詰所に入ると、気になっていた美人の川口先生がいた。野中先生はカルテを1冊ずつ取り出しにかかっていた。
「川口先生、こんにちは」
「あら。あたし名札ないのに・・こんにちは」
「先生は院生なのですか?」
「そうよ。なのにね、なぜかこうやって病棟の仕事もしてるの。まあ持ち患者2人だけだけどね」
「先生は呼吸器を専攻で?」
「今はまだ決めてないわ。トシキ先生は?」
「いやあもう、いいオーベンに当たりまして。オーベンのような先生になれたらいいです、それで」
「ナカちゃんのような先生に?あはは・・・先生もそう思ったの?」
「彼は誰からも好かれると思いますし」
「そうかなー?」
「え?」
「あたし、これからビトロの実験があるの。3時間くらいね」
「大変ですねえ」
「どれもうまくいかなくて」
「そんなこと、ないでしょう」
「ううん・・・。何もかもね」

彼女に少し陰が射した。

野中先生が台を抱えながらやってきた。
「おいトシキ!いっしょにカルテ書くぞ!」
「はいっ!」
僕らはカルテを台に載せ、ゆっくりとカンファレンス室へ運んだ。

そこには残り2人のコベンがすでに作業していた。横や後ろにはそれぞれのオーベンがいる。
水野は松田先生とかなり打ち解けたみたいで、お互い笑顔でいい感じだ。
森さんと畑先生は神妙な面持ちでデータとにらめっこしてる。

このような感じで僕のアンテナが無意識に働く。

野中先生はカルテを書き始めた。
「トシキ、書いたら一応、俺に見せてくれ」
「はい!」
「SOAP形式でな。症状、所見、評価、方針の順番でな」
「はい!」
「今何時だ?」
「晩の8時です」
「まだまだ夜は長いからな。何か頼もう。松田先生、畑先生、来々軒に注文しようと思いますが・・」
「オレ中華定食」「焼肉定食」
すぐに返事が返ってきた。
「トシキも中華定食にするか?他のコベンの先生もいいな?」
先輩の配慮が申し訳なかった。
「先生、僕が注文を」
「オレがする。お前は入力画面のオーダーを」
「すみません・・」
オーベンはさっそく0番プッシュした。

「ここの電話番号も、オレは覚えているんだぜ!」

本音だが、すばらしいオーベンに当たった。

夜間は能率が上がるが、無駄話になるうちに漫然と時間が過ぎていく。
それでも朝は待たない。

「おはようございます」
カンファレンス室はもぬけの殻だ。しかしものすごい散らかりようだ。
だが誰も決して片付けない。暗黙の了解でレジデントが掃除する。
大まかに片付けて、詰所へ。

「おはようございます」
「おはよ!」
 オーベンがもうすでに着いていたようだ。朝の7時。
「お早いですね、先生」
「さっき実験してて、今終わったとこだ」
「いいデータ、出そうですか?」
「ム?院生には禁忌のセリフだな。気をつけろ!」
「ははい、すみません・・」
「でもな、ここだけの話。有意差出たんだ」
「ってことは・・・」
「論文、早くも完成できるかも」
「凄いじゃないですか!先生、院生2年目で・・では先生、学位を?」
「早く取りたいな。お前は?」
「院ですか?」
「ああ。今から手伝っといて院に入ったら楽だぞ」
「僕も学位欲しいです」
「・・・お前はどう思う?」
「え?」
「学位をとることのメリット」
「メリットですか?メリット・・・それは・・・父さんが言うには」
「?」
「医師として箔をつけるためと」
「ハク?」
「それと、開業に便利だって聞きました。賞状を診察室に飾ったり」
「ま・・スポーツ医の賞状を飾るよりははマシだな・・」
「先生は、どうお考えを?」
「オレに質問するにはまだ10年早いよ・・」

オーベンに少し翳りが見えた。

「ああそうだ、そんな話してる場合じゃない!」
オーベンは机のカルテを3冊指差した。
「SOAP形式でカルテ書けって言ったろ!」
「はい。いちおう、そこに・・」
「見てみるか?一緒に。まずターミナルの患者。癌末期の」
「ええ」
「S) 睡眠中・・・確かにそうだが、これはモルヒネで眠ってるんだろ?」
「そうです」
「だったら、どう書けばいいのかは・・・じ、自分で考えろ。次、O)・・・体温37℃、呼吸音両側wheezing著明、四肢浮腫著明、腱反射低下・・・これは何が言いたいんだ?」
「え?客観的な評価を・・」
「これじゃあ漫然と診察しているだけだ。お前もつまらんだろ?」
「すみません」
「謝るのやめな!そーゆー癖のある医者は相手に悟られる!自分よりも弱いってな」
「き、気をつけます」
「オレは山岳部に所属したこともあるんだが。熊が来たらどうするか知ってるか?」
「クマ?・・・ですか?」
「ああ。クマ」
「逃げます」
「ダメだ。追っかけられる。どうしてか」
「?」
「自分より弱いと思われるからだ」
「・・・」
「だからクマに出会ったら、こう、睨む!威嚇するんだ。自分より弱いと思わせない!ウソだと思ったら山小屋の人間に聞いてみろ!」
「なるほど・・」

でも実際は逃げるだろうな。

「脱線した。いいか。この患者は家族の希望でこれ以上処置しないことになってる。お前に出来る事はなんだ?」
「僕にできること・・・まだ採血ぐらいしか」
「じゃねえよ!オレをなめてんのか!」
「い、いえ・・」
「病態の進行を把握しておくことだろうが。そのために採血したり写真撮ったりするんだよ!カンファレンスのためじゃない!」
「・・・・・」
「助教授が言ってただろ?何を指標に見ていくか、考えてるんだろうな?」
「指標・・・この人の場合は、腫瘍マーカー・・・画像所見・・・」
「癌だけ見るのか?」
「いえ・・その・・・」
「患者は?患者の一般状態!採血で言うと?」
「さ、採血・・・腫瘍マーカー」
「それはさっき出てきた!癌の指標だろ!オレが聞いてるのは患者の!」

知らない間に川口先生やほか数人のスタッフが現れた。

「・・・わかりません」
「ハア?どうしてだ?」

川口先生が向こうから口パクしているのは有り難いのだが・・・オーベンから目を離すわけにもいかず。

「栄養状態が悪化する。それに末期的な状態といえば?DICやMOFだ。DICを察知するにはどのデータを?」
「プロトロンビン時間、アンチ・・」
「そんな時間かかる検査じゃなくてもっと身近な!」
「・・・」
「血小板だ。この患者は既に下がりつつある。だからといってPA-IgGの検査なんか出すな!」
「は、はい」
「これって保険適応外だろ?家族を破産さす気かお前!」
「いいえ・・」
「あと2人の患者もこんな感じだ。ダメ!0点だ!やり直し!全部書いたらいいってもんじゃない。学校の試験答案とはわけがちがう」
「・・・わかりました」

これも試練だ。

<つづく>

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