大丈夫じゃなかった。

 睡眠不足、ストレス、不安・・・。髪の毛が抜けそうな毎日だ。しかもこの閉鎖された空間。義務で着用のマスク。それらがいっそう息苦しいものに感じられた。

 いきなり右手の親指と人差し指の間をギュッと握られた。
「うあ?」
「こうしたら、疲れ取れるのよ」
 本田さんは力強く、しかし丁寧に母指球筋をほぐしてくれた。
「あたしのも、してよ」
「・・・・・」
 恥ずかしながら、初めて彼女を触るという緊張感でいっそう息が途絶えそうになった。
「うう・・・」
「どうしたの?疲れてるわね」
「う・・・」
 本当に息ができなかった。白くて、ツルツルした手・・・。
「あー・・・気持ちいい・・・」
 僕はますます気が遠くなって、QTが延長したようだった。

 倒れそう。

「うう・・キューティが・・」
「キューティー?」
 彼女は少し顔が赤くなったようだ。
「いやね、それ。死語?」
 


  これがいわゆる、アダムス・ストークス発作、なのか。



 ・・・やがて、正月も明けた。



 急性膵炎の患者。CT・超音波でも確定的。アミラーゼ560IU/L。知ってることだがアミラーゼの数値は
重症度を反映しない。循環器・呼吸器分野では数字はまんま重症度を表すものと解釈しているので、
今でも違和感を感じる。

 「FOYにミラクリッド、FFPに抗生剤、すごいな・・・」
点滴指示表は文字の羅列でごったがえしている。これこそフルコースというやつだ。

 特に指示をいじることもなく、独り回診を続けた。
 
 
山城先生のコメントもめっくり少なくなった。
「先生がしっかりしてきたからよ」
と本田さんは言ってくれてるが・・・。ただ患者の病態が複雑化したりして、思考がついていけなくなったんだと思う、
ハッキリ申しまして。

やっと復旧したカテーテル関連の装置が再び稼動、入院中だった不安定狭心症はカテ室へと運ばれた。
搬入を手伝っている最中、山城先生が現れた。

「おう。また迎えに来いよ!」
「ええ。また連絡を」
「お前、カルテに書いてたな。先月はカテで正常所見、とか」
「はい。いけませんでしたか?」
「いや。その次に、不規則な狭窄か?とあったな」
「ああ、たしか・・・そう書きました」
「どういう意味で書いた?」
「ええっと、あれは・・・実際の内部はこう、限定された部分にのみ狭いところがあって・・・つまり一様でない狭窄があって」
「それで前回、正常の冠動脈に見えた、と?」
「まあ、そういう可能性もあったかと」
「・・・・・初めてほめてやるが、わしもそう思う。そこで、今回新兵器を用意した」
「?」
「アイバスだ。血管内の超音波」
「エコー・・見れるんですか」
「冠動脈の内腔をな。ただし真っ直ぐな前下行枝しか見えんがな」
「そうですか・・・」
「こんな単純なことをお前から気づかされるとは・・・わしも年だ」

 その後の検査で、前下行枝のスリット状狭窄が確認された。PTCA・ステントで拡張に成功。
患者は循環器病棟へ転棟した。

 ICUの前では背広姿が大勢待っていた。
「ユウキ先生ですよね?」
「え、ええ・・」
「私、製薬会社の・・・」
 7,8人がいっせいに名刺を差し出した。

「僕はまだレジデントだし・・・」
 MRのうちの1人の青年がおじぎした。
「いつもご処方、ありがとうございます」
「何の?」
「抗生剤です。先月は400バイアル出荷されまして。処方のほとんどが先生とお聞きしております」
「あ、そう・・・」
「ええ、ですのでぜひお礼をと」
「え、ええ・・・ちょっと今・・」
「こちらが私の本部の上司の・・・」
「よろしくお願いいたします!先生!」
 中年の年配MRが名刺を差し出す。
「先生、この男まだまだヒヨッ子ですが、どうか疑問点などありましたらなんなりと」
「は?疑問・・・」
「副作用など特にございませんでしたか・・・はああ!」
「重症患者だから、副作用かどうかなんて・・・」
「さようでございますか・・・はあああ!」
「だからそのまま使ってるよ」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」

 人が見てる。患者の家族たち。

「じゃ、また戻らないといけないので・・」
 女性MRが駆け込んだ。
「先生!いつも当社の薬剤をごひいきいただき、ありがとうございます!」
「え?別にひいきなんか・・・」
「おかげさまで本剤も10周年を迎えまして・・!」
「おかげさまって言われても・・・じゃ!」

 あまり可愛くなかったこともあり、共振解除、とした。


「これ、喰う?」
MRから手渡された和菓子を休憩室へ持ち込んだ。
そこには鈴木さんがいた。婦長と一緒だ。

「もうちょっと考えて」
「・・・・・」
「彼女には私から直々に・・」
「そこまではいいです。いいですから」
 鈴木さんは首を軽く横に振っている。

 何の相談だ?

 鈴木さんはうつむいたままゆっくり出て行った。
グズ・・・と心なしか聞こえた。

「婦長さん、鈴木さん出て行ったけど・・私服?」
「・・・・・」
「まだ勤務中だろ?」
「・・・・・辞めるって」
「え?いつ?」
「今すぐ、だって」
「今すぐ、って・・・止めないの?」
「止めたわよ、もう何度も」
「なぜそんな・・・」

 察しはついていた。本田さんからの圧力だろう。

「ちょっと行ってきます!」
「病院外まで出ないでよ!」
「こんな別れ方って・・」
「いちおう受付に言っておこう」
 婦長は受付の守衛に連絡を入れ始めた。
僕は和菓子を差し出した。
「これじゃ、ダメ?」
「ダメ」

 ICUを出ると、またMRが出迎えた。
「おお!」
「ちょっと通してください!」
「お疲れ様でした!」
 まだ業務、終わってないって。

 病院玄関では守衛が待っていた。
「先生!入って入って」
「ちょっと・・・」
「まだ勤務時間内です!」
 長身の守衛さんは僕の二の腕をつかんだ。
「大事な用事なんだよ!」
「なりません!」
「くそ、通せ!通せ!」
 守衛の力がゆるんだ・・と思ったら、山城先生が後ろに立っていた。

「このバカが・・・!患者を放り出して何をやっとるか!」
 大勢が見守る中、罵声は容赦なく浴びせられた。
「女のケツばかり追いかけおって!少しは俺達の役に立ってみろ!」
 次々とスタッフが集まってきた。
「大学の人事で仕方なく置いてやってんだ!給料もらってるだけでもあり難・・・」
 横から院長がポンポンと肩を叩いている。
「ああ、院長先生。申し訳ありません。婦長から連絡があったもので。私は決して・・・」
「もうやめとけ。いい」

 知らない間に僕の周りに輪ができていた。院長が去ると同時に、それらはアリンコのごとく散らばり始めた。
 
 追い討ちをかけるように鳴り響く、院内ポケベル。携帯まで鳴り出した。


 それ以来、彼女に会うことはなかった・・・・。
 

< つづく >

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