喘息重積発作の患者は明らかな感染を合併することなく、ステロイド減量中の段階であった。
ステロイドの持続点滴は易感染性と高血糖を容易に招くため、1日1回の静注に切り替えたときは
少し肩の荷が降りたようだった。

「プレドニン注、60mg iv、と・・・」
 この指示はもちろん『共診』の先生に確認をしてもらっての内容だった。よほどの救急の時以外、
僕単独の指示は出せれないことになっている。

 それにしても気管支喘息の治療は単純・しかし気長にだ。以前の呼吸器科のオーベン安井先生
からも教わってたが、重症喘息の治療はステロイド、そして安静だ・・・。呼吸筋をも休めろ、ということか。

 土曜日の午前中の外来がもうすぐ終わるはずだ。その後僕は車で新神戸まで走らなければならない。
ここから2時間はかかる・・・。

 しかめっ面で悩んでいたとき、本田さんが現れた。
「あと2床、空いてるからね」
「ああ?」
「今のうちに必要な指示、出しといてよ」

 彼女は未だに素っ気なかった。本来なら今日は彼女らのルーチンの飲み会の日だ。
いつも誘われてる僕にとっては・・・今日お呼びがかかりそうにない。しかしそのほうが都合がよかった。

「本田さん。肝不全の患者は?」
「ビリルビン上がってたわよ、今日の。36mg/dlに増えてた」
「さっき家族の希望を聞いたんだが・・・」
「どうって?」
「もうこれ以上、何もしてくれるなと」
「そうなの?ちゃんとカルテに・・」
「書いたよ」
「呼吸器はつけないってことね?」
「ああ。でも利尿と血圧管理は続ける。家族の方もかなり悩んでたみたいだね・・意見が対立・・・」
「じゃあ、病棟に出すわ」
「え?」
「もうここで管理する意味はないでしょ」
「そ、そうだが。いきなりすぎないか?」
「なぜ?ここは集中治療室よ」
「なんだよ、どうしたんだ?最近、情緒不安定だよ」
「ターミナルはうちらの仕事じゃないわ」
「家族は今かなり落ち込んでるし、その説明は週明けに・・・」
「ダメだって。そんなことしたら、これから助かるかもしれない重症はどうすんの?」
「せめて午後に」
「あたしが説明する」
「待てって!」

 本田さんは衝動的というくらいの勢いで家族のところへ向った。

「本田さん。あとで僕から説明を・・」
「先生はグズグズするからダメ!」
「あまり攻撃的には・・」
「キツイってこと?ねえ?」
 彼女は立ち止まった。
「?」
「キツい性格の奴って、あたしのこと?」

 ふと気づいたが・・先日僕がトイレで携帯話してたときの内容だ。

クソッ、一体誰が・・・。しかしもうどうでもいい!

「みんなそうだろ」
「あっそ。だったらすぐ迎えに行けばいいじゃない」
「だれを?」
「言っていいの?」

 ジリ・・・と彼女が一歩詰め寄った。 
僕は立ちすくんだ。彼女は数歩先の家族のところへ。

 まあいい。もうあと2ヶ月。そしたらまたリセットすればいい。

「おいユウキ。次お前!」

 久しぶりに芝先生が声をかけた。目線は合っていない。
僕の順番だ。いきなり動悸がしてきた。でも脈は速くない。
脈圧が上がったせいのようだ。

 ICU/CCUを出て、4階の院長室へ。
「失礼します」

 中のソファに腰掛けているのは院長ではなかった。
「・・・そこ、座って」
 無機質なメガネの背広男は、いかにも医者という感じの冷淡そうな印象だった。
「早く。そこへ」
「はい・・・失礼します」
「今年度、医局長の小川です」
「ユウキです」
「先生は僕と対面するのは・・」
「初めてです」
「昨年から大学の講師を務めています。呼吸器科です。君は循環器科ですね」
「ええ、そうです」
「呼吸器科の患者も当たってますね」
「はい」
「・・で、どちらへ進みますか?」
「え?」
「今後の転勤のこともありますので。どちらの科を希望されますか?」
「・・・・・できれば両方とか?」
「医局の性質上、それは無理です。どちらかにしてもらいます」
「・・・・・」
「まだどちらもあまり経験がなくて・・」
「ではこちらが決めますので。それで先生」
「はい?」
「大学へは戻られる気持ちは・・」
「大学ですか・・・今は、そうですね・・・」

 ここ数年大学を離れ、同年代の友人にもあまり恵まれなかった僕にとって、大学病院時代は
懐かしい、古き良き時代となっていた。野中に大学の悪口を言ってた頃もあったが。

 あそこでまた頑張って充電する、という手もあるかな・・。

「あのう先生。大学へ戻った場合は、僕は・・・」
「身分ですか?」
「ええ」
「研修医ではありません。医員ですね。なんなら助手でも可能です。先生が戻っていただければそれなりの待遇を考えています」
「それなりって・・・」
「病棟は片手間でやっていただいてもよいし、アルバイトも好きなだけ、自由です。非常勤の病院も2つ。収入は今よりアップします」
「そうなんですか。で、大学での期間はどのくらい・・」
「とりあえず1年。その間に先生は技術を磨いていただき、教授や私達が考慮した上での関連病院へ
移っていただこうと思います」
「大学での雑用とか・・」
「一切それはございません。私が保証します。大学に籍を置いていただき、必要な最先端の技術・経験をつんでもらうのです」
「・・・・・」
「その一方で関連病院でも技術を教わっていくわけです。先生の同僚の方々も同じ考えです」
「彼らはほとんどが院生ですが・・」
「彼らはみな論文も仕上がりましてね」
「すごいな」
「すでに前述のような形で勤務をされておりますが、彼らは今のシステムを非常に気に入ってましてね」
「はあ」
「それと、ぜひユウキ先生に戻ってきてほしいと!」

 この先生、いつの間にか熱くなってるな。

「ならば、ユウキ先生の希望通り、今後も循環器・呼吸器の勉強も両立できます」
「そうか、そうですね。気管支鏡も数例しかしてないし。カテももっと見たいし」
「とにかく先生が気にされているような非人間的な扱い、というのはなくなりました・・・・・大学も変わったのです」

 もっともらしく聞こえるな。信じていいんだろうか。

「今の僕でもいいんでしょうか」
「先生が来たら、先生らの同僚で医局はもっと住みやすく改革できる。私もそう信じています」

「じゃあ2ヵ月後の転勤に関しては・・・のちほどまた連絡いたします」
「はい。あ!」
「ポケベル鳴ってますね。お忙しいですね、先生」
「いえ」
「では!」
「こちらこそ!失礼します!」

 いつの間にか昼を回っていた。一目散に駐車場へ駆け込み、エンジンをスタートさせた。新神戸駅へ。

『そう、君は大学へ戻ってくる・・・』

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