約束どおり、僕は車を路地の自動販売機の横に停めて待っていた。

日曜日の朝9時。回診はなんとか廻ってきた。雑用をいろいろ押し付けられながらも、
なんとか病棟から抜け出ることにも成功した。しかし病院の門を出るまでは油断できなかった。

今日の予定は、まず彼女を乗せたら午前中は高速道路経由で海遊館へ行き、そこで水族館
を廻って昼食。そのあとまた高速に乗って、三宮のほうへ行って異人館に行って、六甲山を走って
六甲山ホテルの近くの喫茶店へ。

僕なりに考えたストラテジーだ。しかし様々な書籍を参考にしたことは隠せない。

約束の時間を数分過ぎたところ、後ろから歩いてくる2本足が見えた。僕は助手席へ乗り出して、
ドアを開けようとした。

が、ただのオバサンだった。彼女は本当に分かってるんだろうか・・?
前へ向いた途端、コンコンという音に驚いた。彼女が屈んで窓を叩いている。
彼女はそのままドアを開けた。

「いいですか・・?よいしょっと」
「う、うん」
ピンクの口紅をつけた彼女は、いつもと違った。これといった匂いのない車内は、息苦しいような香水の匂いに染まった。

「じゃ、行きましょうか」
「ごめんなさいね、遅れてしまって」
「・・・7分の遅刻ですね」

なぜ丁寧語で喋る?

「これ、外車なんですね。すごい。給料で?」
「まさか。ちょ、貯金で・・」

親のお古だ。情けない。

車は高速に乗った。
「どこへ行くんですか?」
「海遊館へ行こうかと」
「ああ、この前友達と・・」
「え?行ったの?」
「いえ。もう半年も前だし」
「は、半年・・・」
「いいよ。あそこは好きだし」
「僕は初めてで・・」

だが十分予習はしていた。

車は環状線に乗った。
「天保山で降りるよ」
「はい」
「この環状線はこの前乗ったよ」
「この前?」
「もとオーベンの野中先生と、友人の救出にね」
「病気?」
「え?僕が?」
「じゃなくて。友達が病気で?」
「あ、いや。水野という同級生がね、当直先の病院で困ってて」
「わざわざ手伝いにですか?」
「そう」
「無事助けられたんですか?」
「そ、そりゃ、もう・・・」

この嘘つきめ。しかし車は視線を合わせなくて済むから助かる。

「先生は何科に進まれるんですか?」
「僕?さあ・・君は?」
「あたしは、今の病棟ですから」
「あ、そうか。ゴメン。そうだなー・・・」

ああ・・なんで病院の話にばっかりなるんだろう・・。
だが幸い、会話は途切れる事がなかった。

「トシキ先生がこの前IVH入れられるの、見ました」
「いつ?」
「この前、介助してたんですよ?」
「いや・・知らなかったな」
「ひどいなあ。先生、5分で入れるって・・そしたら3分もかからずに」
「そ、そう?」

そうなんだ。知ってる。君がいたのでプレッシャーにはなったけど、いい所を見せれた。

「あの・・」
彼女がいきなり神妙な口調になった。こ、これは・・・。

「同じとこ、廻ってませんか?」
「え?」

確かに同じ風景が続いている。そうか、環状線を廻ってた。

「出口はもう少し後です」
「あ、そう・・」
彼女は道に詳しいようだった。

車は湾岸線方面へ向う。やがて天保山出口だ。

「この前あたし、婦長さんにすごく怒鳴られて」
「婦長さんはクセがありすぎるしね」
「そんなことないわ」
「いっ?」
「最近分かってきたんです。厳しくされるっていうのは、それだけ思ってくれてるんだって」
「そうだね。そういう意味では・・・僕も野中先生には感謝をしてるよ」
「そうですね。先生、ツイてますよ。あんな立派な先生に習えて」
「そうだね・・」

あまりいい気がしなかった。でも説得力は十分ある内容だ。

車は高速の出口を出た。夏休み期間のせいか、車はかなり混んでいる。
彼女はすこしソワソワしている。

「どしたの・・?」
「え?いえ・・」
「気分が?」
「なんでもないです」

僕は会話を続けた。

「来月、9月は人事があってね」
「ジンジ?」
「だれかが転勤するんだよ」
「誰がですか?」
「まだ決まってない」
「野中先生だったら、ヤだな・・・」

僕は泣けそうなくらい情けなくなった。

「希望者が1人、東京の施設まで行けるんだ」
「東京。遠いですね」
「でも希望者が多いようなんだ」
「先生は希望を?」
「ああ?僕?僕も・・・うん、してる」
「そうなんだ。頑張ってください」

え?それだけ?

「希望者が多かったら、どうやって選ばれるんですか?」
「上層部が決めるんだって。頑張り屋のナンバー1をね」
「頑張り屋?」
「どういう基準かは知らないけど。何か基準があるらしい」
「それは明かされてないんですね・・」
「でもね、この前野中先生が言ってた。ナンバー1なんか目指してどうする?って」
「そうですよね。患者さんのことも考えなくなりそうですし」
「今を一生懸命やってれば評価は自ずと出るかな」
「出ますよ。先生なら」

少し、嬉しかった・・。

やっとの思いで駐車場に車を停め、僕らは海遊館の入り口へ向った。すごい列だ。
この暑さで・・。彼女はハンカチを取り出していた。

「あの・・」
彼女はまたうつむき加減になった。
「と・・・」
「え?なに?」

ひょっとして、『トシキくん・・』?

<つづく>

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