家族への説明のため、廊下へ出ようとしたところ、婦長があのコを引き引き連れてやってきた。

婦長の左手は・・彼女の右耳をつまんでいる。その指に彼女が引っ張られていた。
「ああ!あああ!」
彼女は泣き叫びながら病室へと入ってきた。婦長は指を離さない。

僕はまた部屋に戻った。血圧は持ち直し、ドレーン排液もなくなってはいる。エアリークも幸い、なし。

「婦長さん。悪いのは僕ですし・・」
「アンタもそうだけど、この子もよっ!」
婦長は彼女の耳をグイッと引っ張った。
「きゃあ!」
彼女はよろめきながら、ベッド柵に倒れこんだ。

婦長は怒り心頭だ。

「まったく、人に迷惑ばかりかけて・・!」

僕は彼女を抱き起こした。髪は乱れて鼻の周囲は涙と鼻水で濡れていた。
「婦長さん、責任は僕が」
「何カッコつけてんのよ!責任?アンタがこの患者さんの代わりに死ぬとでも?」
「死ぬなんて・・!」
「経験もロクにないくせに、責任、責任って気安く言わないでよっ!」

新人の子は泣きながら右の耳を押さえている。
婦長は腕組みしたまま沈黙を続けた。

「これで患者さんが亡くなったら、どうするんです?訴えられたら、私にも降りかかる!」
「・・・・・・」

返す言葉など、見つからない。

僕は医局長を交え、家族へ説明した。
医局長の指示で、僕は口を挟まないことになった。

「留置しておりましたカテーテルが抜けてしまいました。患者さんの体動で引っ張られた
可能性が一番高いと思われます」

家族の方々は一生懸命、小刻みに頷いていた。

「そこでちょうど主治医が近くにおりまして、急遽カテーテルを再度、挿入にかかりました。
カテーテルは入りましたが、急な処置にならざるを得なかったため、血管を少しかすったようで」

家族のレスポンスを見ていると、どうやら僕への敵意はなさそうだ。

「それでまた急遽、肺の外にたまった血液をドレナージして、外に出しました」

こんな説明で、果たして分かるんだろうか。

「そのあとは一命をとり止めまして・・」
家族の方々は深々と僕に礼をした。思わず僕は少しのけぞった。
「カテーテルはまた別の場所より入れました」

最前列に座っている中年の長男が呟いた。
「先生。まあ、よう分かりましたわ。細かい内容は分かりませんけど、わたしらみんな、
この先生を信用しとりますし。いつも夜遅くまでやってくれとる」
僕は無機質に目線を合わせていた。

「ふつうだったら助からん、こんな病気ででもここまで引っ張ってきてくれたんやから。
それだけでも感謝しております」
長男は深々と頭を下げた。

医局長は全員を見渡した。
「では、よろしいでしょうか。何か質問とかあれば・・・・・ないですね!では」

皆が席を外そうとしたとたん、最後尾の若い男性が立ち上がった。
「あのさ、カテーテルって、そんな簡単に抜けるのかな?」
医局長はまた座りかけた。
「と、いいますと・・?」
「オレもよく知らないんだけど、カテーテルってけっこう奥のほうまで入ってるんですよね。
根元は糸でしばってるから、外れるってよほど・・」
「だまれ!」

長男が血相を変えて怒りだした。
「お前は口を開かんでいい!」
「おっちゃん、ただオレさ」
「わしが先頭で、話を聞いておるんだ!わしが納得したら、それでええ!」
「いや、少し気になって・・」
「ケチつける暇があったら、とっとと仕事せえ!」

僕は止めたかったが・・。

「トシキくん、さ、行きましょう。話は終わった」
「・・・・・」

僕らは医局へ引き上げた。
「教授、入ります」
医局長は教授室のドアを開けた。
「さ、トシキ先生。こちらへ」

教授が机で書き物をしている。視線は原稿にある。
「最近の論文はなあ、データがよくても考察で死んでおる。もったいないのう・・」
「・・・・・」
「さて」

教授は僕を正面より見上げた。

「どうだ。忙しいか」
「・・・・え・・」
「忙しすぎて、目が回りそうだろう。かまわんかまわん。若いうちは」
「・・・・・・・」
「わしも若い頃は、決して人に言えないような過ちを犯したこともある。
もちろん、それを教訓としてるから今の自分があるのでな」
「はい・・・・」
「だが教訓としていくためには、今の自分が見えてなければいかん。今の自分が。
つまり自分への評価だよな。トシキ先生」
「はい」
「君は、今の自分が見えているか・・?」
「・・・・・・・」
「野中君の話では、君の様子が最近おかしいということだ。力が入ってない。自分も回りも見えてないときがある、とね。
今後、医局のキーパーソンとして、やっていってもらわないといけない貴重な人材なのに。私も以前から期待しているのだ」
「・・・・・・・」
「そこで、今回のミス。ミスそのものを責めているわけではない。ただ今回さらにこういう事態が
起こったことで、君はその・・・自分そのものを責めてしまうのではないかと」
「自分を・・・」
「そうなのだ。そうやって君が潰れてしまって、医局を去るような事態になっても困る」

そうか、それが心配なのか。

「え?そんなことは・・」
「ないな。それでいい。だが1つ教えてくれんか?君がスランプに陥ってしまった理由を」
「・・・・・・・」
「仕事で悩みが?」
「いいえ」
「誰か、嫌がらせをする人間が?」
「そんな、いません」
「君は大事なスタッフだ。教えてくれればこちらが対処する」
真横で医局長が両手を合わせてゆっくり頷いている。

「い、いません。本当です」
「そうか。ま、いいだろう。外したまえ・・」
「はい!失礼しました」

教授室を出た。医局長は肩を叩いた。
「頑張ってください」
「ええ・・・」

いや、もう人の期待とか、トップがどうだとか、そんな話はいい。

あの人を治すこと。それ以外は何の価値もない。

だが焦る気持ちであることは、以前となんら変わりはなかった。

<つづく>

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