ジープから出てきたオジサンは、ジャージ姿だがいかにも紳士といった感じの人だった。堤防の上からこちらを見下ろしている。
「どーしたんだー?」
僕は這いつくばるように車を出て、雨に濡れながら堤防を駆け上がった。
「ああ!待ってください!く、車が落ちまして・・」
「なんか派手に落ちたんだな」
「登ってくるときに・・後ろに落ちたんです」
「ケガはねえか」
オジサンは僕のあちこちを見まわした。
「ええ、ありません。ありがとうございます。なんとか車を上げる方法を考えてまして」
「上げる方法なあ・・・こんな雨やしなあ・・・」

 オジサンのキャップから大粒の雫がポタポタ音を立てていた。

「まあこの車なら、引き上げることもできるかの」

 やった!

「でも距離がけっこうあるのう。ロープはあるけども、砂に埋まった車を引っ張れるかどうか・・・」
「・・・・・」
「まあ、やってみっか」
「はい、ありがとうございます!」
「しっかしアンタぁ・・こんなとこで、なあにをしよったの?」
「え?ああ・・」
「じゃ、このロープ。あんたの車に引っ掛けて、縛って」
「あ、はい」

 オジサンは車までやってきてくれた。
「ハハ、あんた、そんな結び方はなかろう。常識ねえなあ・・いいよいいよ」
 オジサンは自ら紐をくくってくれた。
「ヒモの結び方とか、最近の若い者は知らんのだよなあ。肝心なことを教えてねえんだ、学校は。あんたは・・学生さんかい?」
「え、ええ」
「だろなあ。今日は平日だしな」
「は、はい」
「そうだなあ、おい、車の周りの砂をな、できるかぎり掻き分けて、出そう。そのほうが引っ張りやすい」
「はい」

 大雨の中、僕らは必死で砂を書き分け始めた。僕が1人でやります、なんて言う勇気もなしで。
なんて汚い、卑怯な奴だ・・・。

 僕らも処置するときは、なるべく視野を十分に取るとか、そういったことが基本として大事だったりする。
木ばっかり見ていてはダメだ。

「ああそれとよ、アンタ。車の通るその道」
「ええ」
「濡れて滑りやすいから、なんか置こうか。あまり濡れてないのがいいな」
「はい、じゃ・・・これを」
「本か。やたら分厚いな。いいのかい?」
「ええ」
 といいながら、5冊分冊の内科学の本を、僕は千切りはじめた。
「なんかツルツルしてんなあ。でもいいのかい」
「いいんです」
「あんたの教科書だろ」
「ええ」
「モノは大切にしなよ。あんたの親のスネがますます大変だあ、ハハ」
「は、はい・・・」
「じゃ、わしは葉っぱを拾って、撒いとく。あんたは運転席な」
「はい」
「エンジン、吹かしよってな」
「はい、ギアはローで」

 オジサンは葉っぱを車道に撒き、ジープへ戻った。
しばらくして双方の車のタイヤのきしむ音。キュルキュル・・・・。
ゴムの焼ける匂い、雨・砂浜の匂いがしてきた。
ジープがピークの向こうにいったが、ロープがピシッとなっただけで、こちらの車は登っていく手ごたえが感じられない。

 キュルルルルルッルル・・・・・・

ダメだ。こっちの車が多少横に流れるだけだ。ロープはかなり緊張しているものの、車を引っ張るまでには至らなかった。

 オジサンは戻ってきた。

「ダメだなあ」
「そうですね・・」
「何か、方法はないかのう」
「・・・」
「ちょっと暗くなってきたしの。ううん・・・」

 オジサンは必死に次の手を考えてくれていた。他人事なのに。

「あんたの車の積荷を軽くするとか、はどうかの?」
「な、なるほど」
「しかし、もう時間がのう・・」
「すみません。ホントは用事があったでしょうに」
「え?いやいや。わしは一人身だから。胸が苦しいときとか最近あってなあ。医者に世話になる年になってしもた」

 僕の専門領域じゃないか・・。よりによって。しかしヒヨっ子だけに、くやしい。

「年金で暮らしたら分かるよ。若いときは苦しいが、苦しいのを体験させてもらえるのは、そのときだけじゃ」
「・・・」
「今は、ポックリ逝きたいよ」
「そんな・・」
「だからアンタ、苦労っちゅうのは〔させてもらってる〕という心構えでな・・」
「はい」
「もう時間がこんなんだ。暴走族とか来てもいかんし・・わしは、いったん車で出て、助けを呼んでくる」
「ありがとうございます。なんといっていいのか・・・あ!これ!」
「・・?何かのカードか?」
「JAFの会員証なんですが、期限切れなんです。入会し直しますので、ここに電話して頂けたら・・」
「これに電話したら、来てくれるんかい?」
「ええ」
「ほおー・・・分かった。しばらく待っててな。公衆電話自体、ほとんどない所だからな」
「ええ」

 オジサンはロープを片付け、カウボーイのように堤防の向こうに消えていった。
雨はまだ降っており、後ろの太平洋では稲妻が遠くに見えているようだ。
「そうだ、CDを・・」
 バラバラになったCDをかき集めた。ケースは衝撃で割れていた。期間限定で発売されていた、ミスチルの
アジア限定発売の逆輸入盤だ。ベストアルバムといった内容で、その後数年間ベストは出ていなかった。

『あーあ・・・長いレールの上を・・・・・歩む旅路だー・・・』

 辺りは暗くなってきた。シートを倒して待ち続けた。なんか頭と脚がまっさかさまで、ドリフ大爆笑の無重力
コントみたいだ。

 オジサンについていきゃ、よかったな・・・。でもオジサン・・・あのまま帰ったんじゃ・・?他人のためにずぶ濡れになって、
他人のために泥・砂だらけになって・・・僕は人の心そのものを病院という過酷な環境で、まっこうから否定していたような気がする。
人の心を信じたい・・・。僕は別のCDを取り出した。古いが、ハマショーの「PROMIST LAND」、最後の曲。

『愛を信じたい・・・!人の心の愛を信じたい・・・・!』

 ふと思い、尾崎豊のCDも取り出した。「BIRTH」、のうちの10分超の曲。

『人の心の愛を、信じていたいけど・・人の心の幸せはとても小さすぎて・・・誰にも心の掟を破るわけにはいかないから・・』

 たしかそんな歌詞だった。

 オジサンが去ってから5時間。もう夜の9時前だ。ガソリンも少ない。EMPTYより少し下なのは・・タンクが傾いてるから、と
思うことにしよう。だがやっぱり不安なので、エンジンを消した。車内灯も。聞こえるのは宇宙空間のような風の怪しい音と、
打ち付けるような波の音だけだった。

 ダメだ・・・。オジサン、帰ったんだよ・・たぶん。
 そりゃそうだ。僕だったら、多分・・同じようなことになったかもしれないな。

「そ、そうだ。パッシングすれば・・・」

 堤防の頂点に向けて、パッパッとパッシングした。モールス信号さながらだ。ビームは宇宙空間に消えていく。
誰か気づいてくれないか・・・。

 僕には休息はないのか。これだったら何日も病院で缶詰になってたほうがマシだった。こんな身の危険に比べたら、これまでのは
一体なんだ?それこそ身の危険な患者を診て・・・でも患者のその危険を、苦痛を僕は感じていたか?他人事と思っていたのでは
ないか?だから自分のことになるとこんなに必死なんじゃあ・・・?

 疲れた。今日はもう、寝よう。ラジオでも聞きながら。バッテリーが上がっても仕方ない。


<つづく>

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