プライベート・ナイやん 2-11 ホンモノになりたい
2005年3月27日 医局員が1人減ったが、それをいつまでも惜しむ時間はない。いや、時間はある。ヒマな病院だから。ただ、自分も明日は我が身だ。いつ医局から急な人事が告げられるのか、それは誰でも抱えている心配事。
いつものように、午後の回診。患者1人あたり1分くらいで診察を終えていく。痴呆がひどかったり脳梗塞の重い後遺症があったりで、意思の疎通ができない人がほとんどだ。しかし・・
「先生。これはどうも」
家族が来ているときは、久しぶりに<会話>を楽しむ。今日は90台のばあさんの息子の嫁が来ていた。
「母の容態はどうなんでしょうか」
こうやって突然ムンテラを希望してくる家族には、もう慣れていた。僕は詰所からカルテを持ってきた。
「はいはい」
嫁はそのままカルテを受け取ろうとしたので、僕は思わず引っ込めた。
「あ、読んだらダメですか?」
「じ、自分が説明を」
実はカルテは法律上、患者側の求めがあった場合は応じる必要がある。しかし医療側はこれに応じる義務はない。まことに妙な法律だ。
※ 2005年4月あたりからは、これが完全に義務付けられるらしい。
「血液検査は月1回。栄養状態もそこそこ」
「鼻から入ってる管は・・」
「流動食です」
「なんか、時々微熱があるようですが」
「高齢の方は、慢性の気道感染、尿路感染を常に持っていることが多くて」
「でも熱があるのは・・」
「高熱の時とか、他に何か所見があるときは調べます」
「熱を下げてもらわないと」
しつこい嫁だな・・。あ、そうだ。
「そういえば、入院期間がかなり長くなってまして」
「はあ」
「自宅で看れないこともないという話でしたよね」
「はあ・・」
そうだった。半年前の長男の話では、家で嫁が面倒を見るという筋書きだった。
「まあそうなんですけど。熱がある状態では受け入れは」
「今の状態なら、許容範囲だと」
「それに流動食っていう、このチューブに入ってる液。管理は私らには」
「詰所のスタッフが教えてくれます」
「と、とにかくこの状態では無理です」
「しかし・・」
このばあさんはここにもう2年近くいる。僕と同時期だ。
こうやって療養病棟は埋められていって、同じ顔ぶれが長期に及んで並ぶ宿命にある。
ま、家族が看る気がないのを無理に押したって、それは揉め事を起こすだけだ。
地域に根ざした医療でないとな。
僕は詰所へ戻り、検査伝票を確認した。
「喀痰培養の結果が戻ってる」
一斉に提出した各患者の喀痰培養・尿培養の結果が戻ってきていた。いくら検査に金がかかるとはいえ、患者の感染状態を確認するのは病院の義務だ。
しかし・・。
伝票を見て愕然とした。
「婦長さん?」
「はいよ」
「なんだこれ。MRSAが増えてる。先月は3人・・・今月は6人だ」
「はあはあ・・どれどれ?」
僕は伝票を渡した。
「この前、会議のときに指摘したけど。手袋はきちんと使い分けてる?」
「・・・」
「部屋の割り振りとか」
「・・・」
婦長は無視して去っていった。
「緑膿菌も増えてるぞ・・」
僕は頭を抱えていた。最近、院内肺炎の発症が増えていたのだ。
「何?何だ?」
異様な雰囲気を察知した副院長が、詰所に入ってきた。
「ユウキ先生。何だ?」
しかめっ面で老医師は入ってきた。
「婦長さんに、培養の結果を」
「婦長が向こうで騒いでおるぞ!」
「何をまた・・」
「何をまた?それはお前だろうが!」
神谷先生は顔を紅潮させた。
「仕方なかろう!ここは一流の専門病院じゃないぞ!」
「それは分かって・・」
「わしだって、感染の対策は万全にしたいさ。だがな・・コストがかなり要るのだ!コストが!」
「・・・」
「お前のための病院ではないのだ。ったく・・!」
僕は塞ぎこむしかなかった。ここでもっと逆らえば、彼はすぐに大学医局へ≪通報≫する。そうなればどうなるか。
僕は感じていた。
この世界では、正義など通用しない。
それと、彼に逆らえない理由がもう1つあった。救急病院のバイトの件だ。あと1週間もすれば、厳重注意期間が終わる。再申請して、そこで修行したいのだ。
神谷先生は去っていった。
外来から呼び出しだ。外来時間外だ。
「事務です。48歳の男性が来てまーす」
「今はまだ病棟で・・」
「不整脈だそうで」
「だから!今は降りれないって!」
僕の悪い癖だ。イライラや焦りが重なると・・。
なんでこうなってしまったんだ。
「じゃあ他の先生にお願いしましょうか・・」
「あ、ああ。そうして」
「できれば先生から・・」
「な、なんで僕が?」
「私達からでは、ちょっと・・」
事務員は、ある程度年齢が上のドクター達を恐れていた。副院長の支配下にあるからだ。その点僕は若いほうでアウトローのため、声がかけやすかった。
「すまない。やっぱ降りるよ」
どうかしてる。この前、呼吸不全の患者にも動揺したり、今日もイライラしたり・・。人間がどんどん小さくなってるような気がする。これをスランプとか表現するのは、あくまでも立ち直ってからする話だ。
患者を寝かしてとった心電図はPSVT。とりあえず焦ることはない。
「睡眠不足でしたか?」
「ええ」
「看護婦さん。ジギタリス注射したが、効果ないんで。リスモダンを」
おせっかい外来ナースはしばらくして戻ってきた。
「リスモダンはありません」
「ないはずないだろ?この前使ったし。半年前かな?」
「削除されてます」
「なに?」
「会議でとっくに決まってたみたいですよ」
病院の業務縮小は聞いてたが、こんな大事な薬の削除まで・・。
「ワソランは?」
「あ、1本余ってました。リスモダン」
「ふう・・」
おせっかいナースが耳打ちした。
「サンリズムってやつのほうがよく効くのでは?」
「余計なことを。こういうストレスっぽいのがキッカケで出たタイプは、1Cよりも1Aのほうがいいんだ」
「?」
このおせっかいナースもくどい。専門用語で蹴散らした。
「ようなりました。ありがとう」
たいした治療ではなかったが、患者の感謝の笑顔に多少癒された。
「頓服を出しておきます」
オマケも出しといた。患者は背伸びをしながら玄関を出て行った。
外来婦長がやってきた。
「なんか先生。今日は久しぶりに本物が来ましたね」
「本物?」
「・・・」
「しょせんは・・」
「?」
言葉が見つからず、僕は医局へ戻っていった。
いつものように夕日を浴びながら片付け。
須川先生もおらず、話すドクターもいない。
ゆっくりと階段を降り、正面玄関へ出た。今日は遠回りして帰りたい気分だが、そこらに光ってる住民の目がある。そうだ。夜はドライブで街のツタヤでにも行くか。しかし、夜遅くのエンジンふかしは住民の反対が出る・・。
「はあ・・」
宿舎へ入ろうとすると、またチリンチリン、とオンボロ自転車の音。駄菓子屋のおばちゃんだ。肩に網をかかえている。
「おばさん。その網の中は・・」
「モチまきモチまき!大漁大漁!」
なるほどいろんな色の小さなモチがたくさん入っている。
「じゃ、おやすみなさい・・」
「先生よ!<本物>が、来たんやって?何が来た?」
「はあ?・・・婦長が何か言いましたか」
「なあ?ホンモノって・・何やねん?」
「・・・ここにはないものです」
「な、なんと?」
「すいちょうけん」
おばさんはフリーズした。
いつものように、午後の回診。患者1人あたり1分くらいで診察を終えていく。痴呆がひどかったり脳梗塞の重い後遺症があったりで、意思の疎通ができない人がほとんどだ。しかし・・
「先生。これはどうも」
家族が来ているときは、久しぶりに<会話>を楽しむ。今日は90台のばあさんの息子の嫁が来ていた。
「母の容態はどうなんでしょうか」
こうやって突然ムンテラを希望してくる家族には、もう慣れていた。僕は詰所からカルテを持ってきた。
「はいはい」
嫁はそのままカルテを受け取ろうとしたので、僕は思わず引っ込めた。
「あ、読んだらダメですか?」
「じ、自分が説明を」
実はカルテは法律上、患者側の求めがあった場合は応じる必要がある。しかし医療側はこれに応じる義務はない。まことに妙な法律だ。
※ 2005年4月あたりからは、これが完全に義務付けられるらしい。
「血液検査は月1回。栄養状態もそこそこ」
「鼻から入ってる管は・・」
「流動食です」
「なんか、時々微熱があるようですが」
「高齢の方は、慢性の気道感染、尿路感染を常に持っていることが多くて」
「でも熱があるのは・・」
「高熱の時とか、他に何か所見があるときは調べます」
「熱を下げてもらわないと」
しつこい嫁だな・・。あ、そうだ。
「そういえば、入院期間がかなり長くなってまして」
「はあ」
「自宅で看れないこともないという話でしたよね」
「はあ・・」
そうだった。半年前の長男の話では、家で嫁が面倒を見るという筋書きだった。
「まあそうなんですけど。熱がある状態では受け入れは」
「今の状態なら、許容範囲だと」
「それに流動食っていう、このチューブに入ってる液。管理は私らには」
「詰所のスタッフが教えてくれます」
「と、とにかくこの状態では無理です」
「しかし・・」
このばあさんはここにもう2年近くいる。僕と同時期だ。
こうやって療養病棟は埋められていって、同じ顔ぶれが長期に及んで並ぶ宿命にある。
ま、家族が看る気がないのを無理に押したって、それは揉め事を起こすだけだ。
地域に根ざした医療でないとな。
僕は詰所へ戻り、検査伝票を確認した。
「喀痰培養の結果が戻ってる」
一斉に提出した各患者の喀痰培養・尿培養の結果が戻ってきていた。いくら検査に金がかかるとはいえ、患者の感染状態を確認するのは病院の義務だ。
しかし・・。
伝票を見て愕然とした。
「婦長さん?」
「はいよ」
「なんだこれ。MRSAが増えてる。先月は3人・・・今月は6人だ」
「はあはあ・・どれどれ?」
僕は伝票を渡した。
「この前、会議のときに指摘したけど。手袋はきちんと使い分けてる?」
「・・・」
「部屋の割り振りとか」
「・・・」
婦長は無視して去っていった。
「緑膿菌も増えてるぞ・・」
僕は頭を抱えていた。最近、院内肺炎の発症が増えていたのだ。
「何?何だ?」
異様な雰囲気を察知した副院長が、詰所に入ってきた。
「ユウキ先生。何だ?」
しかめっ面で老医師は入ってきた。
「婦長さんに、培養の結果を」
「婦長が向こうで騒いでおるぞ!」
「何をまた・・」
「何をまた?それはお前だろうが!」
神谷先生は顔を紅潮させた。
「仕方なかろう!ここは一流の専門病院じゃないぞ!」
「それは分かって・・」
「わしだって、感染の対策は万全にしたいさ。だがな・・コストがかなり要るのだ!コストが!」
「・・・」
「お前のための病院ではないのだ。ったく・・!」
僕は塞ぎこむしかなかった。ここでもっと逆らえば、彼はすぐに大学医局へ≪通報≫する。そうなればどうなるか。
僕は感じていた。
この世界では、正義など通用しない。
それと、彼に逆らえない理由がもう1つあった。救急病院のバイトの件だ。あと1週間もすれば、厳重注意期間が終わる。再申請して、そこで修行したいのだ。
神谷先生は去っていった。
外来から呼び出しだ。外来時間外だ。
「事務です。48歳の男性が来てまーす」
「今はまだ病棟で・・」
「不整脈だそうで」
「だから!今は降りれないって!」
僕の悪い癖だ。イライラや焦りが重なると・・。
なんでこうなってしまったんだ。
「じゃあ他の先生にお願いしましょうか・・」
「あ、ああ。そうして」
「できれば先生から・・」
「な、なんで僕が?」
「私達からでは、ちょっと・・」
事務員は、ある程度年齢が上のドクター達を恐れていた。副院長の支配下にあるからだ。その点僕は若いほうでアウトローのため、声がかけやすかった。
「すまない。やっぱ降りるよ」
どうかしてる。この前、呼吸不全の患者にも動揺したり、今日もイライラしたり・・。人間がどんどん小さくなってるような気がする。これをスランプとか表現するのは、あくまでも立ち直ってからする話だ。
患者を寝かしてとった心電図はPSVT。とりあえず焦ることはない。
「睡眠不足でしたか?」
「ええ」
「看護婦さん。ジギタリス注射したが、効果ないんで。リスモダンを」
おせっかい外来ナースはしばらくして戻ってきた。
「リスモダンはありません」
「ないはずないだろ?この前使ったし。半年前かな?」
「削除されてます」
「なに?」
「会議でとっくに決まってたみたいですよ」
病院の業務縮小は聞いてたが、こんな大事な薬の削除まで・・。
「ワソランは?」
「あ、1本余ってました。リスモダン」
「ふう・・」
おせっかいナースが耳打ちした。
「サンリズムってやつのほうがよく効くのでは?」
「余計なことを。こういうストレスっぽいのがキッカケで出たタイプは、1Cよりも1Aのほうがいいんだ」
「?」
このおせっかいナースもくどい。専門用語で蹴散らした。
「ようなりました。ありがとう」
たいした治療ではなかったが、患者の感謝の笑顔に多少癒された。
「頓服を出しておきます」
オマケも出しといた。患者は背伸びをしながら玄関を出て行った。
外来婦長がやってきた。
「なんか先生。今日は久しぶりに本物が来ましたね」
「本物?」
「・・・」
「しょせんは・・」
「?」
言葉が見つからず、僕は医局へ戻っていった。
いつものように夕日を浴びながら片付け。
須川先生もおらず、話すドクターもいない。
ゆっくりと階段を降り、正面玄関へ出た。今日は遠回りして帰りたい気分だが、そこらに光ってる住民の目がある。そうだ。夜はドライブで街のツタヤでにも行くか。しかし、夜遅くのエンジンふかしは住民の反対が出る・・。
「はあ・・」
宿舎へ入ろうとすると、またチリンチリン、とオンボロ自転車の音。駄菓子屋のおばちゃんだ。肩に網をかかえている。
「おばさん。その網の中は・・」
「モチまきモチまき!大漁大漁!」
なるほどいろんな色の小さなモチがたくさん入っている。
「じゃ、おやすみなさい・・」
「先生よ!<本物>が、来たんやって?何が来た?」
「はあ?・・・婦長が何か言いましたか」
「なあ?ホンモノって・・何やねん?」
「・・・ここにはないものです」
「な、なんと?」
「すいちょうけん」
おばさんはフリーズした。
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