ブレよろ 2
2004年12月28日国営から一瞬にして民間化された病院は、とある山の頂上にあった。
かつては関西で指折りの病院だったが、民間化されてからはただの療養病棟・一般外来でしかない。
療養病棟は一般病棟と違ってリハビリ中心が名目。療養病棟なので治療はできず、したとしてもそれは病院負担、いわゆる「マルメ」となってしまう。
したがってここの療養病棟で治療が必要になった場合は、そこで看取るか、病院が自腹を切って治療するか、あるいは転院させるしかなかった。
木造の寂れた医局では、ヒマそうな医者が2人、ただただ終業のときを待っていた。
診療所から転身してやってきて2年になる神谷先生(68)は、医局の隅にある炊事場でコーヒーが沸くのを待っていた。
手はシワシワだが、まだボケてはいないようだ。
「三品先生。人事の話は?」
「はい?」
だだっ広い医局の反対の隅で、三品先生(37)は黙々とパソコンを打ち続けていた。彼は大学からの人事でやってきて1年になる。
「今年は先生の転勤の話は、ないですかな?」
「やめてくださいよ。ここに来てまだ1年ですよ」
「大学の医局の医者だったら、分からんでしょう?いつ飛ばされるか」
「・・・けっこうここ、居心地いいんで」
というより、楽だった。名目上、治療が必要ない病棟だ。ただ患者を回診してればいい。
治療が必要になったり状態が悪化すればよそへ紹介する、そういったスタンスが病院にとっても好ましかった。
コーヒーはまだ沸かず、老人は少し足踏みし始めた。
「でもいいんですかいな?先生。こんな山奥まで飛ばされて・・」
「時間通りに帰れるし、ストレスがないのがいいんですよ」
「大学が恋しいでしょう」
「まさか。大学を出て後悔する人間がいるとすりゃあ、それは・・」
「・・・・」
「中途で講師や助教授をあきらめた連中だけでしょう」
しかし彼もその一人だった。助手、助手で我慢して実験・論文に時間を費やしてきたのに・・。それがいきなり転勤だ。鶴の一声で。
今までやってきたことは、なんだったのか・・。
パソコンのゲームはそれを忘れさせてくれた。
神谷先生はゆっくりと2つのカップを運んできた。
「どうぞ」
「ああ、いつもすみません」
「精が出ますな・・」
「あ?これですか?マックの9800」
「パソコンはよう分からん」
「今はゲームとインターネットだけですよ」
「インターネットか・・・。わしらはもう、ついていけん」
「国営のときは医局がLANを引いてくれていたらしいですが、民間になってから取り除かれましてね」
「そんな金ないだろうな。こんな民間では」
そのため三品先生はネットのときだけ医局の電話線を利用し、アナログで使用していた。当時のネットは「ISDN」が主流だった。
医局の内線が鳴った。神谷先生がゆっくりと歩み寄った。
「もう夕方になるぞ。詰所の奴ら・・・・はい!・・・・・・ああ。もう勝手にし・・ああ、知ってるとも!何度も言うな!」
老人にしては逆ギレの閾値が低いのか、彼は衝動的に受話器を叩き込んだ。
「アイツはしかし、こたえてないな」
「また何か、しでかしました?」
「引継ぎのことが、まだ出来てないらしい」
「ちゃんと言ったんですけどね。私が」
「頼むよ。一応は君の後輩だろう?」
「最後の最後まで、世話を焼きやがる」
「彼は、どこへ?まあ、どうでもいいが」
「大学へ戻されます」
「大学院か?」
「いえ、違うようです。再教育と、人員補充が目的でしょう」
「再教育?」
「医局の方針に従わない勝手な医者が増えてきたんでね。見せしめですよ」
彼も人のことはいえなかった。
神谷先生は窓を開けて、灰皿を裏返し何度か振った。
目の前には山と林道しかない。
「三品先生は、将来は開業ですか?」
「わ、私がですか?」
三品先生はゲームの手を止めた。
「将来ですよ。どのように・・」
「それは教授次第なもので」
「開業は?」
「開業、したいですねえ。でも今は難しいんでしょう?でも開業って、年収分くらいの資金が要るらしいじゃないですか。
それに経営難で借金でもしたら・・あ」
三品先生はしまった、と思ったが遅かった。それは神谷先生の思い当たるふしであった。
「ま、わしがやってた診療所はいろいろあってなあ・・」
神谷先生は大空に向けてタバコを一吹きした。
「結局、経営の首を絞めるのは人件費だよ。人件費」
「スタッフの給料ですか」
「最初は客も多くて繁盛はしとったが。繁栄は永久には続かないものだ」
「せ、先生の診療所自体は大変人気があったとお聞きしてましたが・・」
「そうだ。わしに非があったわけではない。だが人を雇いすぎた。検査機器の購入もそうだ」
「・・・・・」
「しかも、金儲け目当ての若造医師らが、わしんとこの近辺に次々とクリニックなどを建ておった」
「いえいえ。それでも先生には及ばず、わずか数年の命でしたね」
「だいたい最近の若造は、開業するにあたっての動機そのものが、なってないんだ」
現在は開業の半数が失敗するといわれる時代だ。そのため銀行からの融資も次第に厳しくなっているという。
彼は窓を閉め、灰皿を机に置いた。
「ちょっと詰所まで行ってみるか・・」
「自分はもうちょっとしたら外します」
「では・・」
神谷先生は悠々と医局を出、廊下のMRには目もくれず暗い階段を降りていった。
5つあった詰所の3つは閉鎖。しかしベッド数はそのまま。それを2つの詰所が監視・・できるはずがない。
だがここは療養病棟だ。病院であって病院ではないようなものだ。
詰所には高齢のナースが3人集まって盛り上がっていた。どうやら誰かの悪口らしい。
神谷先生が入ってくるなり、彼らは散らばろうとした。
「彼は?」
「あ・・・」
捕まったナースが天井を見上げた。
「さっきまでいたんですが・・」
「もう1つの詰所か?」
「はい」
「申し送り事項は、ヤツはちゃんとカルテに書いたんだろうな?」
「ええっと・・・」
ナースはカルテを適当に取り出した。
「カルテには、記入はないですね・・」
「おい!それはわしの患者の!」
「ああそうだったそうだった。へへ」
「ちゃんと確かめておけよ!」
「先生。呼吸状態の悪い人は、どうしましょう」
「なに?ああ、ヤツが診てた患者か。わしの患者になるようだな」
「家族が来て、心配してました」
「転院先はまだ見つかってないのだ。今は療養病棟で診るしかない」
「なんか、処置がどうたらこうたらって・・」
「聞き流しておけ」
「そうですよね。療養じゃ、積極的な治療はできないし」
「そうだ。わしらがしたくても、それが病院の方針なのだ」
彼自身、診断・治療自体に興味はなく、またその能力もなかった。
ダラダラした開業生活が生んだものだ。いまさら臨床医には戻れない。
「明日、三品先生にでも任せますか?」
「いちおう循環器の医者か。ダメだあの男は」
「ですよね」
「医局でゲームばかりしておる。あれでは大学から追い出されるのももっともだ」
「そうそう」
「うちでも、もう要らんがな。大学の教授にも再三促してるんだが」
だがあくまでも医局からの派遣人事だ。派遣先の病院が干渉できる内容ではないよう。
神谷先生はのっしのっしと病室を素通りし、もう1つの詰所へ向った。
かつては関西で指折りの病院だったが、民間化されてからはただの療養病棟・一般外来でしかない。
療養病棟は一般病棟と違ってリハビリ中心が名目。療養病棟なので治療はできず、したとしてもそれは病院負担、いわゆる「マルメ」となってしまう。
したがってここの療養病棟で治療が必要になった場合は、そこで看取るか、病院が自腹を切って治療するか、あるいは転院させるしかなかった。
木造の寂れた医局では、ヒマそうな医者が2人、ただただ終業のときを待っていた。
診療所から転身してやってきて2年になる神谷先生(68)は、医局の隅にある炊事場でコーヒーが沸くのを待っていた。
手はシワシワだが、まだボケてはいないようだ。
「三品先生。人事の話は?」
「はい?」
だだっ広い医局の反対の隅で、三品先生(37)は黙々とパソコンを打ち続けていた。彼は大学からの人事でやってきて1年になる。
「今年は先生の転勤の話は、ないですかな?」
「やめてくださいよ。ここに来てまだ1年ですよ」
「大学の医局の医者だったら、分からんでしょう?いつ飛ばされるか」
「・・・けっこうここ、居心地いいんで」
というより、楽だった。名目上、治療が必要ない病棟だ。ただ患者を回診してればいい。
治療が必要になったり状態が悪化すればよそへ紹介する、そういったスタンスが病院にとっても好ましかった。
コーヒーはまだ沸かず、老人は少し足踏みし始めた。
「でもいいんですかいな?先生。こんな山奥まで飛ばされて・・」
「時間通りに帰れるし、ストレスがないのがいいんですよ」
「大学が恋しいでしょう」
「まさか。大学を出て後悔する人間がいるとすりゃあ、それは・・」
「・・・・」
「中途で講師や助教授をあきらめた連中だけでしょう」
しかし彼もその一人だった。助手、助手で我慢して実験・論文に時間を費やしてきたのに・・。それがいきなり転勤だ。鶴の一声で。
今までやってきたことは、なんだったのか・・。
パソコンのゲームはそれを忘れさせてくれた。
神谷先生はゆっくりと2つのカップを運んできた。
「どうぞ」
「ああ、いつもすみません」
「精が出ますな・・」
「あ?これですか?マックの9800」
「パソコンはよう分からん」
「今はゲームとインターネットだけですよ」
「インターネットか・・・。わしらはもう、ついていけん」
「国営のときは医局がLANを引いてくれていたらしいですが、民間になってから取り除かれましてね」
「そんな金ないだろうな。こんな民間では」
そのため三品先生はネットのときだけ医局の電話線を利用し、アナログで使用していた。当時のネットは「ISDN」が主流だった。
医局の内線が鳴った。神谷先生がゆっくりと歩み寄った。
「もう夕方になるぞ。詰所の奴ら・・・・はい!・・・・・・ああ。もう勝手にし・・ああ、知ってるとも!何度も言うな!」
老人にしては逆ギレの閾値が低いのか、彼は衝動的に受話器を叩き込んだ。
「アイツはしかし、こたえてないな」
「また何か、しでかしました?」
「引継ぎのことが、まだ出来てないらしい」
「ちゃんと言ったんですけどね。私が」
「頼むよ。一応は君の後輩だろう?」
「最後の最後まで、世話を焼きやがる」
「彼は、どこへ?まあ、どうでもいいが」
「大学へ戻されます」
「大学院か?」
「いえ、違うようです。再教育と、人員補充が目的でしょう」
「再教育?」
「医局の方針に従わない勝手な医者が増えてきたんでね。見せしめですよ」
彼も人のことはいえなかった。
神谷先生は窓を開けて、灰皿を裏返し何度か振った。
目の前には山と林道しかない。
「三品先生は、将来は開業ですか?」
「わ、私がですか?」
三品先生はゲームの手を止めた。
「将来ですよ。どのように・・」
「それは教授次第なもので」
「開業は?」
「開業、したいですねえ。でも今は難しいんでしょう?でも開業って、年収分くらいの資金が要るらしいじゃないですか。
それに経営難で借金でもしたら・・あ」
三品先生はしまった、と思ったが遅かった。それは神谷先生の思い当たるふしであった。
「ま、わしがやってた診療所はいろいろあってなあ・・」
神谷先生は大空に向けてタバコを一吹きした。
「結局、経営の首を絞めるのは人件費だよ。人件費」
「スタッフの給料ですか」
「最初は客も多くて繁盛はしとったが。繁栄は永久には続かないものだ」
「せ、先生の診療所自体は大変人気があったとお聞きしてましたが・・」
「そうだ。わしに非があったわけではない。だが人を雇いすぎた。検査機器の購入もそうだ」
「・・・・・」
「しかも、金儲け目当ての若造医師らが、わしんとこの近辺に次々とクリニックなどを建ておった」
「いえいえ。それでも先生には及ばず、わずか数年の命でしたね」
「だいたい最近の若造は、開業するにあたっての動機そのものが、なってないんだ」
現在は開業の半数が失敗するといわれる時代だ。そのため銀行からの融資も次第に厳しくなっているという。
彼は窓を閉め、灰皿を机に置いた。
「ちょっと詰所まで行ってみるか・・」
「自分はもうちょっとしたら外します」
「では・・」
神谷先生は悠々と医局を出、廊下のMRには目もくれず暗い階段を降りていった。
5つあった詰所の3つは閉鎖。しかしベッド数はそのまま。それを2つの詰所が監視・・できるはずがない。
だがここは療養病棟だ。病院であって病院ではないようなものだ。
詰所には高齢のナースが3人集まって盛り上がっていた。どうやら誰かの悪口らしい。
神谷先生が入ってくるなり、彼らは散らばろうとした。
「彼は?」
「あ・・・」
捕まったナースが天井を見上げた。
「さっきまでいたんですが・・」
「もう1つの詰所か?」
「はい」
「申し送り事項は、ヤツはちゃんとカルテに書いたんだろうな?」
「ええっと・・・」
ナースはカルテを適当に取り出した。
「カルテには、記入はないですね・・」
「おい!それはわしの患者の!」
「ああそうだったそうだった。へへ」
「ちゃんと確かめておけよ!」
「先生。呼吸状態の悪い人は、どうしましょう」
「なに?ああ、ヤツが診てた患者か。わしの患者になるようだな」
「家族が来て、心配してました」
「転院先はまだ見つかってないのだ。今は療養病棟で診るしかない」
「なんか、処置がどうたらこうたらって・・」
「聞き流しておけ」
「そうですよね。療養じゃ、積極的な治療はできないし」
「そうだ。わしらがしたくても、それが病院の方針なのだ」
彼自身、診断・治療自体に興味はなく、またその能力もなかった。
ダラダラした開業生活が生んだものだ。いまさら臨床医には戻れない。
「明日、三品先生にでも任せますか?」
「いちおう循環器の医者か。ダメだあの男は」
「ですよね」
「医局でゲームばかりしておる。あれでは大学から追い出されるのももっともだ」
「そうそう」
「うちでも、もう要らんがな。大学の教授にも再三促してるんだが」
だがあくまでも医局からの派遣人事だ。派遣先の病院が干渉できる内容ではないよう。
神谷先生はのっしのっしと病室を素通りし、もう1つの詰所へ向った。
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