ユウキ先生は、カンファレンスルームの掃除をしていた。

「やあ、先生!」
「野中か。一足先に、大学を出るよ」
「ああ。でもまた呼び戻されるに決まってるがね」
「戻らないよ」
「ダメだって。教授が人事を決めるんだ。大学院か何かの名目で、また戻ってくるよ」
「・・嫌な奴だな、お前・・お前はどうするの?」
「オレは院に行く。医局で研究のみに打ち込もうと思う。博士取ったほうが、開業にも有利だろ」
「・・それだけ?」
「?いや、ほかにも・・・」

ユウキ先生は本箱を運んで行った。

野中先生は医局員が見守る中、思いっきりバケツを蹴った。

「あいつ・・・!」

ユウキ先生は医局で、オーベンに別れを告げる。

「先生、もうすぐ行かれるんですか?」
「ああ、自分から志願したからね」
「うちの医局からは、先生だけ?」
「うん、第一号。ワゴン車で行く」

ワゴン車が、大学病院の玄関に3台。背広姿のドクターが10人ほど、1人ずつ乗り込んで行く。
多数の医局員が、静かに見守る。

入局がすでに決定している僕も見送りに出かけた。
窪田先生が振り向く。

「じゃあ、レジデントの諸君。地震がまた起きぬことを祈って!」

ワゴン車は1台ずつ、ゆっくり去ってく。

医局員も散り散りになりはじめた。女の先生が後ろから呼び止めている。

医局員が多数、正面玄関から注目している。

一体何を話しているのか・・・?

やがて女医さんは歩いてきた。

なにか・・・すごく冷たい表情をしている。

みな、医局へ戻り始めた。

医局長が呼び止める。
「じゃあ、今度あと2人来るから。出勤日はわかるね?トシキ君」
「はい!」

平成7年。春。

大きな会議室で医局会。新医局長の安井先生が教壇に立った。

「今年の入局者は男子2名、女子1名。最前列に座って頂いております、今後の医局のホープです。最近はマイナー志向が目立ってきており、我々もヒヤヒヤしておりましたが・・・こうして頼りがいのある若手に来ていただいて、誠に嬉しい限りです」

自己紹介させられるのか?僕は童顔の水野と顔を合わせた。
「水野、自己紹介、考えてきた?」
「え?やだよ」
とたん、医局長と両目が合った。

「では自己紹介をどうぞ!」

え?僕からか?仕方なく立ち上がった。後ろを振り返ると、みな無機質に僕を見つめている。
「えーこれからこの医局でお世話になります、トシキといいます。いろいろとご迷惑おかけすると思いますが、よろしくお願いいたします」
しばらくの沈黙のあと、パラパラと拍手が鳴り続けた。

女医の新人が立ち上がる。少しふっくらしているが、デブじゃない。ほっぺが赤く、いかにも田舎の子だ。

「森といいます!出身は大阪府吹田市です。循環器のほうに進みたくてこの医局に入りました!頑張りますので宜しくお願いします!」
最初から、圧倒的だな。

「水野です。兵庫の大学出身です。頭はバカですが、体力には自信がありますので、なんなりとお申し付けください。よろしくお願いします」
拍手は止み、次の議題だ。

「では研修医諸君はこれより病棟のオリエンテーションですね。それからオーベンとの打ち合わせを。窪田くん、震災のレポートを」
窪田先生が後ろからゆっくり歩いてきた。長身で色白だ。学生の頃はオカマっぽいとの噂が立っていた。

「私が担当したのは被災地の中心というわけではなく、西宮の駅周辺が主でした。しかしそれでも被害はかなり甚大でした」

窪田先生は話を続けた。

「とにかく患者は選べませんでした。震災からしばらく経っていたせいか外傷は少なく、風邪や肺炎の方がほとんどだったと記憶しています。睡眠は宿舎で6時間は取れるという話でしたが、実際はワゴン車で泊まりました。食事は1日1回。睡眠は実質3時間。寝てても起こされ続けました。わたしのプアな体力では、1週間が限度でした」

医局長が僕らに向って微笑んでいた。

「窪田君からはその1週間、連絡がないままでね。私らも気が気じゃなかった」

窪田先生は続けていた。
「精神的なショックを抱えた症状もよく診ました。これに起因するいろんな不定愁訴の場合、除外診断するのが一苦労・・・」

教授・助教授らメインキャストはゆっくり立ち上がり、扉へと歩いていった。なんか、無神経だな。

「用意してもらうはずの医療器具は不足。当然、診断の精度も落ちます。ですがいろいろ学びました。今は専門化・細分化が唱えられていますが、
それだけの人間になってはいけない。食わず嫌いの医者はね」

メインキャストが帰ったせいか、口調が柔らかくなった。視線は僕らへ注がれた。

「レジデントの諸君も、自分が見たもの、聞くものを全て吸収していって欲しいです。困難であることも苦い体験も、必ずあとで役に立つものです」

いつの間にか数名だけとなり、医局会は終了した。

おとなしい感じの森さんは、早歩きで窪田先生のところへ進んでいった。何やら質問をしているようだ。水野は僕についてきた。
「水野・・・オーベン、誰になるのかなあ」
「ぼ、僕はよその大学から来たから・・どの先生がどうかは知らないよ」
「怖い先生とかいるらしいよ」
「それだけは勘弁だなあ」
「窪田先生だったらいいな」
「さっきの話・・・なんか胸が痛いよ」
「どうして?」
「僕の出身の大学は、地元の震災であるにもかかわらず何もできなかった」
「それはもう聞いたよ。だからそこの医局は辞めたんでしょ?」
「ああ。恥ずかしいよ」

病棟のカンファレンスルームで待つ。

「水野、この表、見ろよ」
黒板脇に当番表が貼ってある。水野は食い入るように見ていた。
「1週間の日程表だ。僕とトシキの名前もある・・・午前はほとんど外来だね」
「点滴などの処置係と問診係かあ・・学生のときに見学した」
「いいよね、レジデントの多いところは」
「午後は病棟。でもほぼ毎日夕方、カンファレンスがある」

医局長が入ってきた。僕らは反射的に立ち上がった。
「あ、いいよ。座って座って」
僕らは大きな丸机を囲んだ。森さんも入ってきた。
「あこがれのクボっちゃんと話できたわ。ラッキー」

続いて、3人ドクターが入ってきた。みんな、うち1人は若い。

医局長は簡単に紹介した。
「院生・助手の畑くんと松田くん、それからレジデント2年目の野中くん」

噂の畑先生だ。万年助手→院生でなかなか卒業できてなかったが、最近なぜか論文が通ったらしい。
松田先生も院生で、実験・論文も大詰めと聞く。あと1年で卒業のはずだ。しかし噂では鬱状態とか。
院生1年目の野中先生。昨年のレジデントで一番優秀だったらしいが性格キツイって・・・それにしても、もう2年目でオーベンを?

臨床実習の裏ノートからの情報だ。

医局長は割り振りを始めた。
「院生やレジデントが担当になってすまないね。なんせ人がいなくて。ですがいずれも信頼できるベテランのスタッフです。心配ないです。では、森さんは畑くん。水野先生は松田くん。トシキくんは野中君」

ええっ?すると僕はレジデント同士ってこと?

森さんはおもむろに残念そうだ。畑先生はニヤニヤしている。
「へへへ、よろしくな!クボちゃんでなくてメンゴメンゴ!」
松田先生は水野を無言で引き連れて行った。

色黒で目の鋭い先生がヌッと手を差し伸べた。
「野中だ。しかしなんで俺がオーベンを。トシキ、か。俺の雑用も一緒にやってくれよ」

なんだか嫌な予感。

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