部屋に入ると、母親が三面鏡で化粧していた。
赤ん坊は眠っているようだ。

「あ。この前は・・どうも」
母親はメイクをしながらボソッと呟いた。
「いえ・・では、気をつけて」

彼女はブランドのバッグを抱え立ち上がった。
黒づくめのド派手な格好だ。なおこの頃はまだ「マトリックス」
は公開されてなかった。

「では・・」

彼女が出て行ったあと、僕は子供を起こさないよう静かに配慮した。

「なに、しようかな・・」
テレビを見たら子供が起きる。では何をしたら・・。

そうだ。

僕も寝よう。

僕は赤ん坊のふとんに並ぶように、横になった。
真上の蛍光灯から2メートルほどの紐がぶらさがっている。
まぶしいので、消しにかかった。

「頼むから・・・寝ててくれよ!」

パチン。

・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・

バイト先の病院で、確かに僕は少しずつ学んでいるとは思う。
だがどこか、自己満足的なもののようにも思う。

授業に出るだけ出てノート取って・・勉強したふりみたいな。

学ぶっていうのはもっと困難で、傷ついて、もっと苦いものではないのだろうか。

つまり僕が言いたいのは、こんなバイトみたいな割り切り行為でやってて、ホントに
身につくのだろうか、という不安。毎日主治医ではないということでリスクは減るが、
それが僕を気楽にさせているんだろうか・・。

それでか?ジェニーをデートに誘う、など考えたり・・。

レジデントの頃はそれどころではなかった。ことはないな。

・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・

そのとき、外でプア−ンという車のクラクションが鳴った。
けっこうデカイ音だ。

僕は暗闇に慣れた目で、おそるおそる赤ん坊の方を見た。

赤ん坊は目を開けてこっちを見ていた。目が合ったのだ。
彼は徐々につらそうな表情になっていき・・・次第に顔がシワクチャになってきた。

「ふ!ふ!」
「やべ!」
「ふんげ!ふんげ!ふんげ!」

電気をつけ、抱きかかえ。
それにしても、耳をつんざく泣き声だ。

「ふげふげふげふげ!」

育児ノイローゼが増えるわけだ。

「そ・・・そうだ。おう!」
「ふげ・・・・キイッ」
いきなり笑顔に。
「おう!おう!おう!」
「キイッキイッキイッ」

単純だな・・。

何か・・匂わないか?
療養病棟でよく嗅いだ匂いだ。
これは・・

「うわ!」
赤ん坊のオムツを外すと、大量の便がオムツに付着している。
「つまり赤ん坊がウンコをしたわけだ」
思わず香港映画の字幕のような言葉が出た。

『マイユン、カアダ!(チェン。ヤンさんは元気か?)』
『マストン、チャンガア!(お前の上司だ)』
『ヤンマン。バイバ!(気をつけてな!)』
※ 広東語は適当

こんな感じ。説明的で単純。

大便は背中まで回りこみ、下着もすべて汚染されていた。
「つまり全部着替えないといけないわけだんガア!アイヤー!」
近くのタンスを適当に引くと、下着らしきものが・・。
「アイヤー。女物だんがあ!」

焦って閉めた。下の段に、子供用のがあった。

全部脱がし、体を拭き拭き。
「アイヤー。ティッシュ一箱全部使ったわけだ」
服の着せ方がいまひとつ分からず、とりあえず体に巻いた。

赤ん坊はまた寝返りし、ハアハア息を荒げていた。
ハイハイはまだできないようだから・・お前は7ヶ月以下、ってところか。

当直日誌に従い、ミルクの時間。<何がしか、することが必ずある。
それが育児である>など、日誌の裏表紙にいろいろ書いてある。
僕は少し慣れたつもりで、哺乳瓶の先を赤ん坊の口にあてがった。

「大きくなれよ。♪はいりはいりふれ・・」
自然と出てきた歌声に思わず笑ってしまった。
「・・はいりほーパッポー!ハハハ!はりはりふれ、ホッホー!」
昔『ゴールデン洋画劇場』の終わりかけでよく流れたCMだ。

ティッシュがなくなったのは問題だ。この部屋にはもうなさそうだし・・。
2階にあるんでは?

「すんませんがあ・・」
僕はおそるおそる、木造の階段をゆっくり上がっていった。
誰もいないと分かっていても、気になる。
「ティッシュを取りに来ただけなんでんがあ・・」

階段上ったところ、2つのドアのうちの1つを開けた。

「入り・・・♪はいりはいりふれはいりほ〜・・」
デスクに机の4畳半。机は荘重な作りで、子供部屋でないのはわかった。
何より、蔵書がいっぱい置いてある。床にも散乱している。

「ハリソンに、ワシントンマニュアルに・・」
床ではどれも古びた、ハードカバーっぽい本がホコリをかぶっている。
あの奥さんの本なんだろうか。

机の横にベッド。それでもう部屋はいっぱいだ。
ベッドの上のシーツはシワシワ。そのど真ん中にティッシュ箱が置いてある。

「ちょっと、借りますねんがあ・・!」
悪知恵の僕は、箱ごとでなく中のティッシュのみをたくさん取り出した。
「失敬・・!バイバ!」
恥ずかしい思いをしながら、ゆっくり階段を下りた。

赤ん坊は畳の上でうつ伏せになり、顔だけ上げている。
しかしよく見ると、大量のミルクが口から・・畳半畳分くらい漏れ出ていた。
「ああ!どうしたんがあ!」
「ふ・・・ふげ!ふんげ!ふんげぇ〜!」
彼はびっくりして手足をバタバタさせた。

「すまん!ゲップさせるの忘れたんがあ!」
「ふんげ!ふんげ!」

そのときピンポーン!と外の呼び鈴が鳴った。

「はい?」
玄関の外は誰もいない・・と思ったら・・

「バン!」
「うわ?どうしんたんがあ?」

撃たれた?

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