教授はペースを速めている。助教授は手を膝の上につきながら、一歩一歩重々しく進んでいた。

「ハーハー、大丈夫か。トシキ先生も、野中先生も。ん?他の奴らは?」
オーベンは気まずそうに言った。
「すみません。私が後ろの確認を忘れまして。知らない間に見失いました」
「君のせいじゃないだろ。ついてこれなかった奴らが悪い」

教授が何か助教授に囁いている。助教授はまたこちらを向いた。

「わしらと君らだけになったからちょうどいいが・・・。9月から医局としていろいろ考えることがあってな」
「ええ」
 オーベンは不思議そうでもなかった。

「野中君のアピールの影響で、入局希望者がかなり増えているんだ。知ってたか?」
「来年の?今の6年生がですか?」
「ああ。そこでだな。これからが重要だ」
「・・・・・」
「今のオーベンは野中先生とあと2人。そのうち1人、畑くんはよその病院へ出る。そこでだが」
「はい」
「今の野中君なら、あと2人のコベンの面倒を見れる能力は十二分にあると、わしらは考えた」
「ほう・・・?」
「わしの真似をするな。でな、9月から君がオーベンとして3人のコベンの面倒を見る。君の上に病棟医長」
「先生、それはとても・・」
「実験データもそろうんだろ?」
「この前の実験は・・・」

 そうだ。細胞が死んでしまって判定できなかったんだ。

「それはわしらが何とかする・・・頼んでおくから心配するな」

 オーベンは僕の目を少し気にしておられるようだ。
「・・・はい」
「レジデントのコンビで意見交換し、病棟医長に君が逐次報告。新しいシステムだ」
「自分は手技的なものはまだ・・」

だがオーベンはこの2年目の時点でIVHもドレナージなどの基本的処置なども、十分指導できるレベルにあった。
カンファレンスも時々司会を務めている。

「なあに。そのときは病棟医長か信用できる院生を呼べばいい」
「できるかな・・」
「わしと教授がきちんと話しておく。文句は言わせん」

 少しひんやりしてきた。また出発だ。

教授が歩きながら呟いている。
「もしな君。言うこときかない奴とか、不満言う奴とかおるのなら・・」
「・・・・・」
「わたしに言いなさい。処分します」
 助教授は鼻で笑っている。
「トシキくんも聞け。最近はわがままな医者が増えての。大学であんだけ世話したはずの奴が、よその病院移ったらサボって使い物にならん・・そんなのは、わが医局には必要ない」
「はい・・・」
「中には大学の悪口まで言う奴までおる。らしいな、野中くん。君、そう言うとったよな。君の同僚の・・」

 オーベンは少し気まずそうにうなずいた。

「そういう奴こそ、医局には要らん。思い知らせる。来年、大勢医局員が確保できそうなら、こういうブラックリストの奴らは追放しようと思う」

7合目の標識を越えた。

「じゃが。この世界。クビにすることはできん。ならば・・・」
 教授の言葉はそこまでだった。

下界では日光が広く射している。しかし僕らの頭上は白い雲で覆われつつあった。

助教授がひざまずいた。
「あたた・・・」
「大丈夫ですか?」
僕は支えようとしたが助教授は手を振った。
「いや、いい・・・いかんな。年を取ると」
「休まれたほうが・・」
「お前に言われたくなかったな」
「しかし・・・」
「教授!申し訳ありません。私、足手まといになると思われますので、ここからは・・」
 教授はうなずいて、ひたすら前方を目指し続けた。

助教授をあとにして、僕・オーベンは教授と少し離れたまま歩み続けた。
「トシキ・・・いいか。さっきの内容は誰にもしゃべるな」
「え?ええ・・・」
「うちの医局は研究に人を割きすぎて、臨床の力がおろそかになっている」
「・・・たしかに・・・人は・・・少ないですね・・・ハアハア」
「だから俺達が臨床の土台になるんだよ」
「土台・・・」
「病棟は俺たちで仕切るんだ」
「仕切る・・・ハアハア」
「オレとお前のコンビなら出来る。お前も優秀だし。たぶんみんなついて来る」
「そうでしょうか・・・」

後ろには医局員どころか観光客の姿すら見えなくなった。だが下山してくる人間は多い。天候が悪化している
から、みな降り始めているのだ。

遠くに雷の音が聞こえている。オーベンは腰に両手を当てて指差した。

「今、光ったろ。遠くのほう。落雷だ」
「こっちには・・」
「こっちはセーフだ。さ、もう8合目だ。頑張れ!」

肩で息をしながら、僕は次の1歩を踏み出した。教授はマイペースではるか先を進んでいる。
「しりとりも飽きたな。ホントの勉強といくか」
「ええ・・?」
「嫌そうだな。だがこんな高いところで勉強する奴は俺らくらいだろ?」
「はあ・・・先生。今はとても」
「サンリズムという薬が出たな。あれの分類は?」
「ハアハア・・・い、Ic・・」
「Iaは何が?」
「あ、アミサリンに、リスモダン・・」
「物質名で言え」
「ええっと・・・」
「アップアップ!ジリジリ!」
「?」
「お前息苦しくてアップアップ!オレ、後ろからジリジリ!」
「?」
「だから!アはアミサリン。プはプロカインアミド。ジはジソピラミド、リはリスモダン!」
「ハアハア・・」
「QT延長するのはIaかIc、どっちだ?」
「ええと・・ハアハア」
「Iaだろ?国家試験受けて、もう忘れたか?ええ?」

オーベンが少し興奮している。助教授の話があってから、どこか不安定だ。

「トシキ。血圧が低いときは?」
「昇圧剤を・・」
「バカ!いつもオレが言ってるだろ!まず医原性のものを確認すると!」
「ハアハア・・そ、そうでした・・」
「じゃあ聞くが、医原性のもので血圧を下げるのは?」
「こ・・・降圧剤。内服に・・テープ」
「ふん、それで?」

吹き付ける風で、かなり寒くなってきた。

「それでどうなんだ、トシキ!」
「あとは・・・あとは・・・」
「坐薬!鎮静剤!」
「そ、そうでした・・・」
「医療ミスして、『ああそうでした』はないぜ」
「は、はい・・・」

正直、歩くことだけに集中したかった。

「なぜ立ち止まる?」
「す、すみません・・」
「じゃあうっ血性心不全で昇圧剤を使うとしよう。何を?」
「ドド・・・ドーパミンを」
「何ガンマまで?」
「3から5・・」
「そうだな。だがそれは尿量保存目的だろ?その作用をキープしたいならそれ以上は投与できんな」
「は、はい・・」
「なら次に使うのは?」
「ドド・・ドブタミン」
「それで?」
「つつ、次は・・・ノルアド」
「そうだな。昇圧剤は他にも?」
「え・・・エホチール」
「そうだ。だが持続的に使うものではないな」

 またたく間に9合目へ到着。もう景色なんかどうでもいい。

<つづく>

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