いつもの病室へ。喀痰を吸引。

「痰は相変わらず、多いな・・・」
抗生剤を変更後、肺炎像は劇的に改善しつつあった。
しかし喀痰は相変わらず多い。島先生の言うとおり、気管切開を
した上での管理が安全かもしれない。

M-tubeを挿入、ムコダイン・ムコソルバン、クラリスを投与開始。ACEIも追加。本来は降圧剤だが、文献で誤嚥性肺炎予防に有効とあった。副作用としての咳を利用するのだ。

「ここまでよくやりましたね、トシキ先生」
呼吸器カンファレンスで司会の板垣先生が褒め称えた。
「君のそのパワーは一体どこから・・?みんな、見習うように」

僕は報告を続けた。

「現在の投薬を続け、数日後タイミングを見計らって・・・」
「?」
「抜管します」
「今の呼吸器の条件は?」
「鎮静剤を中止、プレッシャーサポート。自発呼吸です」
「今はPEEPは?」
「かけてません。プレッシャーサポートは7」
「7か。5までいけば、もう完全な自発呼吸ですね」
「はい」
「よし。やってみなさい!」

マーブル先生の番だ。

「肺炎像は、悪化してます。トシキ先生の症例と同じくARDS様の影。
心機能は正常」
「心臓はまあ、そんないちいち調べなくてもね」
「ですが、VPCがけっこう・・!」
「低酸素で出てるってことは?」
「うーん・・・かもしれませんが」
「じっくり患者さんを診てください。槙原先生」
「え?診てます」
「呼吸器疾患の場合、石橋を叩いて渡るような性格も重要なのです」

医局長、時々循環器叩きをやるところがある・・。

マーブル先生は机に戻ってくる途中のすれ違いざま、僕に少し舌打ちした。

センターへの人事発表まで、あと5日。抜管の日程まであと4日。

これはもちろん、偶然ではなかった。だがセンターへ行くための手段ではなく、これは自分への挑戦だった。

抜管の3日前、詰所で報告があった。
「トシキ先生。あの患者さんが」
「なに?」
「IVHを自己抜去されてしまって・・」
「ええっ?」

そうか。鎮静を中止して、手足が動くようになっているのだ。抑制はしていたんだが。
病室で確認すると、抑制はゆるめになっている。
「自然になったのか・・・」
「さあ、私達にはそれは・・」
「末梢から・・」

しかし低アルブミンはそのままだ。

「しょうがない。い、入れよう」
「先生、経管栄養にするとか」
「それでは確実なカロリーが入らない。今はIVHじゃないと」
「今から・・?」
「ええ」

中年ナースが介助につく。
「どちらから・・」
「感染の可能性が一番低い、鎖骨下から」
「鎖骨下・・今度は大丈夫なんですか?」
「大丈夫。かどうかは分からないけど。プレッシャーから逃げたくないし」
「はあ・・・・・」
「じゃ、準備を!」
「はい・・」
「もし僕が失敗したら。そのときの対応を考えながら」
「はあ」
「次に何をすればいいか考えながらやれば、状況は好転する!」
「はあ・・」

すべて自分に言い聞かせるためだった。

右鎖骨下へ、麻酔。そのまま、血管探し。
戻った。静脈血だ。
「よし、このまま・・・」
穿刺針で、同方向に穿刺。

だが戻ってきたのは真っ赤な動脈血だった。
「ああ・・・!」
急いで圧迫。僕は少しへこたれそうになった。

周りに研修医がゾロゾロ集まってきている。
婦長もドアに手をかけて立っている。

2回目。麻酔の針に、また静脈血が戻る。再び、穿刺針で同方向。
「入れ・・・!」

戻ってきた。静脈血だ。間違いない。まだだ。カテーテルを挿入・・・。

「終わった!よし!」
後ろで研修医達が拍手した。みな笑顔だ。

僕らは片付けにかかった。研修医はみな退散した。
手袋を外し、僕は手を洗い始めた。
「この調子で頑張ろう・・・!」

代医を立て、週1のバイト先へ。

いつものように電車で到着。薄暗い玄関で靴を履き替え。
夕方の外来に入る。外来は活気がなく、ひたすら診療室で待つ。

カーテンの向こうから現れたのは患者さんではなく、院長だった。
思わず立ち上がった。この先生に会うのは面接以来の2回目だ。
「ああ、こ、こんばんは!」
「ああ先生。いつもお世話になります!」

初老の院長は僕に深々と頭を下げた。
「夜間もいろいろありまして、いろいろご迷惑をおかけします・・」
「いえいえ、そんな!」
「ちょっとこちらへ・・」

院長室へ通された。

「どうぞ、そのソファへ」
「は・・・はい。失礼します」
体が沈んでしまうくらいソファは柔らかい。
院長は机に腰掛け、僕と対面する形となった。

「トシキ先生。院のほうへは?」
「大学院ですか。教授の命令ならやむを得ないですし・・」
「ゆくゆくはご開業を?」
「父の跡は他の兄弟が継ぐと思います。自分は勤務医として・・」
「独立される予定はないということですか?」
「そうですね。今、1からの開業は難しいと聞きますし・・」

院長はさっきとは打って変わって気難しい表情になっていた。
「単刀直入に申しましょう」
「?」

「ここの病院の後継者を探しています。実はそれを、先生にお願いしたい」
「僕に・・ですか?」
「そうです」

院長は内線をプッシュした。
「わしだ。来い」
また電話を切った。

僕はまだ2年目なのに。後継者って、院長として引き継ぐってこと・・?

すぐにもう1人、中年の男性が現れた。事務の方だ。
「失礼します!」
院長は手招きし、横に立たせた。
「ああ今な、例の話してるとこだ」
「そうでございますか!」
事務長はいきなり目を輝かせた。

「トシキ先生。今は2年目ですよね。だから今すぐにここを継いでくれ、とお願いしているのではない」
「?」
「君が院に行くならそれでもいい。こちらは待つ」

待つって・・?こっちは行くとも言ってないのに。

「私の息子も医者にならせたかったのだが、これがかなりの放蕩息子でな。私立受験にも失敗した。常
勤の医師たちもいろいろスカウトしてきたが。業者を通したスカウトでは、いろいろな手付金を払わないといけなかったりでね。
そういう手続きは避けたい」
「え、ええ・・」
「そこでね、君の医局長を通じて、若くて従順なドクター・・・失礼、ヘンな意味ではないよ。この病院をさらに
発展させるのにふさわしいドクターを探してもらったんだ」
「・・・・・」
「それが君なんです。近畿の医学雑誌も見ました」
「・・・・・」

院長は立ち上がった。
「ズバリ言いましょう。君が欲しい。院長として跡を継いでもらいたい。無理にとは言わないが・・」

いや、これは命令だ。

僕は返す言葉がなかった。

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