朝の9時前、救急外来は静寂に包まれている。30代の事務員がやってくる。
「ああ先生方、朝早くからどうも、ああ、ありがとうござ、ざいます」

僕と一般内科で年配の三井先生、外科でほぼ同級の村中先生の3人は、ヒマそうに
空きベッドに座って待機していた。

「じじ、自分は始めてこういうのを任されましてて・・てて」

気難しい三井先生はまだ機嫌が良かった。
「リラックス、リラックス!利尿にはラシックス!」
誰も反応しなかった。

村中先生がこちらへ声をかけた。
「お疲れのようだね。脱水でもあるんじゃないの?」
「・・・なんとか」
確かに口渇、乏尿もある。発熱は・・・測りたくない。もし熱があったら弱気になる。
患者には勧めるくせにな・・・。

なんにせよ・・・レジデントが病気になるって、絵になるのはドラマの中、視聴者の頭だけだ。

ナースはキンキンが担当。
「よろしくお願いします。ユウキ先生、久しぶりね」
「あ、ああ」
「大丈夫?目が真っ赤」
「引越しでね」
「どこへ行くの?」
「大学病院ってことだけど。でも実は正式に聞いてなくてね」
「それ、いいの?」
「僕も、めんどくさくて問い合わせなかった。山ちゃんも何も言わないし」
「今までの先生たちは・・・」
「これまでのレジデント?」
「うん。あの人たち、遠いとこ行ったよー」
「そうだ。聞きたかったんだよ。もう話してくれていいだろ。彼ら・・何があったんだ?半年でクビになった理由」
「・・・・・」
「いじめ?それなら僕がなぜ、これまで1年居れたのが不思議だ。何故に?」
「(こっち来て)」

隣の物品倉庫まで連れて行かれた。キンキンなら緊張もしなかった。

「さあ、教えてくれよ。もうあと数分で9時だし。救急の電話が鳴りまくる!」
「誰にも言わない?」
「言うもんか!」

天然っぽいキンキンの表情が、いきなり大人っぽいものに変わった。

「みんなあの女に手を出したの。自業自得よ」

「あの女?手を出した?」
「ホラあ、先生と仲の良かった本田よ。ホンダ!」
 呼びつけか。
「みんな・・・手を出したって?」
「まー男の人はああいう目のクリッとした可愛いのが好きなんでしょうけど!
結局、どのドクターも彼女の言いなり」
「待てよ。僕は言いなりには・・」
「ICU/CCUの管理は全部、彼女が裏で仕切ってたのよ」
「ドクターを調教してか?」
「先生もそうなりかけてなかった?」
「そ、そういや・・・」
 僕はまさにその典型だった。
「しかし、手を出したからといって、転勤までは・・」

 だが実際そういうスキャンダルで転勤を余儀なくされた医師・ナースの噂はどこの病院でも聞く。

「手を出した相手が悪かったのよ」
「相手?本田さん?」
「もうアホ!その相手のオトコ!」
「・・・ヤクザかなんか?」
「・・・察しがつくでしょ!」
「僕の・・・・」

 時計は9時を指した。

「僕の、知ってる人間?」

 9時になったとたん、あちこちの電話が鳴り始めた。
三井先生がベッドから飛び起きた。
「来たぞ!」
村中先生も白衣を再び羽織りはじめた。

3人とも自分の持ち物を確認していった。
ナースは救急カートなどを。

ペンライト、聴診器、打腱器、手帳、ディバイダー、ペン、テープ、袋・・・。
ミオコールスプレー、ニトロダーム、翼状針、サーフロー・・・。
身近に置いておきたい物は、全て身に着けた。

村中先生がこちらをみて感心していた。
「その手帳、分厚いね・・・全部書き込んでるんですか」
言葉にまだ少し遠慮があるようだ。
「これまでメモしたこと、オーベンの印象に残った言葉・・・とかね」

 彼はそれを手に取った。

「カテコラミンのガンマ計算、点滴の組み合わせ・・・すごいな。これ」
「裏表紙はオーベンのサイン付きだよ」
「それは要らないな。これ、コピーしていい?」
「ダメだ!」

 知られたくない情報も入ってる。

「そういやユウキ先生、半年ICU/CCUを?」
「もうやらないよ」
「この前はうちの上司が迷惑を・・」
「ああ、あれ?僕もまさか・・写真が逆とはね。僕でもしたことがない」
「管が3本も入って・・・。でも患者は助かりそうだね」
「ウイニング中だよ」

事務が走ってきた。

「ハアハアハア・・・きゅ、救急車、3台!同時にきまつ!ハアハア」

救急カートの物品の確認を終えたキンキンの動作が固まった。
「3台・・・どんなのが?」
「ハアハア・・・意識障害、マヒ・・・・あとは、あと・・・」
 三井先生がイライラし始めた。
「年齢は?」
「ハアハア・・・」
「バカモン!ちゃんと聞いておかないか!」
「ハアハア・・聞きましょうか、もうイチロ・・・ハアハア」

みんな一瞬、耳を澄ました。

明け空に落書きをするように、救急車のサイレンが干渉している。強弱をつけながら、
こちらへ向っているのだ。

三井先生がハッとなり、診察の机を見廻した。
「おい、『今日の治療薬』は?」
どうやらお目当ての本がないようだ。
「俺が救急の時は、いつもあるのに・・・」

僕と村中はお互い呆れた顔で向かい合い、それぞれポケット式治療薬品集を覗かせた。

「いつもあるのに、なかったら、おいおい・・・」
三井先生はもうパニックとなり、引き出しを1つずつ開け始めた。
「あれがなきゃダメなんだ、ダメなんだ・・・」

大丈夫なのか、この先生。

「おい本!本は?仕方ない。医局から誰かのを・・」
キンキンがとどめた。
「先生、ダメ!もう3台来るのよ!そんなヒマない!」
「うぅ・・・」

事務は電話がジャンジャン鳴っている。知らない間に受付にも人が集まりだした。

廊下側の入り口では相変わらず小杉がオーダーを待つ。伸びをしている。

僕は一瞬、本田さんへの怒りと、遠距離の彼女への思いが浮かんだ。
しかしそんなものはサイレンでかき消されてしまった。

僕と村中は互いに頷き、一斉に外へ飛び出した。

「最後の戦いだ!」

< つづく>

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