僕が正面玄関へ出たところ、携帯が鳴った。

「先生。病棟は落ち着いてる?」
副院長の声だ。これは・・ただ事ではない。
「今すぐ、出勤できる?」
「え?ええ・・・しかし明日は」
「今。今、来て欲しい。今は1人でも」
「心カテでしょうか?」
「いや違う。どうしても頼みたい」
「重症ですか?」
「それは来てから」

何だ?

「赤井先生。できれば内容だけでも」
「うん。じゃあ引き受けてくれるわけだね」
「はい」
「よし。赤ん坊を頼む」
「え?」
「沖田院長は入院中で、調子が悪い」
「赤ん坊の世話・・・今日だけですか?」
「いや。日曜の夜。できたら月曜日の朝まで」

僕はカッとなった。

「ダメです!それは絶対にダメ!」
「え?」
副院長ははじめてたじろいだようだ。

「明日の朝からは・・・ダメです!絶対です!」
「用事?」
「え、ええ。ほ、法事が」
「法事か。仕方ないな。では別の人間に頼むとする」
「では赤井先生。明日の早朝までは僕が」

仕方なく、一部引き受けた形に。

「沖田!さっさとオペして、退院しなよな!」
アクセル全開で、マーク?は官舎を出た。

気が焦るのか、カーブでのハンドルがぎこちなく急だ。
山のカーブとも、もうすぐオサラバか。トンネルが近づく。
手前は橋で、両側は当然、川だ。

トンネル前は濡れている。タイヤは水に沿って回っている。
どうやらおかしい。タイヤが微妙に左右にずれる。

そうだ。山道ばかり走ってるから、タイヤが擦れているんだ。
ガソリンスタンドでもワイヤーが少し出かかってると言われた。

だがタイヤ交換するほどの時間はないし、金もない。

トンネルの前に来たとたん、それは起こった。
「わっ?ちょっと・・!」
車がいきなり斜めを向いたので急いで立て直すと、今度は
反対の斜めに向いた。調整しようとするうち、車は時計回りに
回転し始めた。
「うわ!うわ!」

フロントガラスに、対向車であろう車が何台か映った。トンネルから
出てきた車だ。しかしこちらはコントロール不能で、絶えずハンドルを
廻してる。車は等速に円運動をし続けた。

「死ぬ!死ぬ!」
僕はこのまま死ぬのか。

あのとき、ガードレールにぶつかりかけたときに車を点検してもらう
べきだった。ごめん。今度はちゃんとします、ちゃんとします・・・!

車が対向してくるたび、全身の毛穴が開いた。しかし衝撃を受ける
ことはなく、円運動は次第に対向車線で止まっていった。

「ふう・・・」
冷や汗が、ドッと噴き出した。ドラマならここで音楽だろうが、無事なら
無事で、また目的地へ向かうしかない。

車は法廷速度並みになり、おそるおそる赤ん坊の待つ家へと向かった。


僕は家の玄関先で立ち止まった。

息を殺し・・・

「ごめんください」
待つこと2分。中でガチャガチャ、という音。

<ダイアナ>が場違いな黒いドレスで出てきた。

「はああ!間に合わん!間に合わん!」
「こんばんは。何か変わりは・・」
「あらへん!」

彼女はタクシーに乗り込み、また街へと消えていった。

「失礼します・・」

運良く、赤ん坊は寝ていた。今はスタッフが激減したため、
この赤ん坊の当番の回数が増えていた。しかし、これもあと
10日足らずだ。そう思うと胸が痛い。

だが、どうも調子が悪い。体が自分のもののようでない・・。
おかしいぞ。

そういや唾を飲み込むと・・どこかひっかかる。ヤバイ。

風邪をひいているらしい。僕は首の両側のリンパ腺を触れてみた。
痛い。腫脹してる。カッターのエリがどことなく当たってキツイ。

弱気になったとたん熱っぽくなってきた。

この赤ん坊に移ってもいけないな。

僕は赤ん坊から距離をおき、お互い部屋の隅と隅に分かれた。
しかしそれでも移るのが心配のため・・・

2階の床で寝ることにした。戸は開けっ放しで下の声が聞こえるように
配慮を。

苦しい。だるい。熱い風呂に入っているようだ。
いったい何度あるんだろう。
性格上、体温計で測るのはイヤだった。熱があるのを認めることになる。
外来での患者への対応と逆なのが情けない。

喉が渇いた。

「しまった・・!今日は何も持ってきてない・・・!」
夕ご飯はおろか、飲み物さえも。
僕は1階の冷蔵庫を開けた。

「ビールしかない・・・」

缶ビールの山だった。酒はダメだ。利尿作用で、逆に脱水になってしまう。
尿路結石の患者が<水分補給>と称してビールをがぶ飲みし、
結局脱水になって夜間に結石を再発するという事実を思い出した。

そんなことはどうでもいい。み、水が欲しい。

ユラユラ歩く僕は、洗面台の水を流してみた。
どう見ても白っぽい。飲むのは毒だ。風呂場の水も同様だろう。

玄関をガラッと開けたが、外は住宅しかなく自販機も見当たらない。
仕方ない。やっぱり洗面台の水を・・・。

待てよ?そうだ!

僕は赤ん坊のミルク作り専用の水の入ったボトルに注目した。
常温で置いてあるその水は1リットルボトルで2本ある。

1本くらい飲んでもよかろう。僕は張り切ってフタを開けた。
コップに少し移して飲むと、なんの味もないが・・
「おいしいこと、この上なし!」
これで薬でもあれば・・。

携帯に電話だ。品川君だ。

「先生。こんばんは!」
「なんだよ?」
「試合のほう、出席でいいんですね?5日後くらい」
「村民との試合?それもあったな。ああ!そうだ!」
「では伝えておきます」
「強いのか?相手は」
「みんなユウキ先生を集中攻撃するそうです」
「へえ?やったろうじゃないか!」
「私も助太刀を」
「そのときはよろしく」
「明日の朝は、病院で待ち合わせですね?」
「ああ。頼む」

電話を切ったが、実は不安でいっぱいだ。

「ひい・・・・みんな僕をいじめる・・・ん?」
足元が冷たいと思ったら、床が水浸しになっている。

その中に赤ん坊が四つんばいになっていた。
赤ん坊がボトルを倒したのだ。

「ば、ばかもの!」

ハッハッと機嫌がよさそうな赤ん坊の口は、やがて<へ>の字に変わった。
眉間にシワがより、険しい顔になっていく。

「し、しまった。泣くな!」
「ふ・・・・ふ・・・ふんげ・・・」
「すまん!泣かないでくれ!」
「ふんげ!ふんげ!ふんげ!」

間に合わず、赤ん坊の号泣が始まった。

「あああ!しまった!」
「ふげ!ふげ!ふげ!ぎゃあ!ぎゃあ!ぎゃあ!」
水浸しの赤ん坊を抱き起こし、タオルの上に寝かせた。
これでは全部、着替え直しだ。

しかしやはり疲れているせいか、1つ1つの動作がトロく、
時間を要する。
ボトルはとうとう1本だけになってしまった。この赤ん坊の場合、
一晩で半分は確実に使う。

また携帯が鳴った。

「ユウキ先生。品川ですけど、いけました」
「何がいけただ!スカタン!」
「はあ?試合参加の許可が出まして・・」
「そんな電話よこすから、こんなことになった!」
「こんなことって、どんなこと?」
「びしょ濡れだ!バラモン!」
「バラモン?カースト制度?」
「服が汚れたんだ!着替えしないと!」
彼は受話器の向こうで笑っている。
「ははは。さては先生。変な店にでも行ってますね?」
「違うわい!」
「踊り子に手を触れたりしたんですか?」
「切るぞ!」
明日のデートが思いやられる。

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