夕方、いつものように各患者の『本日の経過』をオーベンに報告。

「失礼します」
実験中のオーベンは、顕微鏡から目が離せない。何やらカチカチ計算している。
「今、よろしいでしょうか?」
「ダメだ!あーっ!どこまでか忘れた!なんてウソだ」
「・・・」

オーベンでも冗談、言うんだ・・・。

「ああ、どうぞ」
「ターミナルの方は相変わらず徐脈です。今日のカリウムは6.6」
「相変わらず、とは何だ。言葉に気をつけろ」
「家族の方がムンテラを希望されてました」
「先週したよ」
「東北の親戚の方が来られて、明日の朝には帰ると」
「初めて見る家族だ」
「で、じゃあ今日説明できるようお願いしてきますと言っておきました」
「わかった・・・なんだと?」
カチカチが止んだ。

「アホかお前?なんでお前の判断で俺が動かなきゃならんのだ?」
「す、すみません。明日の朝には帰られると・・」
「もう5時過ぎてる!平日の昼間に来てもらえ!」
「そ、そのように・・・?」
「とにかく今はダメなんだよ!早く行って来い!」

実験がうまくいってないのか・・すごく機嫌悪い。

というか単に僕が怒らせた?

「はい、行ってきます・・」
また戻らないといけない医局をあとにし、トボトボと歩き始めた。
久しぶりに根回しよく物事を運べると思ったが。

すると、後ろから肩を叩かれた。
「?あ、オーベン!」
「いいデータが出そうだぜ!」

僕らは早足で病棟へ向った。

オーベン、感謝してます・・。

そして。

教授回診前の新患プレゼン。2時間前から僕らは準備に取り掛かっていた。

大きな机の上に散乱する心電図、レントゲン、コピー用紙、グラフ用紙。

僕は先日入院があった高血圧の患者の準備。

カルテを開く。

主訴は・・・主訴?

 この人は健康診断で高血圧を指摘されて、外来へ書類を持ってきて、血圧がかなり高かったから入院になったんだよな。
本人の話ではそうだった。

 それにしても外来カルテは字が煩雑で読みにくい。検査データばかりで記載がほとんどない。まあ全部、頭に叩き込んでいるんだろうけど?

血圧は180/110mmHg、pulse rate 88/min整、心音はno murmur・・・。心電図はサイナスリズム。

「いいなあトシキは」
水野はうらやましそうに覗き込んでいる。
「どうして?」
「高血圧だろ。ゆっくりいけそうじゃない?僕はほら!今までの経過がすっごく長い・・・縦隔腫瘍の患者だ」
「今まで何クール、ケモ(化学療法)やってんだ?」
「8クールぐらいやってる」
「今回は再発?」
「そうみたい。縮小したら退院かな」
「そうか。森さんは?」
「今は話しかけないで!」
「なんだよ・・・拡張型心筋症?おい水野、このレントゲン見てみろよ、CTR 80%はあるぜ!」

彼女は走ってきてシャーカステンのフィルムを取り去った。
「いちいち、もう!」
彼女は焦ると完全にパニックになる性質だ。

どんどん時間が過ぎ、次から次へと先生方が入ってきた。あちこちのイス・ソファーで2、3人同士が固まり、ある者はタバコにまみれ、ある者はヒソヒソ話。講師クラスの先生はまだ来てない。

僕は時計を見た。
「おい、もう8時だよ」
水野は机にうつむいてひたすら筆記中だった。
「自分のが準備できたからって、ジャマに入らないでよ」
「そ、そうじゃないって!」

やがて窪田先生が入ってきた。うっすら余裕の笑顔を浮かべて。女学生からの人気ナンバー1もうなずける。
「や、おはようさん!コベンちゃらん」
「おはようございます!」
僕らは一斉に挨拶した。
「もう後ろから教授、来てまっせ。覚悟おし」

ところてんの如く講師クラスが続けてやってきた。みんな正規の位置に着席していく。やがて私語も少なくなっていった。
水野は書きかけていたが中断した。
「ええい!もうあとは野となれ!」

白髪の教授が助教授と入ってきた。みんな無言で待ち構えていた。

「うん。じゃあ、始めようか」

教授と最前列に座った助教授が、進行係。
「レジデントから!さ、我さきという者から!」

「では、わたしが!」
森さんが自分を奮い立たせるように声を荒げた。彼女は教壇に立った。

「40歳の男性。主訴は呼吸困難です。既往歴は10年前よりDCM。H2年とH5年に入院歴があります」
助教授がところどころツッコミを入れる。
「君、言葉の最後はきちんと!DCM。で終わらすんじゃなくて、DCMの既往があります!とか、わかりやすく!」
「はい!」
「それと入院歴があったなら、いつだけじゃなくて、何で入院してたかを明白にね!」
「はい!この方は・・・」
彼女はさっそくオーベンを目で探し始めたようだ。助教授は察知した。
「ん?オーベンか?オーベンは誰だ?」
「畑先生です」
医局長がとっさに答えた。

助教授は呆れた顔をした。
「畑。おーい、ハタケ?いないな。あいつがオーベンか・・。で、畑君は?医局長!」
「まだバイトから帰ってきてません」
医局長が答える。
「なに?バイトは早朝で切り上げだろう?」
「ですが・・・まだこちらには着いてないようで」
「バイトが終わるのは通常、何時だ?」
「名目上は、その病院の日勤の先生が到着する時間・・・9時前くらいでしょうね」
「なに?今日は大事なプレゼンだぞ。早く戻ってきてもらわんと困る!」
「ですから、早めに切り上げて戻ってくるよう伝えているのですが・・・」

このため早朝の時間帯にドクター不在とならざるを得ないケースが多い。

教授がボソッと呟く。みんなが一斉に耳ダンボとなる。
「はやく切り上げるって、あなた、それ・・・常勤の先生来るまでは、その病院・・・医者不在ってこと?」

助教授が少し取り乱していた。
「い、いやあ、それはないはずです、それは。じゃあ医局長!月曜日はプレゼンの時間帯のこともあるから!向こうの病院の常勤の先生にもうちょっと早めに来てもらうとか!君がいろいろ話し合って決めておくように!」

「ですが先生、よその病院の常勤の先生にそこまでは・・・」
「うちの系列か?」
「は?」
「そこの病院は、うちの大学の系列か?」
「いえ」
「うーん・・・ま!そこは臨機応変に!

臨機応変に!助教授の口癖だ。

この人たち、政治家みたいだなあ・・・。

助教授は少し機嫌が悪くなったようだ。
「じゃ、次いこう!わっちゃ、10分のロスタイムだ!はいはい!間宮くん!次々!」
「森ですが・・・」
「ん?ああ、そうだったな!現病歴!」
「昭和60年頃より当院循環器外来で定期内服されておりましたが平成2年と平成5年に呼吸困難で急性心不全にて入院。その後は安定していましたが3日前に呼吸困難が出現し、2日前に外来受診しました。急性心不全と診断し、入院しました」
「おいおい待ってくれ。何を根拠に急性心不全と?」
「え?呼吸困難があって・・」
「それで?」
「それで?」
「真似するなよ。それでどういう所見があって、どういう検査をしてそうなったんだ?って聞いてるんだよ?僕の言うこと、おかしい?」
「いえ・・」
「松田くん、僕の言うこと、おかしいか?君、笑っているようだが」

1列うしろの松田先生はハッと口を閉じた。
「いえ・・・」
「さっさと実験のデータ出せよ、きみい」
「はい・・・」

せっかく鬱から立ち直りかけていた松田先生は、またブルーに突入した。

<つづく>

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