だね」
その事務員が、うっとりカズを眺めていたのには、カズ本人もなんとなく気づいてはいた。
「ふーん・・・若いっていいなぁ。やっちゃおうかな」ギャハハ、と奥のデブ女性が笑う。とたん、こちらを睨むデブ。
「いえいえ。僕は食べられませんので」
デブ女性が、なにを、っと睨んでくる。田舎の人間は、読めない。
ただ、こうマトモに答えてその場をしらけさせるのが、カズの特徴だった。<KY>という言葉が流行したのは、それからしばらくあとの事だった。
「そのかんじゃさん、しってーるよー」
「そうですか。できれば受診記録をお見せ願えれば」
「うん。だってさー。毎月うちに来てた人だよ。ずっとね」
「えっ?いつからです?」
その患者は5年前の手術後からその開業医のところに現れて、ずっと受診していたらしい。血痰が出たつい先日まで。
「5年間、ずっとそちらに受診されてたんですか?」
「すっごい明るい人だったけど、院長が怖くってさ」
「院長先生は、そんな怖いような感じは・・」
「甘いな。あのじじいは、あの患者にだけは厳しかったの」
「それはまた、どうして・・わっ」
デスクから身を乗り出した彼女のスーツ、内側にシャツはなく胸の谷間がモロに白くのぞいた。しゃげた軟式ボールが2つ。
「これ。カルテ」
「あ。ありがとうございます」目線は完全にばれているだろう。カズはもうここを早く出たかった。診察で裸は診ていても、チラリズムには弱い。
「じゃあ2年前、心筋梗塞っていうのは・・・」
すると、それはいきなり横取りされた。
「えっ?」
「は~い。ダメダメ~!」さっきの伊藤英明似の、副院長だ。
「あの、副院長先生」
「ふうん?」副院長はいきなり肩を震わせた。「いま、なーんて?」
「カルテを、参照したいんです」
「いま、なーんて?」
そういやさっきの事務員はカルテ渡すとき、表紙の茶色いシールを見て、ハッと驚いていた。ここではどういうサインなのか・・・。
「ですから、カルテを」
「こじん、じょうほう!」高身長の副院長は、カルテを高々と頭上にかざした。
「こじんじょうほう、って今、うるさいやんか?」
「話しておくべきでした。こちらの患者さんが当院に入院になりまして」
「さっきー。僕のことを。ふくいんちょう、ってなんやねん」
「え?だって副院長」
「わわ!きっつぅ~!」
副院長は、どうやらそう呼ばれるのがたまらなく嫌なようだ。<じじい>への怒りからだろう。
「いま、冠動脈がれんしゅく、しおったわ~。カズ、インデュースト!」
「あの。時間があまりないんで」
「え?そうなん?」
夕方の4時45分。
副院長はキョトンとしていた。
「まだ、こんな時間やんか?」
「いえ。僕の都合です。アルバイトは5時までなんで」
「おまっ・・・!」
副院長は激高した。
「おまえ、嫌いや!嫌いになった!」
「もう少し、情報をいただけたら!」
「なんでや。そりゃ、このカルテは分厚いけどな。でも2年前に心筋梗塞、今回血痰、それだけでええやん?どんな不服があるん?うちの病院を疑うん?」
「ではお伝えします。うちの大塚医局長と古谷部長がおっしゃったことですが。紹介状の内容が、詳しくないから聞いて来いと」
「誰やねん?大塚医局長って。知らんわそんなやつ。最近来たやつやろ?もうええ。大学へなんか、もう紹介なんかしてやらん!」
そのときだった。
「オーウ!オーウ!はっはは」爽やかな声。もしや・・・
「あいつ、だれなん?」副院長は、邪魔な梅の枝を手でどけ、中庭のバタバタ音のほうを見やった。
「あっ・・・」カズは手を顔にタッチした。何の諦めなのか。
「犬と、たわむれてるやん?」病院につないである犬。<お父さん>と書いてある茶色い犬小屋から、チェーンがピーンと伸びている。
その白い犬が、ギリギリ届いて立ち上がったその向い、デンゼル大塚がじゃれている。黒い帽子、黒いジャージ。ラッパーのようで、医者とは思えない。
「あーっはっは。わかったわかった。ん?」
無邪気な顔になって、大塚医局長は振り向いた。
「?」
「君。だれなん?お父さん(犬)に、何あげたん?」
遠くの距離から、副院長が不快に尋ねた。
「まだ診療時間のはずだ。まだ・・(少し、しかめ顔)診れるはずだ。保険証はないが、病院の義務だ」
「病院の義務って。なんなん?あんた。来る科を、間違えとんちゃうか?」
デンゼルは小ばかにするように、うつむき加減で顔を両側へ振り続けた。
「はっは。おいおい。(クワッ)医師法第19条第1項!」
「わ!びっくりしたぁ!」
みな、固まった。
「診療に従事する医師は!診察治療の求めがあった場合!・・・正当な事由がなければ!これを拒んではならない!」
「名前、誰なん?どこの奴なん?」
デンゼルは白い歯を見せた。
「俺か?俺は患者だ・・少なくともここではな」そう言って、カズに小さくウインクした。カズは無視した。呼吸器科は、入るのはやめよう、そう思った。
すっ、と副院長は受付に戻っていきつつ、言い放った。
「もんしん、書きいや!はよ!」
デンゼルはニヤッと笑い、分からないようにピースした。