次々とカンファレンスルームに入っては出ていくスタッフの中に、ひときわ美しい女性がいた。やっぱりあの先生だ。たぶん心で泣きながら、駐車場から歩いてきた・・。

「野中先生、あの先生・・・」
「女王様のことか?」
「先生の同僚ですよね」
「近づくな。ラプチャーするぞ」
「・・・・・」
「ここでは話しにくいから、食堂へ行こう」

食堂でソフトドリンクのみ注文。

「もちろん俺のおごりだからな。研修医は原則として、自腹を切らなくていい」
「ありがとうございます」
「いいか、レジデントはまず・・寝てはいけない!」
「?」
「自宅に帰って寝ようなんて思うな。いつ帰るとか」
「1人暮らしですので、あまり気には・・」
「オーベンが来る前に朝の病棟の仕事を終える。指示は昼の2時までに出す。オーベンが帰る前にすべての報告を終える」
「はい」
「つまり関白宣言と同じだ」
「え?」
「俺より先に、寝てはいけないってことだ。知らないのか?」
「かんぱく・・・?」
「もういいもういい。時間がない、時間が!」

野中先生のポケベルが鳴り出した。

「・・・ちっ、病棟だ」
僕は携帯を差し出した。
「よかったらこれを」
「お?もうそんなもん、持ってるのか?」
彼は直通をプッシュした。

「野中だ。何。ああ。うん。え?ああ・・・うん・・・で?ああ・・・」
彼は電話を切った。
「ターミナルの患者の血圧が下がってきてるんだ」
「末期がんの方ですね」
「家族はまあ何もしてくれるな、っていうことなんでな」
「先生・・・行かなくても?」
「脈が50/min切ったら呼ばれる。高カリウム進んでるしな。無尿だよ」
「人工透析とか・・」
「もう、そういうレベルの話じゃない」
彼はタバコを取り出し、天井に向って一吹きした。

「先生、タバコを?」
「何だよ、悪いか?」
「いえ」
「俺の専門は循環器。タバコで冠動脈硬化。自分の専門の病気で死ねたら本望だ」
「呼吸器の先生方も、肺癌で死にたいと」
「実際は肺気腫が多いだろ。あれはしんどいぜ。苦しみながらは死にたくない。ポックリいこうぜ」
「けっこうみなさん、吸われるんですね・・・」
「お前も吸えよ、1本」
「いえ、結構です」
「1本くらいいいだろ?」
「本当に吸えません」
「つまんねえ奴・・・・行くぞ!」

病棟の一室へ。
「小野さん、入っても?」
軽くノックし、僕らは入った。中年の女性が1人静かに眠っている。
横にはモニターがあるが・・・血圧は82/44mmHg。その割に脈は64/minと増えてない。やはり高カリウムのせいか。

「トシキ、これは自動血圧計だが。最初はマニュアルで測定しろよ」
「水銀計ですね?」
「計り方は?」
「できます。買って家で練習を」
「金持ちだなお前・・・」
「骨学セットも買いました」
「ボンボンか、お前?家は開業医?」
「はい。しがないクリニックです。先生は?」
「医者じゃねえよ。いいだろ、そんなこと!」

 先生から聞いてきたんじゃないか?噂どおり、血の気が多い。循環器の特長なんだろか?

「聴診しろ」
「はい」

 聴診器を胸の前面に。両側とも上から3箇所に分けて、合計6箇所で呼吸音。心音は心基部と心尖部。

「長いな。サッサとしろよ」
「・・・ラ音は聴取しません。心音もピュアだと思います」
「ダメだな。背部を聞いてない」
「あ」
「寝たきりになってても、背部に聴診器は廻せるだろ?」
「は、はい。では・・」
「もういいって!時間がない」
「はい」
「漫然とするな、何でも。目的を持ってやれ!この患者の場合、ラ音が気になるなら・・・深吸気時の背部雑音に集中するとか!」
「はい」
「喘息は?」
「呼気終末に集中を?」
「ああそうだ。まあ知ってて当たり前だがな」

持ち出してきたカルテを一緒に読んでいた。
「俺は一貫して主治医ってわけじゃないんだ。よく読んでおいてくれ」
「はい、読みます!」
「ただし、俺が帰ってからな」
「はい・・・」

別の患者のところへ。

「今から入るが、この60代の男性・大宮さんは先日入院した。APつまり狭心症疑い。カテまで1週間ある。VIPだからな」
「ビップ?」
「ビップは通常講師が持つ事が多いが、めんどうなビップでね」
「性格が・・ですか?」
「ある区の医師会の理事だ。とにかくわがままでな」
「医者ですか?」
「もと医者だ・・・・入りますよ!」

 特室はゴージャスな内装。1日5万と聞く。大型テレビ、ダイニングテーブル。ベッドも大型。

「失礼します」

滝廉太郎みたいな人が寝ている。

「ああ野中はん。どうぞどうぞ!」
「あ、またチョコレートですか」
「はっは、つい手が伸びてしまうわな!・・・新しい先生でっか?」
「ええ。挨拶回りです」
「最初が肝心カナメや。ちゃあんと上の先生の言うこと聞いてやらんといかんぞ!」

うっとおしい。

「大宮さん、ちょっと股のところに聴診器を」
「おうおう、なんでもしてやってくださいよお!」
「トシキくん、カテーテル前にはこうやって血管の聴診を」

トシキくん、だって。笑わせる先生だ。

「そけい部に当てて・・ブルーイは聞こえる?」
「雑音・・右のほうに?」
「そうだね。つまり狭窄が疑われる。その場合カテはここからは入れないんだよ。またくわしく説明するね」

それにしてもビップの前だと、言葉遣いも変わるのか。

4人の回診を終えただけで、もうバタンキューだった。

あらかじめ決めていたが、行きつけの「ペテン」で週1回の極秘反省会。もちろんレジデント1年目のみだ。僕が仕切って決めた。

あとの2人はすでに来ていた。

「すまない。遅くなった。2分の遅刻だ」
カウンター左の水野は顔が真っ赤だ。
「よお。どうだったあ?」
「野中っちオーベンなあ。話が長いよ。それにネバい」
さらに左の森さんが顔をかがめた。
「泣かされなかった?去年の実習のときのコみたいに」
「珍しくね。でも優秀な先生だよ。噂どおりだ。で、森さんはどうだった?」
「畑先生?んー。1対1のときはいいんだけど、上の先生がやってくると態度が・・」
「言葉遣いも変わるんだろ?」
「そうそう!心配だわ。いざというとき、守ってくれるのかしらね?」
「それは期待できないようだよ。あだ名が・・おい水野、あだ名・・・なんだっけ?」
「へふひおおこ」
「なに?」
「ねふみおとこ」
「こりゃダメだ。ほっとこう」

森さんは両手を顔に当てた。だが顔が余ってる。
「あー、あこがれの先生でなくてショックー!」
「窪田先生かい?講師だし無理だよ」
「でもオーベン帰ったら、彼に相談するもん」

「窪田先生かい、そりゃもういい先生さ」
『オバちゃん』と呼ばれているママが、お皿を下げにきた。
「なんでもあの先生にお聞き。あの先生を見習えば間違いないよ」
 僕は注文を追加した。

「水野、起きろ!これから注射当番の順番を決めよう!」
「そうね」
「ほうやへえ」

「2人組みにして、朝と夕方だろ?みんなそれぞれ週に1日はオフの日を作ろう」
「その表、作ったの?凄いわね。さすが元生徒会長ね。その組み合わせでいきましょ」
「ふげえふげえ」

「これからみんなで一緒に行動しないか?朝の出勤から」
「同時に出勤?いいわよ」
「いひよ」

「朝は7時出勤。集合してない者がいれば呼び出す」
「それも書いてきたの?」
「ふげえふげえ」

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