2NDLINE  5

2005年6月29日
トシキ先生は大学病院の階段をゆっくり上っていた。

レジデントらしき医者が、すれ違いに何人も降りてくる。
若いドクターの身軽さに、懐かしさを覚えていた。

階段を降り終えたときの、着地の音が違う。

「懐かしいと、いえば・・」
彼はどうしても、医局に寄る前に気になることがあった。

詰所の前へ。私服の彼は、患者の家族かMR業者にしか見えない。
彼は何度も中を覗いていた。

「なんでしょうか?」
見たことのない若いナースが後ろから現れた。
「い、いや!なんでも!そうだ、その・・」
「はい?」
「ここで働いていたナースなんだけど。うう、内田・・」
「内田・・・?結婚退職されました」

トシキ先生は衝撃を受けた。そこまで聞いてなかったのに。
というか、そこまで教えてほしくなかった・・。

以前、少しだけデートしたことのある子だ。

「どちら様ですか?」
「し、しんせき・・」
彼は落ち込み、しぶしぶ廊下を歩き始めた。
「気分が悪いんですか?保険証は?」
「そっとしておいて・・」

彼は本来の目的を思い出し、カンファレンス室へ入った。
「ふう。ここで一息・・。ん?」
正面を見ると、20人もの医局員が振り向いている。

壇上にはレジデントらしき白衣。最前列に助教授だ。
彼だけが、こちらを向いていない。

「す、すみません!場所違いで!で、でも・・」
不審者と思われるわけにはいかなかった。
「途中で申し訳ありません!わ、私は・・」

相変わらず、みなシラケ顔。みな同じ顔に見える。

「年末のご協力をお願いに来た、トシキという者です。以前は
この病院でお世話になりました」
「MR?」
「は?」
医局員の1人の言葉の意味が、よく分からなかった。
スーツ姿だから、そう思ったのだろう。

「お気持ちはありがたいけど」
医局員はトシキ先生の手提げ袋を見ていた。
「あ、これは・・」
「当院では、お気持ちのほうは頂けないことになってまして」
「そ、その・・・」
彼は廊下へ出ようとしたが、何か驚いたようでまたバッとカンファルームに入った。

「・・・どうされたのですか?」
と言われるかと思ったが、部屋はフッと電気が消され、勉強会が始まった。

『ふだんじっくり勉強する機会の少ない、GERD(ガード)について』

トシキ先生は困った。廊下では2人の白衣がこちらへ向かっている。そのうち1人は、あの島だ。別に久しぶりに会ったからといって問題はないが。とにかく嫌な奴なのだ。

『GERDは、胃酸の食道への逆流で粘膜に傷害を来たしたり、胸焼けなどの症状を起こす一連の病態です』

暗い中、島ともう1人の先生が入ってきた。

別の医局員が小さくぼやく。
「ガードか。あまり興味ねえな!おい!俺にも資料を一部!」

トシキ先生はおそるおそる、その場を引き上げようとしたが・・・出口は人で塞がれている。

『これが増えてきた主因は2つ。?脂肪摂取の増加によるCCK増加による下部食道括約筋弛緩、?ピロリ陰性化率増加による高齢者での胃酸分泌維持』

トシキ先生はいつもの癖で、話に耳を傾けた。

『分類すると、以下の3つに分かれます。?NERD・・・内視鏡陰性逆流症といいまして、胸焼けがあるのに胃カメラでは所見がないもの。ガード全体の約半分』
「見落としたんじゃないの?」
助教授の声で、イエスマンたちは爆笑。

『このNERDの中には酸が逆流しないのに症状が出る、という
functional heart burnというものがありまして。この場合PPIは効果ありません』
「精神的な問題か?」
助教授はペンを舐めながら聞いた。
『いえ。食道の運動異常、あるいは食道の知覚異常かと』
「フ−ン」

彼は専門外のためか、あまり興味がなさそうだ。

トシキ先生の携帯が震えた。
「もしもし・・」
「ユウキだ。トシキ。こっちの医局はもぬけの殻だぞ!」
「ええ。予定通りですね。スタッフはみんなここにいますんで」
「じゃ、早く来い!」
「ええ。行きます。ちょっとこれ、聞いてから・・」
「俺はパソコン始めて間もないんだ!だから早く!」

僕は医局で、古くからあるマックのパソコンを開いていた。
「もう早く早く!起動しろ、起動しろ・・・・!」
マックの起動というのは、やきもきさせられる。

カンファレンス室では勉強会が続く。

『2つめのグループは胸焼けもありいの、カメラで下部食道に病変があるもの。この場合診断・治療がしやすいですが、ガードの2・3割しかないです。3つめは、症状はないけどもカメラ所見が陽性のもの。これも2・3割。高齢者に多い』
「さ!急ごう急ごう!」
助教授は時計を見ていた。
「医局に戻って、地方会の準備だ!」

トシキ先生は引き上げたかったが、遅れてやってきた医局員に出口を塞がれたままだ。

『症状が1週間に2回あれば、本症を疑うべきですね。問診のときは胸焼けだけでなく、ゲップ、嚥下痛はもちろん、慢性の咳にも注意を』
「わしの外来でも、慢性の咳はいっぱいおるよ!」
呼吸器専門の助教授がはさんだ。
「なんでしたら、さ・し・あげましょうか?」
『結構です。それでは治療のほうに』
「なっ?」
助教授は呆れたように首を振った。

『治療の目標は、食道括約筋の運動異常と、酸の抑制。これにつきます。前者はバクロフェン』
「まだ臨床では未使用だろ?」
『おおせのとおりです』
「ふん・・・」
『酸抑制は、みなさんおなじみのPPIとH2ブロッカー。PPIが全ての点でH2ブロッカーより優位、というわけではないので注意を。それぞれの特長に留意して使い分ける必要もあります。作用時間に関しては、PPIは昼間、H2ブロッカーは夜間に強力に現れる。ガードは昼間に症状が多い。ならばPPIが好ましい。しかもH2ブロッカーが2週間以上の使用で作用が減弱するのに対し』

医局員の半数以上は眠りに落ちていた。助教授が片手間に聞いている。
「ああそれ・・トランス現象な!」
『はい。で、PPIのほうは何年たっても効果が減弱することはない』
「いっそ、両方同時に使用できればな」
『保険の関係で無理ですが、両剤の併用で効果がアップするという報告も多いです』
「ま。わしらの専門でもないし。ここで切り上げだ!」

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