西条先生はお得意の気管支鏡の本を閉じ、苦手分野の循環器の
本を棚から取り出した。

「トシキ先生、ちょっといいかい?」
「ああ、うん」
「甲状腺外来の患者さんが入院したんだ。心拡大で」
「レントゲンは、あれ・・?確かにね。すると機能低下のほう?」
「そう。心電図は異常なし、超音波でもね。向きでこう見えるのかな?」
「太ってそうだね。吸気が十分でないか、脂肪か・・」
「でも症状はあるんだ。胸痛」
「胸痛時の心電図は?」
「あいにくまだない。狭心症かな」
「甲状腺の治療は3年前からか。1ヶ月前からチラージンが増量・・」
「三品っちの言うとおり、冠動脈造影すべきだな。膝が悪くて負荷できないし」
「いや。副作用かも」
「え?」
「チラージンで狭心症の副作用、あるよ」
「そ、そうなの・・」
「こういう判断は僕らではまずい。カンファレンスで・・」
「トシキ先生。けっこう慎重になってきたね」
「組織の力は怖いよ・・」
「カンファまで5日もあるけど」
「患者さんには悪いけど、仕方ない」

相談できる身近な先生もいなかった。電話だけでの応対はトラブルになる恐れがある。

「いやあ、やっぱいろいろ相談してみるもんだな」
西条先生は嬉しそうに教科書をめくっていた。
「耳学問ってやっぱいいのかな」
「そうだね。しかし今は・・・」

馬の耳に念仏、といった感じだ・・。

電話が鳴った。嫌な予感だ。僕も西条先生もわざと反応しなかった。

仕方なく僕が出た。

「はい?カンファレンスルーム・・・」
「槙原だ。まだ外来中でな。教授の患者なんだが」
「はい」
「胸痛だ。STも上がってる。AMIだろうな」
「またですか・・」
「そういやさっきの紹介患者。今、カテ終わったようだ。右冠動脈の狭窄。ステント留置したそうだ」
「そうですか。ではこのあともう1例ってことですね」
「主治医を早く決めろ。鈴木の次は?」
「そうなると、僕です」
「患者を迎えに来い」
「はい!」

外来の診察室の廊下側でマーブル先生は立っていた。

「超音波をポータブルで見たが、アシナジーははっきり見えないな。再開通したとも考えられんこともないが・・」
「採血は・・」
「今取ったばかりだ。待つわけにもいかん。今からカテする」
「よろしくお願いします」
「窪田先生がファースト、俺がセカンドだ」
「はい。ありがとうございます」
「家族へのムンテラもしたし、同意書も得ている」

マーブル先生、きちんとやってるじゃないか。
それでいいじゃないか。

なのに、どうして僕らは争ってしまうんだろう・・。

酸素吸入させながら、痩せ型の60代の男性をカテ室へ搬出。
1人でのストレッチャー運びにも慣れた。カーブもスムーズに曲がれる。

エレベーターにストレッチャーを押し込み、脇へ。ドアは閉まった。

どうして純粋に診療できない?それを妨げるものは何なんだ。

後継者になったからって、解決できる問題か?

正直、いったん後継者になって後から考えようかという気分になりつつあった。日頃の躁焦感が、そうさせていたのだろう。

カテ室に入る直前、患者さんの症状は増悪してきた。
「ううう・・・ちょっと強くなったような」
「痛みが?」
僕は反射的にブレーキをかけた。
「胸の痛みですね?」
「いや・・・・背中もかな・・・?ようわからん」

カテ室から技師さんたちが現れ、またたく間に患者さんはベッドへ移された。

総統は準備オッケー状態だ。
「さ、やるか!ノナキーなくとも!」
総統はからかうように僕を見ている。
「医局は死なず!」
総統はソケイ部を消毒、布をかぶせていった。

患者さんは苦しさで上半身をねじらせていた。
ナースが止めにかかった。
「け、研修医の先生!なんとかして!はやく!」
僕も抑えにかかった。
「い、痛み止めしますね!窪田先生!モルヒネいいでしょうか・・」
「いいでしょう。モノは?」

ナースは外を指差した。
「画面の入力をお願いします」
総統は目を丸くした。
「そんなゆっくりできないって!モノを直接取ってきてよ!」
「入力して、それからでないと取りにいけないんです!」
「オイラ、仕方、知らないよ」
「え?じゃあどうしたら・・・トシキ先生は抑えてて!」
僕はナースに止められた。

カテ室のすぐ外のパソコンではあまり覚えのない助手の
先生が座っている。
「なんかなー」
どうやらよく分からないようだ。
「うーん。違うなあ」
「先生、自分が」
「うるさい!」
僕の声は却下された。

助手のドクターは頭をひねっていた。
「おい?モルヒネは手書き処方じゃなかったか?」
「あ!そうでした」
僕もすっかりボンヤリしていた。助手は怒って立ち上がった。

「トシキ!何が、僕やります、だよ!」
助手の先生はプンプンしながら出て行った。

取りに行ってくれたんだろうか?

「こんなに暴れたらカテどころじゃないわね」
「はい」
「アタPかセレネースでもいきますか?」
「え、ええ。どうしましょう」
「これトシキ!あんた頭は?動いてる?」
「は、はい」
「しょうがない。セレネースいきますよ!看護婦さん」
総統は自ら注射器をもらって注入した。

僕は技師さんに問いかけた。
「すみません。レントゲンや採血結果は」
「画面で見てやろうか?」
「採血結果を」
「待てよ。まだだな。遅いな」
「そうですか。レントゲンは・・」
「まだ出来上がってないようだ」
「そんな・・」

総統は腕組みしていた。
「なんでアンタ、今頃レントゲンなんか」
「気になるだけです」
「ねえ、モルヒネはいったいどうなったのよ?助手の早川は?」

技師さんはあちこちに電話し始めた。

マーブル先生がカテ室に入ってきた。
「遅くなりました!」
「遅いねアンタ。しっかりおし!」
総統が冷たく言い放った。

マーブル先生はモニターのSTを見つめている。

「採血は出たか?トシキ!」
「いえ。まだです。機械のトラブルなのか」
「暴れてるな。何かいきました?」
「セレネースを」
「塩モヒ(塩酸モルヒネ)は?」
「助手の先生が、多分」
「なんとかしろよ。これじゃカテにもならねえ!」

患者さんは依然、痛みでのたうちまわっていた。

技師さんが顔を出した。
「早川先生は、動物実験室だそうです」
「なぬ?」
総統があきれ果てた。
「尻ペンペンどころじゃないね。パイプカットぐらいシナイ半島」

マーブル先生は僕に問いかけた。
「おいトシキ。aneurysmはルールアウトしたんだろうな?」
「え?」
「知らないのか?動脈瘤だよ!動脈瘤!特に解離性の!」
「でも先生、CTのオーダーは・・」
「撮ってないのか?」
「え、ええ。槙原先生からカテ室に行くよう言われ・・」
「バカ!カルテの中を見たのか?」
「い、いえ」
「見ろこれ!胸部CTの伝票!放射線部には電話してたんだ!」

確かに伝票はある。裏表紙のところに。だが直接の申し送りもなしに・・。

「胸部のレントゲンも確認してないのか!」
「まだ出来てないということで」
「放射線本部に直接電話したか?」
「はい」
「まだって?」
「え、ええ。急ぐようには」
「直接行けよ!バカ!」

マーブル先生。申し送りでは動脈瘤のことは一切言ってないのに。だが僕にも責任はある。

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