12月中旬。

 僕は医局の教授室へと呼ばれた。

「トシキ、入ります」
「どうぞ・・」

入ると、教授は背を向けて外の冬景色を見つめていた。
「まあ、座んなさい」
「・・・失礼します」
「どうですか、病棟のほうは」
「それはもう、かなり・・・」
「何人かやめましたなあ」
「はい・・・」
「なんでこう、今の若者は我慢が足らないのかなあ」
「・・・・・」

僕はドキッとした。僕が入ったその部屋の死角に・・名誉教授が立っていた。

「ああ・・・・あ!」
「驚いたか?わっはは。そんなつもりはないぞ」

名誉教授はゆっくりと僕の横に歩み寄った。

「顔色が悪いな」
「あ、はい・・」
「睡眠は十分取ってるのか?」
「そこそこ・・」
「わしがここまでわざわざ来たのは・・・」
「はい」
「はいじゃない。口を挟むな」
「・・・・・」
「書類の提出が遅いと、息子の病院事務がカンカンだ。ここの教授にも問い合わせた」

窓の外を見ていた教授が振り向いた。
「知らなかったな。わしはてっきり・・」

名誉教授はものともせず会話を続けた。
「君のような研修医の段階で、将来を約束されるケースなどまずない。この機会を逃せば、今後も恐らくないだろう」

僕の返事は決まっていた。これ以上苦しみたくない。

「先生。その件なんですが・・」
「何か勘違いしてないか?わしらが君を陥れるとか、そんな妄想が?」
「その件は・・」
「たぶん日頃のストレスもあろう。医局はなあに、人手がなくても補充はきく」
「自分は・・・」
「それに入局希望者がごまんといる。君が余計な心配はせんでも・・」
「その件は辞退・・・」
「おい!教授!」

名誉教授は目を逸らし呼びつけた。

「は・・・はい」
「書類は明日までに息子のところへ」
名誉教授は引き上げにかかった。
「頼んだぞ」
「はい」

残された教授は、チラッと僕のほうを見やった。

「君も、凄い大役を任されたものだなあ」
「・・・・すみませんが先生、自分は辞退します」
「遅い遅い!」
「?」
「もう話は進んでおるのだぞ?」
「自分はこれまで返事は一切・・」
「とにかく朝!一番までに!」
「・・・・・」
「サインした書類を持ってきなさい!難しいことなどない!」

僕の意見を全く汲み取ることもなく、教授は出張へと出かけた。

夜の11時。古びた院内の余った当直室。今日も無給の副直当番だ。

眠れない。

今日は早めに病棟を切り上げれたというのに。年末でもあり慢性疾患の患者さんたちの大部分は外泊する。そういう意味では雑用は減るが、重症のキャパシティは十分あることになっている。

病棟医長も従来どおりの稼働率を希望している。

僕は携帯を取り出し、ダイヤルした。

「・・・・もしもし」
「その声は・・・?」
「トシキです。草波さん。今、いいですか?夜分ですが」
「ええ、どうぞどうぞ。いったい?ちょっと部屋を変えます」

しばらく沈黙があった。

「どうもどうも。空港以来ですかね」
「ええ。4人の先生方は契約解消なんですね」
「ハハ・・・当然の報いでしょう。2人はもう新しい職場でバリバリやってますよ」
「草波さん。自分は大学には居られないかも」
「ほう。じゃあ、うちへ?」
「それはまだちょっと・・。実は後継者の話があって」
「ああ、知ってますね、それ。どこの病院でしたっけ?」
「名誉教授の息子さんの・・」
「・・・・・・」
「どうされました?」
「トシキ先生。まさか院長を?」
「ええ・・・この書類には、『管理開設者』と」
「それはダメです!」
「は?」
「絶対にダメ!」
「だ、だから・・・どうして?」
「明日、お時間を?」
「それがその・・・サインした書類を朝1番に出せと」
「脅迫ですね。まるで」
「自分ももう疲れました。そのままサインしようかとも・・」
「ダメ!ぜったいに!今どちら?」
「病院の当直室です」
「また今日も当直の先生の代行ですか」
「ええ。ま、そのようなもんです」
「今から行きます。着いたら連絡します」
「すみません・・・」

車は病院の駐車場に、15分で到着した。
ベンツのパワーウインドウが開き、草波氏が顔を出した。
「今日は1人で来ました。どうぞ、中へ」
「は、はい」

助手席に乗り込むと、草波氏はエンジンを切った。

「気づかれるといけませんからね。これ・・・」
彼はノートパソコンを差し出した。
「今、ログインしてます。過去の新聞記事のようなものですが・・」
彼は手馴れた動作でクリックを繰り返した。

「これが・・・トシキ先生を迎える予定の病院です」

そこには、驚愕の記事が載っていた。

医療ミス訴訟。大阪の病院。賠償命令。過去だが、それでも最近の記事だ。

「大阪の病院と載ってるだけですが」
「記事によっては病院名までは出さないですね。しかし・・・」
「・・・・・」
「その病院なのですよ」
「そんな・・・」
「別裁判も進行中。業務の改善もなされてない。院長は頑固ときてる」
「そういえば。この前も患者さんと揉めてました」
「でしょう。先生もうすうす感じていたんですね」
「ここへ来る途中、知り合いの会計事務員に聞きましたが。そこの借金は表だけで12億」
「じゅ、じゅうに・・・」
「賠償額も含めて」
「そんな経営で、よく続いてますね」
「だって・・ははは。続ける以外、ないでしょう?」
「自分が院長になったら、ますます経営が・・」
「いや、先生なら黒字も可能でしょう。しかし、先生は・・・前にも言いましたが。甘いですね」
「?」
「先生が管理開設者になれば、業務・裁判・賠償、これらすべての責任は・・・」

草波氏は僕をビシッと指差した。

「こ、こわい・・」
「耐性菌による院内感染。これに対する対策も十分できてない。今度また新聞に載れば、今度は先生の名前が出るわけです」
「僕の?」
「罠ですよ。先生」

確かに、これは罠だ・・!
僕は怒りがこみ上げてきた。

石丸君が調べてくれって言ってたのは、このことだったのだ。

「草波さん。自分、明日の朝1番で断ります」
「その後は?」
「そのあと?」
「大学に残るので?」
「居るのは難しくはなると・・」
「そのような決断で、医局に残るのはどうなんでしょうかねえ」
「時が経てば、過ごしやすくなりますかね・・」
「むしろその逆でしょう」
「草波さん。そういう理由で僕をあなたの病院に・・・?」
「ま、ノーと言えばウソになる」

草波氏は対向車のすれ違う前方を見つめた。

「トシキ先生も、疑い深い人になりましたね・・」
「草波さん。そこの病院って・・・」
「たしか、前にレストランでお話したと思いますけど」
「医局とは関係が?」
「先生の医局?全く関係ナッシングです」
「・・・・・じゃあ医局を辞めるって条件ですか」
「そうです」
「しかし。どうしたら」
「先生。私のほうもじれったく待つわけにはいかない」
「・・・・・」
「年末までにご決断を。勤務は年明けからでもできる。
それまでの2週間。考えてください。医局の許可も要るだろうし」
「2週間・・・」
「ハッハ。頼りないなあ。こんなにしっかりした立派な先生が」
「すみません・・」
「わかりました。一肌脱ぎましょう」
「?」
「名誉教授の息子さんの病院へ行きましょう」
「行くって・・・いつ?」
「すぐにでも!」

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