ドカン!とトイレのドアを閉めた。

「はい!もしもし!はあはあ」
『今日の・・事故の者ですけど』

無愛想で冷淡な声の持ち主は他でもない、朝の事故のオバサンだった。
連絡先の交換(携帯電話番号)は行ってはいたが、早速かかってきた。

「あ!あ!どど、どうも!」
場所をわきまえる余裕も無く、ミチルは大声で、しかも深々と礼をした。
「おお、お体のほうは!びょびょ、病院は!」

「病院はここでっせ〜。へへへ」
外で誰か、チョロチョロと小をしている。声から察すると大部屋の入院患者だ。
「ボケとんちゃいまっか〜」

『病院。行ってきたけど』
「レントゲンの所見は・・?」ついこんな聞き方になった。
『なんであたしが説明をするの?』
「そそ、そうでした」
『けっこう長いことかかるみたいやな・・あたた』
「だ、大丈夫ですか?」

「だいじょうぶですかぁ〜」
小をしている男は、まだ続けているようだ。前立腺が腫大しているのか。
ならばあの患者か・・余計な疑念が頭をよぎった。

「病院で、ケータイ使ってまっせ〜」
小の男はチャックをサッと上げ、からかうように近づいてきた。
「誰か知らんけど、ケータイは使用禁止でっせ〜」

ミチルはハッと気づいた。この患者は、ペースメーカーが入っている。
しかもこちらへ近づいている。壁を隔てたとしても、よほどの距離だった。

「もしもし。あとでまた・・」
『あんな。大阪から京都まで通うとこやねん。タクシー代いるねん』
「タクシー代・・・」
『車はな。さっそく預けてんねんけど。代車もないねんな』
「タクシー代。ええええ。出します出します」
『確かやな。出してくれるわけやな』

小を終えた男は、壁のすぐ外で足踏みしていた。
「おんめえ。大阪から京都やったら、JRか阪急電車があろうがあ!」

『なんて?』
「い、いえいえ。今職場で・・・」
『あんたの職場?キチガイでもおるんかいな?』
「あとで請求をしてくだされば」
『けっこうかかるで。明日戻ってくるから、そのときに連絡して取りにいくわ』
「は、はい・・・」

「ムダなことすんねや!ボケ!」
外の男はいきなり怒り出した。
「オラオラ!出てこんかい!」

電話の切り際、ミチルは鎮圧のため足で壁をけった。

「うわっ!おわっ!」
思ったより物凄い衝撃で、外の男ははじき飛んだ。
「ってて・・・ててえええ。おいコラ!婦長に言うぞ!」
「・・・・・・」

電話を切り、ミチルは黙り込んだ。

「婦長に言うてやな。お前なんかすぐに退院させたるねん!たいいん!」
「・・・・・・」
「ええか。逃げるなよ!おいマツ!」
「ヘイ」

松木という同室の患者が廊下で捕まった。

「おいマツ!検査は呼ばれたかマツ!」
「へへ。胃カメラ前で腹がすいてますわい」
「なんか悪いもん、見つかったりしてな。へへ」
「そんなあ。富田のダンナ。驚かさんといてえな!」

婦長は思い出した。、富田。58歳で狭心症。糖尿病あり。
医師の指示を守らず(間食している疑い)血糖のコントロールがいつも悪い。つまり協力的ではない。
主治医の真吾に早めの退院を呼びかけてはいるが、本人がなかなか同意しない。

富田さんはどうやら・・・婦長の存在を忘れてくれたようだ?

「おいマツ!ここ見張っとけ!」
「ヘイ!」

富田さんにはなんとなく大部屋を仕切っており、何人かがその配下にある。こぞってタバコを吸いにいったり、
集団で無断外出したり。富田さんの影響なのか、何人か<不良化>する患者が増えていた。松木さんも
その典型だ。

マツは廊下から、トイレの入り口をのぞく。
「へえそうか。携帯電話を使ってるのか。ペースメーカー入れた患者さんいるってのに・・・」

婦長は出ようにも出ることがはばかられた。普段周囲に注意していることだ。バレたら始末書は間違いない。
何を思ったか、また携帯を取り出した。

『詰所、外線です』リーダー美野が出た。
「あ、あのあたし」
『婦長さん?え?どうして?』
「シッ!小さな声で!」
『婦長さん。富田さんが今怒鳴り込んできてて・・・入ろうとするんです』
「詰所内に・・?」
『こわいです。助けてください!』

確かに富田の大声が・・・受話器、廊下からシンクロして聞こえる。

「美野さん。まま、松木さんはカメラへ?」
『ええっ?まだ呼ばれてませんけど?』
「急いで行かせて!」
『それはまたあとで』
「今すぐ!」
『はあっ?』

「お。なんか言いよんな!」
松木が近づいてきた。入院したときは善良そうな人だったが、富田さんにどこか毒されたのか。
「おーい!もしもし!」
「・・・・・」ミチルは押し黙った。神に祈った。

<神様。事故まで起こして、これ以上私を苦しめるのですか。エロイムエッサイム・・・!>

「こらああ!」大奥オークの声が轟いた。
「ひっ?」松木は飛び上がった。
「さっさと検査、行かんかい!」
「も、もう呼ばれたんかいね?」
「さあさ!こっちこっち!」
「うわあ!」

松木さんはズルズルと引っ張られていき、やがて声は消えていった。

「ハッ・・・!」
そろ〜とドアを開け、婦長は気を取り直し・・・悠々とトイレから出てきた。
廊下に出ると、自発的に歩行している40代女性に出くわした。

「おはようございます。婦長さん」
「うう!うん!はい!」
「?」
「どど、どう?」
「どうって・・・」
「狭心症で少しずつリハビリでしたよね?」
「おかげさまで。よくしてもらいまして・・・」
「いえいえ!そんなことないですわよ!私らもまだまだで!」婦長のテンションは高かった。
「いやいや。かていてる(カテーテル)してもろうた先生に、やで」
「・・・・・」

冷静になり、婦長は勇み足で詰所に戻った。
ちょうど大奥によって、富田さんが強制送還されるところだった。

「いたた!首、つかまんといてえな!」
「だったら勝手に入るな!」大奥は首根っこをつかんで、そのまま廊下へいっしょに出た。
「婦長さん!なんとか言うてえな!」

リーダー美野が婦長の横でささやく。
「婦長さん。あの看護師さん。いいんですか・・・」
「あ、あれはやりすぎね」
「注意しなくていいんですか」
「あとでしとくわ」

オークに妙な借りができ、ここで注意するのは気まずかった。

「ところで婦長さん。どこからだったんですか?」
「い、1階。内線が全部使われてて」
「それでわざわざ外線を?」
「て、テレホンカード余ってたしね」
「ふーん・・・」

美野は首をかしげ、まあいっかと姿勢を正した。

「トイレで携帯話している人がいるらしいです。富田さんが言うには」
「そ、それはいけないわね」
「見てきましょうか?」

すると大奥が戻ってきた。
「トイレ!誰もいない!まったく人騒がせな!富田のオッサンの作り話か?」
「あとは私がしとくわ!」思わずミチルは叫んだ。
「へっ?しとく?なにを?」
「だいたいの予想はつくので」
「だ、だれよ?」
「そこはまあ。いろいろあるの」
「フ−ン。それにしても富田のオッサン。自己中心やね」

ピクンと婦長は言葉に反応した。

「じこ?」
「じこ・・自己中心やねって」オークは意味不明で戸惑った。
「ああ。そういう意味ね。はいはい!」
「あんた、どしたの?」
「はいはい。以上!」

うっとうしくなり、話をそこで打ち切った。

「美野さん。報告は終わった?」
「シロー先生がもう来ます」
「さ!ドンマイドンマイ!がんばろ!ファイト一発!オロナイン!軟膏軟膏大阪南港!」
「?」
「はっ?じゃないないオロナミン!」

まだ動揺を隠せない婦長だった。

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