外来業務にも少しずつ慣れてきた。単調に身を任せるというのは楽だ。

 入院患者も落ち着いていて、カンファレンスの運びもスムーズになってきた。しかし目の前の残務整理がやっとで、医師として何も身についていない。それだけは実感できる。

入局して2ヶ月の、6月末。

医局会が行われた。医局長の安井先生が議題を進める。

「そろそろ7月に入ります。夏休みの話を」
すると、長机にひれ伏していた水野がガバッ、と上半身を立ち上げた。彼の横にはいつもドラミ・・失礼、森さんが座っている。

「今年も昨年になぞらえ、各自2週間を限度として、7−9月の間に夏期休暇を取れるものとします」

2週間もあるのか。

すごいな。大学なのに。いや、大学だからか。

「2週間連続はダメですよ」

皆少し笑い出し、いい雰囲気になってきた。
「休まれる場合は、代医の先生をたててください。詰所への申し送りもお忘れなく」

教授は話題を変え、話しかけた。
「どうですか?レジデントの皆さんは?」
水野・森さんは僕のほうを向いた。こっち向くなって・・。
「慣れましたかな?ははは・・・」
教授は立ち上がり、後ろの僕らを眺めた。

みんなに緊張が走った。座ったまま、みな気をつけの姿勢だ。

教授は後方の僕らのほうへゆっくり歩き出した。

「君らの1年上のレジデントは、すごく優秀じゃった。そこにおる野中くんをはじめとして。野中くんは夏休み、返上しとったよな。たしか」

さすがオーベンだ。そのオーベンに今、僕は習っている。

「間宮君は救急病院で頑張ってる。そこの部長先生の評価も高い。部長がこんなことを言うのは珍しい」

 間宮先生か。飲み屋のオバちゃんの話では、救急に進んだのは、女を捨てたからだとか。捨てられたとも聞くけど。いったいどんな男に捨てられたのか・・。みんなの噂は大げさすぎて、統計上信頼性に欠ける。

「わたしも鼻が高い。ああそれと、川口くん。すまんすまん。忘れとった」
川口先生が少しうつむいている。彼女は今は院が中心だ。存在感がいまいち少ないのは仕方ない。

「彼女もよくやっとる。だがデータのほうは、いま1つのようだが・・・」
川口先生はうつむいたままだった。後ろの席の窪田先生が答えた。
「今、松田先生とわたしと3人で、ビボの実験を2つ並行しています」
「資金をそれだけかけるんだから、まともなデータを出さないといかんよ、君達」

教授はピタリと立ち止まり、続けた。どうやら今のは本音の核心だ。
「あと1人いたな・・・」

教授はUターンし、向きを変えた。振り向いていた皆はいっせいに前を向いた。

「これからは生き残りが難しい時代と言われておる。個人ではない、大学病院そのものがだ。大学自体、統合・合併の方向に進んでおる。ならばみな、力を出し合って、それも必死になって研究しないといかん。夏休みとノホホン言うてる場合ではない」

みんなしんみりとなってしまった。

「だが・・・飛躍のための足踏みも必要だ。さらなる飛躍への反動のために、休息を十分取る事も必要だ。医局長!」
「はい!」
「休暇を通常通り、取らせなさいな。レジデント諸君にも」
「ははっ!」

みな解散した。とりあえず、夏休みは守られたようだ。

黒板に、『医局旅行・富士山登山・無料自由参加。参加者は医局長まで!』とある。

行きかう人の中、病棟医長がやってきた。

「今、いいか?」
「はい?どうぞ」
「1週間後に地方会があって、助教授が座長やるんだ。そこで僕がどうしても出席せにゃならん。そこでお願いなんだが」
「はい」
「1週間後の土曜日の当直と日曜日の日直。やってくれるか」
「はい!分かりました」
「じゃ、伝えておく。病院はこの地図にある」
「しかし、僕でもつとまりますでしょうか・・・」
「心配ない。寝当直だ。コストは10万」
「10万も?」
「夜間救急はやってるが、めったに来ない。病棟もいたって平和だ」
「そうですか。なら・・」
「ヒマだから、何か参考書とか持っていって、読むといい」

10万も・・・。僕は金に飢えてるわけではない。しかし・・・おいしいバイトには違いなさそうだ。

僕は階段を登った。

オーベンが医局で待っていた。
「病棟患者の報告は?」
「あ、はい。変わりないようです」
「至って平和か。だが気を抜くな」
「はい!」
「で・・夏休みはどうする?」
「え?本当に2週間も?」
「大学病院は夏休みは多いさ。人が多いからな。だが、うちの医局は事情が違う」
「ええ。人手が少ないですからね」
「オレはオーベンという手前もあるから、今年も取らない」
「え?」
「お前はお前の判断ってことでいい。用事もあるだろうし」
「し、しかし・・・」
「彼女とかいないのか?」
「そういうの、いません。先生は?」
「別に・・・遊ぶ女はたくさんいても、旅行とかはしないしな。そんな価値のある女もいないし」
「先生、ずっと働きづめですし・・」
「せっかくいいデータも出てる。早くまとめないといけないし」
「先生、院の1年目で・・・」
「運がいいだけだ」

松田先生が現れた。
「すまんが、来週空いてるか?」
「すみません。バイト代わることになって・・」
「あちゃ、先を越されたか。わかった、もういい」
「先生も学会ですか?」
「地方会だけどな。発表する先生のサポートにな」
「そうですか」
「来週は人、少ないぞ」
「またですか・・」
「で、お前がバイトなら・・もう数人しかいない」
「先生。来年は頑張って入れましょうよ」
「新入医局員?秋が勝負だな。勧誘は!」
「野中先生も、後輩とか・・!あ?」

オーベンの姿はなかった。僕は両手を合わせた。

『いつもありがとうございます、オーベン!今日はよく休んでください!』

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