医長はトイレから戻り、またソファに横になった。

「ふう・・・先輩の他の患者さんは落ち着いてますか?」
「まあな」
「詰所で長いムンテラされてましたね」
「よく知ってるな。鹿児島から来てくれた家族がちょうど来てね」
「ああ。てんかん発作の」

彼は起き上がって、眠そうに両目をこすった。

「医長先生。お前も用がないなら、帰れよ」
「いえ・・・さてと」
モバイルで入退院患者のリストを調整している。

「てんかん発作で、退院がしばらく遠のく、と・・」
「わざと主治医に聞こえるように言うなよな!」
「いえいえ。すると、明日入院予定の狭心症が、延期・・」
「悪かったな!」

いちいちムカつく男だ・・・。

「よってカテーテル検査は延期。か」
「だから、悪かったなって。もう」
「するとこの人の検査がさらにズレて・・」

「そうだ。医長。シローはバイトか?」
「先輩、警告してくれましたか?」
「ああ、1回な」
「でも今日は、さっそうと出て行きましたよ。4時54分」
「細かいな・・・」
「きちんと警告してくれないと、困りますよ」
「知ってる。でもお前、医長だろ。お前も協力しろ!」
「ええ。すみません」
「オレに謝るな。患者に謝れ!」

僕は立ち上がって、医局のドアを開けた。
北野はひたすらパソコンを打ち続ける。

「じゃあな北野!シャランラ!」
「しゃ、しゃらんら!」
「だる・・・」

 薄暗い廊下へ出た。当時は夏だが、夕方以降になると
エアコンが切れる。医局はガンガンだから、その温度差に
やられてしまう。

 日常生活でも急激な温度差で、人間としての水分バランスが崩れがちだ。慢性疾患患者・高齢者・高リスク患者はこれらをきっかけに病気が発症、再発する。温度差が顕著に出やすい移行期、つまり季節の変わり目(秋→冬)(春→夏)にそれが明白だ。

 水分バランスといっても、大半が水分過多でなく脱水のほうだ。夜、厚く着こんで寝るはいいが、過剰な熱のせいで体の水分が逃げてしまい(特に夜間)、就寝前のアルコールなどがそれを助長する。

 脱水となった血管の中は虚血・血栓傾向が強まり、脱水そのものによる頻脈も手伝って循環動態を狂わせる。頻脈は不整脈を、血栓は動脈系の閉塞(脳梗塞・心筋梗塞)を、脱水は喀痰のネバさを増強する(気管支炎・喘息増悪)。

※ よく脳外科医や循環器医が患者に指導していた「寝る前に水をたくさん飲んどけ」は、予防への根拠は証明されてないらしい。つまり適当なアドバイス。心不全患者では逆に増悪させるおそれあり。

 とにかく、温度差を激しくして<変温動物>に成り下がらないようにすることだ。

 車で駐車場を出て、松田クリニックへ寄ってみることにした。僕の勘が働いた。半年前、松田先生がシローの家にいきなりやってきたという情報を知っていたからだ。

 たぶん、シローはそこで働いている。

 住宅団地の真っ只中。例によって路駐の列で、停めるとこはどこにもない。通り過ぎ際に見た看板では、営業時間(8時まで)をとっくに過ぎている。正面にできた調剤薬局もいい迷惑だ。しかし珍しい光景ではない。

「もう9時過ぎてるぜ・・?」
遠方に停めて、クリニックの方へ歩いた。途中、シローの赤いGTOを確認。

吉野家の大きさの規模でしかないクリニックの外で、ばあさんが座っている。
押し車に両手をあてて中腰だ。

「大丈夫・・?」
「ええ。はい。大丈夫です」
「歩ける?」
「あんたも待ってるの?」
「は?」
「何番?」

そうか。順番待ちか。

「僕は・・・まだまだです」
「3時間待っても、まだここで待たされててねえ」
「さ、3時間・・」

そんなに流行ってるのか、ここは?

「院長先生と、若い先生・・どっちのほう?」
「え?僕は・・・わ、若い方」
「そうよなあ。若い先生やったら、すぐ診てくれる」

2診制か。開業医で2診制って、よほどもうかってるって証拠だ。

クリニックの中を覗くと20人ほどの席がすべて埋まっており、立っている
人も同じ数くらいいる。テレビもない部屋で、みなじっと待っている。

「ば、ばあさん」
「はいな」
「院長先生は・・どう?説明してくれる?ちゃんと」
「わしゃ素人やから。説明はまあしてくれても分からんが」
「・・・・」
「命を預けてるからね、あの先生に」
「そこまで?」
「身寄りもないわしに、頼れるのはここだけなんでなあ・・・」
「・・・・・・」
「息子も娘も、みいんなよそへ行ってもて・・・」

クリニックから1人出てきた。

「ばあさん、空いたよ。そこ!」
「ほうほう」
バアさんはゆっくり立ち上がってドアを開けたが、空いた席はまたたく間に
立見席の人間がゲットした。

すごい光景だ。

バアサンは、命を預けると言ってたな・・・。僕が知ってる限りでは、松田先生の実力ではマウスの面倒がやっとだ。

1時間ほど周囲をウロウロしたが、クリニックの込み具合は変わらず、営業は終わる様子もない。

「だる・・・」

ま、シローがここに来ているとわかっただけでいいか。

僕はキーを廻し、今度こそ、と帰りの途についた。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索