「だめだ、挿管できない!」

 やっと安部先生がかけつけてきた。

「あ、安部先生。館内放送で今、呼び出そうかと」
「そっちへちょうど向かってたのよ。チューブ、入らない?」
「ダメです。声門が全然見えなくて・・申し訳ないです」
隣では看護婦が気管支鏡を用意していた。
「看護婦さん。気管支鏡、挿管チューブに通した?準備できたわね」
「それで入るんですか?」
「これを使えば、直接覗きながら確実に入れれるでしょう?」
「なるほど・・・」
挿管チューブ付のファイバーが鼻から挿入され、5秒で片がついた。

「入ったわ。テープ固定、アンビューして、先生。レスピレーターは病棟で付けましょう」
「先生、病棟は呼吸器科のところを・・」
「あなたの循環器科の安定している患者を、呼吸器科へ移したわ。だから循環器科へ上げる」
「移したって・・・?いつの間に?」

 そんな相談してたのか?

「こちらはもう手一杯なのよ。呼吸器科に割り当てられたベッドは少ないしね」
「そんな・・・」
「大丈夫よ先生。先生はレジデントでしょう?何でも診なきゃ」
「そういう問題では・・」

 ボスミンの反応か、脈が戻ってきた。安部先生は紹介状を手に取った。
「肺水腫・・・これしか書いてない」
「主治医の同乗もなかったんです」
「ああ、この先生ね。今日はハズレね」
「ハズレ?」
「この先生がこの病院の当直した日はもう大変なのよ。使い物にならないんだって」
「よくクビにならないですね」
「医師会の会長の息子よ」
「だとしても・・」
「そういうものよ」
「そう・・・ですか?」
「さ、あとはもう私が診るわ。先生はその患者さんを病棟で診てあげて」

 というか、もう朝の6時だ。


 その患者は利尿剤に徐々に反応してきた。








 早朝。

自転車で、いつものように医局付近の駐輪場へ。外では山下達郎のNHK朝ドラのテーマ曲がわずかに聞こえる。
「Dreaming Girl・・・」

医局へ入った。みんなまだ出勤してない。と、机の上に郵便物が。その中に手紙がある。
「残暑見舞いか・・・」
そこには「そちらへ近々また伺いますので、宜しくお願いします」と。
「誰が・・・」
差出人のところを見ると・・・
「川口・・・懐かしいな」
住所は・・大学病院からだ。あんなとこに、まだ居るのか・・・。もう1通来てる。
「飲み屋のペテンのオバちゃんか・・・」

その夜、僕は1人でそのバーへ向かった。

「オバちゃん、こんにちは」
カウンターにはジャズが流れており、カウンターには客は1人もいなかった。化粧の濃いママと手伝いの若い子だけだ。
「おやまあ、珍しい!ユウキ坊ちゃんじゃないの?1人?」
「はい。いいですか?」
「どうぞどうぞ!あらあら、忙しいところ、来てくれたのねえ・・ああこの子、新人のミカちゃん」
「ミカです、よろしくお願いします」
「こちらこそ・・で、オバちゃん。大学の人間らは来てる?」
「ああ、来てるよ・・皆・・で、注文は?」

かなり酔いが廻ってきた。
「オバちゃん、グッチや野中らはここに来てる?」
「ああ、来てるよ。グッちゃんは男の人と腕組んでね」
「なに!」
「ウソだよ。大学院の同志たちとでさあ」
「大学院?」
「彼女は春から大学院だよ」
「野中だけかと思ってたけど」
「今はさ、若いうちに博士取って、それから大学出てもう戻らないっていう考えが多いね。そんなに大学って嫌なところなのない?」
「・・いろいろね」
「偉い先生方がたくさんいるじゃあないの」
「そうか?」
「あんたのオーベンの、窪田先生。あのオカマみたいな先生だよ」
「今も指導医ですか?」
「さあ知らんが。あんたのことを一番心配してる」
「余計なお世話を・・」
「いやそうじゃなくて、あんたが一番かわいかったのさ」
「気持ち悪いな。しかし何で過去形なんだよ?」
「あんたがいい医者になるようになるように、いつもここで喋っていたよ」
「いつの話?」
「あんたが指導を受けていた頃から」
「いい医者ね・・どういうのをいうんだろ?」
「私からも、その先生にはお願いしてるのよ」
「ああ・・それは、どうも」
「で、結婚はどうするの?」
「プッ!」
 唐突な質問に不意をつかれ、吐き出してしまった。
「オバちゃん、若い子のいる前で・・ねえ、ミキちゃん」
「ミカです、どこの子と間違えてるんですか?」
「ああ、ゴメン。でね、オバちゃん。やっぱホントに好きな人と一緒になるのは、難しいな」
「あたしは今でも独身さ」
「・・・オバちゃん以前、誰かがオレのこと好きだとか言ってたって」
「?・・ああ、覚えてる」
「誰だよ、それ?」
「知ってるくせに言うのはおよしよ」
「な?」
「その後、あんたが彼女にアタックしたんじゃないのかい」
「アタック?してないしてない」
「それが聞きたくて、ここに来たんだろ?」
「何が?」
「まあ、若い頃ってのは、何も見えてない、意味が解ってないことが多いものさ」
「はあ?」

 オバちゃんは知らない間にやってきていた客へ注文を伺いだした。

「オバちゃん、説教ありがとう。おあいそ」

 僕は自転車でまた走り出し、アパートへ向かった。

「もう9月か・・・」

 肺水腫で入院した患者は急速に回復、抜管後酸素マスクでの吸入を継続していた。
「・・でして、来週には大部屋に移動をと」
「なるほど」

 重症回診が終わった。スタッフは散り散りになり、午前中の各々の持ち場へ向かった。
オーベンと僕が残った。
「ユウキ先生。ARによる心不全だね」
「逆流はかなり大きかったですね」
「もうすぐ酸素は中止できると思うが、左心室はかなりデカい。左室拡張末期径で・・オペ適応の75mmほどではないが、65mmはある」
「収縮末期径が44mm・・こっちもオペ適応の55mmほどではないですね」
「ほかに疾患はあるか」
「大動脈瘤があるかと」
「何?そっちのほうが危ないじゃないか」
「レントゲンしか撮ってませんが・・左の第1弓がかなり拡大しています」
「・・・ああこれか・・先生。一見大動脈が張り出して見えるが・・。これは違うよ」
「え?」
「斜位だよ、この写真は」
「シャイ?」
「体が斜めになってて、正面から撮れてない。左右の肋間の距離が違う」
「あ、そうか・・」
「まさしく君が日頃強調している、左右差だ。で、先生。心不全が改善したのはいいが、今後はどうフォローする?」
「3ヶ月に1回エコーして、径が大きく・あるいは収縮能が低下傾向になれば、心臓外科へ紹介でしょうか」
「そうだな。弁置換だな。今日は珍しく答えられたな」
「たまには、です」

 ついさっき本を読んだところだったのだ。時には知ったふりも必要だ。

「ユウキ先生。今度、大学病院から膠原病が送られてくる。PH精査で」
「コラーゲンで肺高血圧・・・MCTDですか」
「そのようだ。ガンツカテーテルを心臓内に留置し、2週間プロスタグランジンを点滴する。その経過中の検体が欲しいと」
「大学からの要望ですか」
「君の大学のな。僕の大学とは違うから、気は楽だ」
「先生んとこは帝大ですよね。凄いなあ」
「でも、ひょっとしたら・・地方大学出身の帝大医局員、かもしれないぜ」

 大学からの連絡とは裏腹に、その患者は2日早く病院を受診、そのまま入院となった。というか、転院である。

 僕はコールがあって、下の外来へと降りた。

 

<つづく>

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