ミチルのクーペを広場に止め、田中君の自家用車で病院へ向かった。

「婦長。あんなにペコペコしてるの初めて見ましたよ!」
「あたしが全部悪いのかな・・・」
「でも婦長。ああいう事故では禁物ですよ。あまり謝ってると」
「あたしが当てた・・・?そうなのかな」
「言うたもん勝ちみたいなとこ、ありますよね」
「あたしはなんともなかった。でも相手は痛みの訴えが。負い目はあるわ」
「ま、申し送りには間に合いそうですね。事務だけの話に」
「ええ。助かるわ」

しかし先ほどの電話の大声で、事務員の何人かの耳には届いていた。


車はタヌキの置物を通り過ぎ、病院前の駐車場にたどりついた。


詰所では今まさに申し送りが始まろうとしていた。というか、タイミングを婦長の到着に合わせていた感があった。
夜勤で少しハイ・大声ぎみの中堅ナース、山本が報告する。

「よろしくお願いします。重症部屋6床満床。入院患者40名。昨日呼吸不全が2名入院。退院はなしです。満床」
20代後半のナースの山本の顔色は悪く、脱水状態のようだ。
「AMI(急性心筋梗塞)で緊急カテ。47歳男性。酒巻さん。右冠動脈の血栓で、stent挿入。以後6時間毎の心電図ではST低下持続」

みなふとモニターを一瞥。

「不整脈はなし。絶対安静で酸素は2リットル酸素飽和度100%スワンガンツカテーテルでモニタリング今日アウトプットを早朝そくて・・」
山本の肩を、主任のフミが叩く。
「焦るな焦るな。要点だけさくっと!」
「は、はい。カテのあとが大変で。不穏が強くて」

ミチルは重症板・指示すべてを舐めるように見回した。
「不穏時指示。これの効果は?この記録ではイマイチみたいね」
「そうなんですよ婦長さん。当直の先生が」
「セレネースの指示だけ?」
「あたしも追加の指示をお願いしたんですが。様子見てって、ただそれだけ・・・」
「昨日の当直は真吾先生ね」

「最近ナマイキよなあ!」近くの50代オークが叫ぶ。オークはあと2人おり、彼らは旧体制派の人間とも呼ばれていた。
真田病院が以前<草波病院>だったころ、もう何年も勤務していた屈強のナースたちだ。しかしモラル・仕事内容にはかなり問題があった。

「婦長。アンタがちゃんと言わないと!」オークの大奥がミチルを睨む。
「は、はい。わかりました」
「まあアンタが言うてもなあ・・・」

ミチルは少し傷ついた。しかし朝の事故のことが気になってしようがない。

「すみません。今度こそドクターたちには厳しく私から・・・」

山本はキョロキョロ見回し、続けた。
「もう1人の入院はこれも重症部屋。74歳男性。肥大型心筋症」
「74?もうええんちゃうの」
大奥がまたぼやいた。婦長もかなり気になってはいたが、オークらはかなり年長でもと先輩。説教までする自信はない。
争えば人間関係が崩れる。リーダーは常に雰囲気をコントロールすべきだと教わってきた。

「波多野じいさんは、再入院して6日目。肺炎は改善したんですが<いつになったら帰れるのか。主治医を呼べ>と」
「ユウキも、はよ帰らせよな!」大奥がまたチャチャ入れる。
「今、呼吸器のついているASRの患者さん。昨日呼吸が浅促性で暴れているところを患者さんの巣鴨さんが発見しまして。行ったらファイティング」

入院患者に病状を指摘されるほど、情けないものはない。

「観察ではどうだったの?定期の観察では」ミチルは腕組みして聞く。
「夜間の部屋廻りのときは、ふつうでした」
「ふつう?ふつうって・・あたしが聞いてるのは」
「スヤスヤと眠られてました」
「でも呼吸器がついてるんだから。バイタル的な変化はないかとかそういう表現で」
「SpO2は変わりなかったし」
「なら呼吸回数だとか、気道内圧はどうだったのか。それらに常に配慮していたかどうかが問題なのよ」
「はい・・・すみません」
「<わしに謝るな!患者に謝れ!>わはは!」そう言ったのはオークたちだった。

ミチルはやれやれと頭を抱えた。

「それにしても。巣鴨さんのような入院患者さんに指摘されるっていうのはとっても恥ずかしいことなのよ」
「はい・・」夜勤の山本らナース2人は歯を喰いしばった。
「でも人手が少なかったら、やむを得なかった点もあると思う」

ミチルの、この蛇足っぽいフォローには賛否両論があった。
山本は不服そうだった。

「婦長さん。どうか2人勤務を3人体制に・・・」
「事務との交渉は続けるわ。でも今回のことは反省して」
「はい」

オークらは山本に<せんでええせんでええ>ポーズをとっていた。
ミチルもうすうす気づいているが、知らないふりでガマンした。

事務長が焦った表情で入ってきた。
「ミチ・・・ル先生!」
「あたしは先生じゃありません」
「すまない。だ、大丈夫か?」
「申し送り中なので!」

事務長の言葉を受け、あたりは騒がしくなってきた。
オークらはヒソヒソ声で集まりだした。

ミチルは事務長に<さがれ!>と目配せした。

「え?あ、ああ。そうだったな・・すまない」
事務長はサッと後ろに下がった。

「ちょうどよかったわ。事務長」ミチルは一歩歩み寄った。
「なんだ?」
「満床、重症でみんなヘトヘトなんです。夜勤の人数を2人にしたのは私達的には・・・」
「失敗?」
「そうよ!」
「ああ。ああ知ってる。大変だろな。僕だって好きでそうしたわけでは」
「経営者が決めたにしても、事務長にも責任があると思うし」
「だが代表者会議で決まったことだ。1ヶ月前」
「あ、あの時は・・・」

たしかにそれは、詰所が平和なときだった。重症患者が途切れた時期で平和ムードがあった。
総婦長が<があ>と流れに任せオーケーしてしまったのだ。

「ミチル婦長。まさか総婦長の責任にしようって」事務長は思わず言葉で殴りこんだ。
「えっ?なにそれ!ひどい!」
婦長は困惑した。

「言い過ぎた。僕のせいだ。いいよみんな。僕のせいで。経営者にはまた説得してみるから」
「ホンマに説得する気、あんのか!ボケ!」オークの1人(中奥)が叫ぶ。
「婦長。分かってくれ。とりあえず無事でよかった」

事務長はそのまま帰っていった。

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