詰所へ戻ると、三品先生が検査データを見ていた。
「心筋炎の今日の採血。CPKは778IU/L。入院時と横ばい。CRP 12.4mg/dl。入院時は4.5mg/dl」
「やはり抗生剤をいかないと・・」
「細菌性もありかな」
「超音波は先生・・」
「予約では明日だ」
「よ、予約?先生、超音波係ですから、今でも・・」
「俺はこれから山ほどせにゃいかんことがある!お前。代わりにやっとけ」
「僕が?先生、無理です」
「ビデオに録画しておけ。大まかな動きと心嚢液を見ておけばいい」
「先生。このあと自分はちょっと・・」
「なんだ?用事か?」
「石丸君のアパートへ」
「だからもう、ほっとけ!あんなヤツ!」
「5分だけでも」
「できてんのか?お前ら」

詰所のナース達がクスクス含み笑いしている。

「では、失礼します。5時になりましたんで」
婦長がツカツカ迫ってきた。
「先生。先生にはまだ山ほどしてもらわないといけないことがありますからね」
「そうだぞ、トシキ!」
三品先生は横に並んだ。
「名誉教授に言いつけるぞ!開業医の管理開設者になるって気分が浮かれて、
今の仕事がおろそかになるのは納得できん」
「管理開設・・?」
「ん、ま、院長!院長のこと!」

僕は徒歩で、彼のアパートへ向うことにした。
医局で白衣を脱いだところ、廊下で川口先生・間宮先生を見かけた。

「ちょっと出て参ります」
「デート?」
グッチ先生が微笑んだ。
「まさか、です。石丸君のアパートへ」
「何それ、あやしい」
「違うんですって!」

僕はカッとなり、思わず怒鳴ってしまった。

石丸君のアパートは、大学から3分くらいのところにある。
学生のときから住んでいて、かなり寂れたアパートと聞いていた。

ピンポンを押したが、全く手ごたえがない。
郵便受けには今日の新聞がまだある。なら、長期不在ではなさそうだ。

耳を澄ましていると、奥でカサカサ小さな音が聞こえた。
僕はドアを叩いた。

小走りな声が聞こえ、木造の引き戸がぎこちなく開けられた。
「はい・・・」
出てきたのは小柄な女性だった。僕らと同い年くらいの。
「なんでしょうか・・・」

「?い、石丸く、石丸先生は・・」
「あの、すみませんが、どちさらまで・・?」
「大学病院の研修医の、トシキといいます」
「あ!あああ!ご、ごめんなさい!」
彼女は取り乱し、反射的にドアを閉めてしまった。

またドアが開いた。

「すみません。今、すぐにお呼びしますので・・!」
またドアが閉められ、小走りに奥へと消えた。

木造で、湿気の多そうなアパートだ。
大学病院のごく近所で住居を確保するのは困難なものだ。

ドアが大きく開かれた。
「あ、あたしはちょうど用がありますので。どうぞ、ごゆっくり・・」
「え、ええ。上がって・・いいですかね?」

返事もなく、彼女は駆け出していった。
僕はゆっくりと靴を脱ぎ、正面の廊下を進んだ。

その奥の中心のコタツに、彼は座っていた。

「石丸君。大丈夫?」
石丸君は無表情に、うなだれていた。目を合わせようとしない。

「・・・なにか、ありましたか?」
「体調は・・?」
「まだよくないです」
「熱があるのかい?」
「え、ええ。あります。出勤はまだ・・」
「いや、そんなことを催促に来たのではないよ」
「僕の患者さんのことでしょう・・」
「ナースから連絡があったと思うんだが」
「さあ・・・寝てたのかもしれません」
「かもしれません、って・・・」

しばらく沈黙が続いた。

「石丸君。突っ込んだことを聞くけど・・何かあったの?」
「・・・・・・・・・・・・」
「そりゃ、先生のほうが忙しいですし、僕なんか根性ないし」
「いや。僕も実はかなり参っている」
「でも先生、来年から名誉教授のご子息の病院を継がれるとか」
「決まってないよ」
「早く決められたらいいじゃないですか」
「断るつもりだよ」
「どうしてです?将来は約束されたも同じなのに」
「確かに僕は臨床をやりたいけど、ああいう権力にまみれた世界では・・」

石丸君はクスッと初めて笑った。
「権力にまみれた・・ですか。先生も、なかなか言いますね」
「シーソーゲーム、って歌があるよね?長谷川さんがよく口ずさんでる」
「ああ、あの歌・・」
「あれだよ」
「・・・・・先生にだけお話しますが」
「うん?」
「もう、この医局にいるつもりはないんです」
「辞める?」
「そうしないといけないんでしょうね」
「この忙しさがいけなかったのかい?」
「不眠不休でこっちはやってるのに、上のドクターたちは仕事を全部、
僕らに押し付けて・・」
「僕もそうだ」
「先生はまだ能力があるからいいです!」
「・・・」
「僕は、ホントにまだ何もできないんです。ええ、できませんよ」
「そん・・」
「自惚れるなって、自分でも分かってます!でね!オーベンの緒方
先生もサッサと帰ってしまうし、カテ以外教えてくれない」
「うん。それは分か・・」
「そのくせわけのわからない実験の手伝いはさせられる、雑用はさせられる!」
「そうだな、・・」
「ええ知ってます!それが大学病院なんでしょ!でもここはひどすぎる!」
「で。どっか探してるの?」
「え?」

石丸君の興奮が少し冷めたようだ。

「大学の違う医局に入るのか。それとも・・」
「ドクター・バンクに登録します」
「本気?」
「中には研修医大歓迎の病院もありますし」
「・・・・・」

これはどうやら、止められそうにもない。

「石丸君。残念だ。今はそれしか」
「ええ。でも先生のことは尊敬してます。できればついて行きたいです」
「僕も、どうしようかなあ・・・」
「あ、先生。島先生には気をつけてください」
「島に?」
「彼、裏では教授達とツーツーです」
「そうなの?」
「たぶんトシキ先生が後継者になるよう裏から・・」
「こ、怖いこと言わないでよ。別に彼は・・」

彼は、病院をべた褒めしてたくらいだった。ウソっぽい情報は流してないと
思うが。

「トシキ先生。僕はあまり深入りできませんけど・・」
「はあ?」
「調べてみてください。先生がまだご存知ないなら」
「な、なにを・・?」
「先生。今までありがとうございました」

石丸君は立ち上がり、廊下まで歩き始めた。

僕は靴を履き、戸を開けた。
「寒くなったな・・」
「でもトシキ先生」
「ん?」
「もし先生が医局を辞められるなら」
「な、何をいったい・・」
「そのときは僕もお供します」
「・・・?ああ、ありがとう」

向かい風を浴びながら、なんとか病院まで戻った。

石丸君。僕は言えなかったけど。君が感じていることは、誰もがみな感じてきたことなんだ。

それに立ち向かい、乗り越えたら、そんな愚痴も笑い飛ばせるんじゃないだろうか。

いつか。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索