< オーベン&コベンダーズ 5-3 ドクター・スランプ >
2004年9月14日中年ナースは無視して出て行った。しばらくすると、例のあの新人ナースが
やってきた。
「私が・・・いいでしょうか・・」
「ああ」
「どこから入れます?」
「・・・・・そうだな」
「・・・・・」
「そけい部から・・」
老人の両足は拘縮のため軽度居曲していて、ソケイ部がかくれた状態になっている。
両足を抑制帯でくくれば、なんとか伸ばすこともできようが・・。
「やっぱやめよう。右の頸部からにする。仕方ない」
右頸部の頚動脈を触る。細いせいか、血圧のせいか、なかなか触れにくい。
そのすぐ外側くらいしか、刺せる領域がない。鎖骨下のほうが・・・。
しかし・・・。僕はこの前の失敗を思い出した。
「じゃ、注射器ちょうだい」
頸部を麻酔。もう一度、頚動脈を触れてみる。
「・・・・?どこだ?」
もう1回触る。しかしやっぱり分からない。
部屋の入り口に婦長が立っている。
「先生が入れるんですか?」
「ああ・・そうだよ・・・いや、そうですよ」
「大丈夫なんですか」
「・・・・・」
婦長が顔を左右に振りながら、こっちを覗いている。それがまたプレッシャーだ。
「先生、このコ、ちゃんと先生に謝りました?」
「謝る?この前の件?」
「そうだけど。細かい事情を」
「事情?」
「ちょっとアンタ!」
婦長はあのコの足をギュッと踏みつけた。
「あんた、ちゃんと説明したって・・」
そのコは少し震えていた。マスクをしているので表情がよくわからないが。
「せ、説明は・・」
「アンタ、ちゃんとこの前あたしに言った!『先生には私が説明して、納得いただいたと!』」
僕はわけがわからなかった。
「何?言ってる意味が・・・?」
そのコはうつむいたまま、少しずつ喋りだした。
「この前・・カテーテルが抜けていた件ですが・・・」
「ああ、知ってるよ。今さらそんなの・・」
婦長は腕組みして後ろから見ている。
「実は、1回・・・・かなり抜けたことがあって・・」
「1回抜けて・・・で、とうとう完全に抜けた。よくある話だけど」
「1回、抜けたときに。私、そのまま入れまして」
「・・・・奥へ入れたのか。点滴は入ってた?」
「落ちてました。滴下は良好だと」
「そうか。なら・・」
「そしたら刺入部がプクーと膨れてきて・・」
「・・・・・・」
「こ、怖くなって・・・そそ、そのまま・・・」
「・・・・・・」
「抜きました・・・・・」
婦長は冷ややかに見下ろしていた。
「嘘つきが・・」
僕は小刻みに頷いていた。
「そうか。それで僕がその後、同じところに針を刺したら、そこが腫れてたために
同じ血管にヒットしなかったんだな・・・」
彼女は90度、うつむいていた。
「そおです、そぷです!すみません、すみません!」
婦長は彼女の腕をつかんだ。
「あたしの病棟に、嘘つきは要りません」
「・・・・・」
「出て行って」
「・・・・・」
彼女はしわくちゃに汚れた顔で、僕のほうを見上げた。
「ごめん、先生!せんせい!どうしても・・・あたぢは・・・ううう」
僕は視線をずらした。
婦長は彼女の腕を握ったまま、部屋の外へ向った。
「代わりを連れて来ますから。先生」
「せんせい、せんせい・・・!」
「とっとと!」
婦長は彼女の髪もつかんで、外へ引っ張りだした。
「うわあ!わああ!ごべんなざいごべんなざあああいい」
異様な光景だった。悲鳴はやがてなくなり、代わりの中年ナースが現れた。
「あれ、まだ入ってないのか・・・」
僕は再び刺入部を確かめた。だがやっぱり目安の頚動脈が分からない。
「うう・・・」
少し震える手で右頸部を押さえ、右に持った針をプスッ・・・と浅く刺した。
まだ血液も戻っていないが・・・。
手がそれ以上進まない。
「先生、血が返ってませんけど」
「うう・・・・」
「どうしたの?」
「ダメだ・・・」
「ダメ?」
「ダメなんだ・・・・・」
怖くて、針が進まない。気のせいか、布で覆われた患者の呼吸回数が増えているように思える。
「か、看護婦さん。SpO2は下がってないかな・・」
「・・・・・そういえば、94・・・あれ?表示が消えた・・?」
「き、気胸だ!気胸・・・!」
僕は布をパッとひっくり返した。器具が床に散乱した。
「先生何を?危なっかしい!」
「き、気胸かもしれない!だ、誰か・・」
「誰かって?」
「誰でもいい!早く!」
「呼ぶの?ドクターを?」
「いい、医局なら!」
「あたし、離れていいですか?」
「いいから!呼んで!呼んで!」
彼女は足早に部屋を去っていった。
僕がふと患者さんの手指に目をやると、SpO2モニターの装着が外れていたのに気づいた。
つけなおすと・・・SpO2 99%。呼吸回数も多くない。
聴診すると・・・左右差もないようだ。僕は立ち尽くしたままだった。
廊下から駆け足音が聞こえてきた。この音は・・・。
「トシキ!大丈夫か!」
「野中先生!」
「どうした?」
「いえ。だ、大丈夫でした」
「はあ?大丈夫じゃないって聞いたから、すっ飛んで来たんだぞ!」
「気胸を起こしたかと」
「ああ、今日入院の患者さんか。鎖骨下から?」
「いえ。頸部からIVHを」
「空気が戻ってきたのか?」
「いえ。それは・・・なかったと」
「聴診させろ・・・・・なんだ。大丈夫だろう、これは」
「レントゲンを・・」
「余計な被曝を、安易にさせるな!」
「しかし・・」
「それより早く、入れてあげろよ!準備はどうした?」
「ダメなんです・・・」
「なに?」
「できません。難しくて」
「痩せ型で、むしろ鎖骨下のほうが入れやすいような感じだぞ」
「しかし・・・」
「鎖骨下は、循環器に入ったら必須だぞ!」
「グループはまだ・・」
「・・・・呆れたヤツだ。まるでユウキと話してるみたいだよ」
野中先生はナースコールを押した。
「オレがする。誰か介助を」
僕は床を片付け始めた。
「先生、自分が・・」
野中先生はうつむき加減に、少しため息をついて呟いた。
「オマエはいい」
<つづく>
やってきた。
「私が・・・いいでしょうか・・」
「ああ」
「どこから入れます?」
「・・・・・そうだな」
「・・・・・」
「そけい部から・・」
老人の両足は拘縮のため軽度居曲していて、ソケイ部がかくれた状態になっている。
両足を抑制帯でくくれば、なんとか伸ばすこともできようが・・。
「やっぱやめよう。右の頸部からにする。仕方ない」
右頸部の頚動脈を触る。細いせいか、血圧のせいか、なかなか触れにくい。
そのすぐ外側くらいしか、刺せる領域がない。鎖骨下のほうが・・・。
しかし・・・。僕はこの前の失敗を思い出した。
「じゃ、注射器ちょうだい」
頸部を麻酔。もう一度、頚動脈を触れてみる。
「・・・・?どこだ?」
もう1回触る。しかしやっぱり分からない。
部屋の入り口に婦長が立っている。
「先生が入れるんですか?」
「ああ・・そうだよ・・・いや、そうですよ」
「大丈夫なんですか」
「・・・・・」
婦長が顔を左右に振りながら、こっちを覗いている。それがまたプレッシャーだ。
「先生、このコ、ちゃんと先生に謝りました?」
「謝る?この前の件?」
「そうだけど。細かい事情を」
「事情?」
「ちょっとアンタ!」
婦長はあのコの足をギュッと踏みつけた。
「あんた、ちゃんと説明したって・・」
そのコは少し震えていた。マスクをしているので表情がよくわからないが。
「せ、説明は・・」
「アンタ、ちゃんとこの前あたしに言った!『先生には私が説明して、納得いただいたと!』」
僕はわけがわからなかった。
「何?言ってる意味が・・・?」
そのコはうつむいたまま、少しずつ喋りだした。
「この前・・カテーテルが抜けていた件ですが・・・」
「ああ、知ってるよ。今さらそんなの・・」
婦長は腕組みして後ろから見ている。
「実は、1回・・・・かなり抜けたことがあって・・」
「1回抜けて・・・で、とうとう完全に抜けた。よくある話だけど」
「1回、抜けたときに。私、そのまま入れまして」
「・・・・奥へ入れたのか。点滴は入ってた?」
「落ちてました。滴下は良好だと」
「そうか。なら・・」
「そしたら刺入部がプクーと膨れてきて・・」
「・・・・・・」
「こ、怖くなって・・・そそ、そのまま・・・」
「・・・・・・」
「抜きました・・・・・」
婦長は冷ややかに見下ろしていた。
「嘘つきが・・」
僕は小刻みに頷いていた。
「そうか。それで僕がその後、同じところに針を刺したら、そこが腫れてたために
同じ血管にヒットしなかったんだな・・・」
彼女は90度、うつむいていた。
「そおです、そぷです!すみません、すみません!」
婦長は彼女の腕をつかんだ。
「あたしの病棟に、嘘つきは要りません」
「・・・・・」
「出て行って」
「・・・・・」
彼女はしわくちゃに汚れた顔で、僕のほうを見上げた。
「ごめん、先生!せんせい!どうしても・・・あたぢは・・・ううう」
僕は視線をずらした。
婦長は彼女の腕を握ったまま、部屋の外へ向った。
「代わりを連れて来ますから。先生」
「せんせい、せんせい・・・!」
「とっとと!」
婦長は彼女の髪もつかんで、外へ引っ張りだした。
「うわあ!わああ!ごべんなざいごべんなざあああいい」
異様な光景だった。悲鳴はやがてなくなり、代わりの中年ナースが現れた。
「あれ、まだ入ってないのか・・・」
僕は再び刺入部を確かめた。だがやっぱり目安の頚動脈が分からない。
「うう・・・」
少し震える手で右頸部を押さえ、右に持った針をプスッ・・・と浅く刺した。
まだ血液も戻っていないが・・・。
手がそれ以上進まない。
「先生、血が返ってませんけど」
「うう・・・・」
「どうしたの?」
「ダメだ・・・」
「ダメ?」
「ダメなんだ・・・・・」
怖くて、針が進まない。気のせいか、布で覆われた患者の呼吸回数が増えているように思える。
「か、看護婦さん。SpO2は下がってないかな・・」
「・・・・・そういえば、94・・・あれ?表示が消えた・・?」
「き、気胸だ!気胸・・・!」
僕は布をパッとひっくり返した。器具が床に散乱した。
「先生何を?危なっかしい!」
「き、気胸かもしれない!だ、誰か・・」
「誰かって?」
「誰でもいい!早く!」
「呼ぶの?ドクターを?」
「いい、医局なら!」
「あたし、離れていいですか?」
「いいから!呼んで!呼んで!」
彼女は足早に部屋を去っていった。
僕がふと患者さんの手指に目をやると、SpO2モニターの装着が外れていたのに気づいた。
つけなおすと・・・SpO2 99%。呼吸回数も多くない。
聴診すると・・・左右差もないようだ。僕は立ち尽くしたままだった。
廊下から駆け足音が聞こえてきた。この音は・・・。
「トシキ!大丈夫か!」
「野中先生!」
「どうした?」
「いえ。だ、大丈夫でした」
「はあ?大丈夫じゃないって聞いたから、すっ飛んで来たんだぞ!」
「気胸を起こしたかと」
「ああ、今日入院の患者さんか。鎖骨下から?」
「いえ。頸部からIVHを」
「空気が戻ってきたのか?」
「いえ。それは・・・なかったと」
「聴診させろ・・・・・なんだ。大丈夫だろう、これは」
「レントゲンを・・」
「余計な被曝を、安易にさせるな!」
「しかし・・」
「それより早く、入れてあげろよ!準備はどうした?」
「ダメなんです・・・」
「なに?」
「できません。難しくて」
「痩せ型で、むしろ鎖骨下のほうが入れやすいような感じだぞ」
「しかし・・・」
「鎖骨下は、循環器に入ったら必須だぞ!」
「グループはまだ・・」
「・・・・呆れたヤツだ。まるでユウキと話してるみたいだよ」
野中先生はナースコールを押した。
「オレがする。誰か介助を」
僕は床を片付け始めた。
「先生、自分が・・」
野中先生はうつむき加減に、少しため息をついて呟いた。
「オマエはいい」
<つづく>
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