野中先生の命令で、院生の実験を毎晩手伝うことになっていた。
ただの手伝いではなく、その度に実験の要領についても指導してもらうという、何となく有益な内容だった。

新医局長の板垣先生が実験室に入室。新任でクールな呼吸器専門医だ。

「いいですか?トシキ先生」
「はい・・・」
実験中のピペットを置き、僕は実験室を出た。

「どうですか、研究のほうは?」
「今は手伝いばかりですが。まあボチボチやってます」
「早くデータ出して、遊べる時間作りなさいよ・・」
「・・・何かあったんですか?」
「いや。今、個別に面接してるとこだよ」
「面接?」
「うん。秋の人事で、1人募集があってね」

きたぞ。

「関東の施設。うちの医局にとっては3年に1度のチャンスです。世界的に有名な先生方とプロジェクトを組めます」

もう既に聞いている話だが、知らないフリが無難だ。

「臨床もですか?」
「そうです。だから、人気が高いんですよね。で、希望者を募ってるんですが」
「先生。噂では、成績の一番優秀なドクターが・・」
「そうです。よく知ってますね」
「3年目以下のドクターと聞きました。自分は2年目です。3年目のドクターには到底かないませんし・・」
「いや。実力ではないですよ。いかに患者・医局員の評判がいいか!頑張り屋であるか!ま・・・実のところは何よりも、私や教授達の印象ですけどね」
「なるほど・・」
「与えられた自分の使命をきちんとこなす人物ですよ」
「ああ、僕はどうですかねえ・・・その点」

医局長は身を乗り出した。僕ら2人の顔に影がかかった。

「さては、狙ってましたね」
「ここだけの話、そうです」
「いちおう希望者が誰なのかは伏せてます。今は各人、確認を取ってるんです」
「先生、評価はもう・・始まってるんですか?」

医局長はパンフレットをポケットにしまった。
「ええ。もう始まってます」
「頑張ります」
「フ・・・頑張りすぎておかしくならないようにね」
「なりませんよ」
「ホースが見える、ホースが見える、とかほざいている医者とかいるみたいですよ」
「ホース?」
「さあ私もよく分かりませんが。故障してきてる先輩方が多いってことです」

ホース・・の白い馬?あれは・・「スーホの白い馬」だったっけ?


僕はまた注射当番になった。というか、今回は引き受けた。
なんとなく例のナースが、まだいるような気がしたからだ。

わざとらしく準備をしていると、あの子がやってきた。
全然、目を合わそうとしない。

「みなさん、すごい必死ですよね」
「え?ああ、そう。分かる?」
「はい。いつも熱心ですけど、最近とくに」
「あのさ・・」

「はい」
彼女は一瞬で静まり返った。

周りを見回したが、誰もいない。

「あの・・・夕ご飯、外で食べようと思うんだけど」
「え?」
「よかったら、1度」
「・・・・・あ」
「う!」

僕らは言葉がぶつかった。

「すまない。何?」
「いえ。そ、そちらから」
「そっちが先に!」
「そっちから」
「ダメならいいよ」
「いえ、行きます」
「やった!・・・・じゃ!」

僕は廊下へ飛び出そうとした。

「あ、あの!」
「え?」
「いつ・・・」
「あ、そうか。夜9時」
「きょう?」
「そうだよ」
「急ですね・・・」

場所も決めて僕は廊下を出、下へ向って伸びをした。
「(やった!夢みたい!)」

手際よく当番も終わり、ニコニコしながらカンファ室へ行った。
「さてと・・」
僕は荷物の片付けにかかった。
みんな不思議そうな顔で見ている。まだ夜の7時だからだ。

1年目の石丸君が歩いてきた。

「先生、IVHどうしても入らない人がいまして」
「注射当番は終わったけど・・」
「本体のみの輸液です。ソケイ部からアプローチしましたが・・ダメでした」
「16ゲージのふつうのカテーテル?」
「いえ。ダブルルーメンです」
「そりゃまたなんで太いのを?」
「手や足の末梢からは無理なんです。詰まってしまって。となると1本では心細いし」
「太いほうが、感染の確率も高くなるんだよ」
「はい・・・」
「今、何時?」
「7時半です。先生、今日は用事が・・?」
「そうなんだ。急ぐ。いったん帰って・・」
「先生、かなりお急ぎのようで・・?」
「う、うん。講演会・・」
「循環器のですか?今日ありますね!でも間に合いますかね?」
「う、うん!終わりかけででも、行かないと!」
「では先生、わたくしも!」

次々と周りの人間が立ち上がった。
「いこ!」「連れてって!」「いこか!」

島先生は興奮していた。
「自分も行くぞ!トシキくん!」
「島先生。違うよ」
「抜け駆けは許さんよ!」
「違う違う。そうじゃない」
「何それ。鈴木雅之?」
「は?鈴木?」

僕は鈴木先生のほうを見たが、彼は首を横に振っている。

「違うよ、トシキ先生。それにしても、医学以外はからっきしですね」
「一休さんみたいですまない。実はそうでもでもないんだけど」
「自分がIVH、やっときますよ!」
「そ、そう?助かる」

僕は医局へ走り、あわてて帰る準備にかかった。
白衣を机の上に放り投げた。

「おいトシキ、今から実験手伝え」
マスクをした三品先生が入ってきた。
「先生、すみません。どうしても用事が・・」
「ほお、お前が断るとはな。よっぽどか?」
「はい。よっぽどです」
「んー。じゃあいつ手伝える?」
「明日からならいつでも!」

もちろん・メチロンです!

僕はエレベーターに乗り、駐車場へと向った。
途中、ポケベルが鳴った。病棟の夜勤だ。

「もしもし、トシキ」
「センセ、今どちらにいらっしゃるんですか?」
「外です」
「いつこちらに戻ってらっしゃるの?」
「急用で帰るんです」
「こちらはそんなこと、ひとっことも聞いてないけど?」
「用件は?」
「こんな時間にIVHなんか、困るんですが」
「石丸君の患者?大目に見てよ」
「なっ!何を大目にですか!キイイッ!」
気分の高揚で言葉に配慮が欠けた。

車で駐車場を出て合流を伺ってる僕にはささいな事だった。

「すみません。今の言葉は軽率でした。IVHを延期してくれと?」
「そうですよ。人手が少ないっていうのに!」
「でも介助は2年目の鈴木先生がやってるでしょ?」
「いえ。1年目の先生だけです!」
「なに?」

僕は急ブレーキをかけ、路側帯へ寄せた。
「それはいけませんね」
「だ・・だったら先生が説得するか!直接ここへ来て手伝ってください!」
「電話、鈴木君に代わってください」
「・・・・・・はい、鈴木です」
「困るよ。介助、ちゃんとしてくれないと」
「ああ、ゴメン。自分の患者さんがムンテラしてくれって・・」
「そんなの後回しでいいだろう?1年目やナースに手伝わせちゃダメだよ」
「先生、そんなに怒らんでも・・一体どうしたんですか?」
「怒ってないよ。その・・・夜勤の人がしつこいから」
「すみませんでした!」

僕は車で自宅へいったん戻り、約束の場所に向った。

<つづく>

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