準夜勤、深夜勤ともに急遽1人ずつ欠けてしまい、埋め合わせが必要になった。

 しかし誰に頼んでもイエスの返事はない。

 申し送りの時間も刻一刻と近づいている。帰りかけていた事務長も並んで、詰所で悩んでいた。

「田中くん?結核病棟はいけたか?アーハン!」事務長は携帯を閉じた。
「携帯ね。ゴメンゴメン。大丈夫・・だよな?」彼は周囲を見回した。

 婦長は放心状態で立っている。

「婦長。代わりの勤務は重症病棟でなく、他の病棟に頼んだらどうだ?」
「事務長から頼んでくれない?」
「僕?うん。僕ね・・・」

事務長は少し慌てた。勤務が過酷になり、どこの部署からも嫌われている。

「そうだな。総婦長に相談したらどうだ?」
「あの人。仕事してないしボケてるし」
「ったく。そんなヤツをいつまで雇って・・」
「それはアンタでしょ!」

婦長はまたツノが生えてきて、半径1メートル以内は誰も立ち入らなくなった。
ただオークら3人組は嬉しそうに座っている。

「ねえ!なんとかしてよ!」婦長は事務長に食ってかかった。
「うーん・・・」
「ねえ!ちょっと!」
「うーん・・・」
「どうしたら!」
「いいのかな・・・」
「あたしだって、帰っていろいろすることあるの!」
「家族の、世話・・・?」

事務長はとぼけた。婦長は帰ってからも両親の食事、洗濯、入浴介助などの仕事が待っている。
過酷な勤務はいずれにしても続くのだ。

「お父さんは、ご飯炊くことしかできないし!」
「それだけでもすごいよ。はっは」
「ねえ!どうなるの!ねえ!」

事務長は時計を見た。
「今度こそ、出発しなきゃな・・・」
「えっ?逃げる?」
「いやいや。用事があるんだ。どうしても」
「あたしはどうなるの?」
「ど、どうって・・・それは臨機応変に・・・」
すると、1人カバンを担いだオバサンが私服で1人詰所に入ってきた。寝ぼけ眼で太ったオバサンは、ズッシズッシと控え室へ入っていった。

オバサンナースの中野は着替えながら、詰所のテーブル上の重症板を眺めた。
「ほげえ。満床だわね。ふげえ!あれ?ペアのナースは?」
「それがね。中野さん」
婦長は説明した。

「ほげ?休んで出られない?」
「そうなのよ。事務長に代わりを頼んでいるんだけど・・・」
「そしたら、婦長さんがせにゃいかんね!」
「な。なんであたしが・・・!」
「ヘッヘッヘ!ジョウダンジョウダン!カアッ!」

中野はたまった痰をゴミ箱に吐いた。

婦長は周囲を見回した・・が、事務長はいない。
「あ・・あいつ!あのクソが!」
「婦長さん・・・」リーダー美野は下品な言葉に圧倒された。

「外出した巣鴨さんですが。婦長さん!」澪が報告。
「戻ってきたわよね?」
「いえ。行方不明です」
「ええっ・・・?」

動揺隠せないまま、申し送りの時間に突入した。4時半。

中野は尻をボリボリ掻きながら、テーブル中央に立った。その横に、婦長が並ぶ。
向かいに今日の日勤ナース6名。

婦長は内線で電話している。
「お父さん?」
『ミチルか?今日のオカズは?』
「今日は悪いけど。どうしても・・」
『昨日は肉やったから。よかったら魚にしてくれ』
「どうしても帰れないのよ」
『それと、もう米が減ってきとるぞ。大丈夫なんか?』
「お母さんにも伝えて」
『魚にするってことか?』

婦長は手で顔を覆い・・・また放して、一瞬押し黙った。

「なあ!なあ聞いとんか!」いきなり表情が鬼のように豹変した。
『わ。びっくりした』
「ホントは聞こえてるのと違うんか?違う?違うやろ!」
『うん。聞こえる』
「なら聞けや!いつまでたってもメシはまだかメシはまだか!そればっかり・・・!」

婦長の腹に怒りが増幅されていく。周囲は青ざめた。
婦長がこんなに怒るのは、実に半年ぶりなのだ。

「いつまでも娘が面倒見てくれると思ったらな!間違いやで!」

オークら3人さえ数歩退いた。まじまじと見る彼らに婦長の目が合った。

「なに!なに!」婦長は受話器を外した。
「い、いや・・・」大奥は目を逸らした。
「だいたいアンタがあかんやろ!アンタが!」婦長は池田のメガネを傷つけた中奥に当り散らした。

「アンタがわざとあんなことするからやで!」
「あんなこと?」大奥は眉をしかめた。
「とぼけてるやろ!あんたも!」
「な、何だろか・・」

婦長は受話器を再び密着させ、小奥を睨んだ。
「それと!アンタもやで!」
「ひぃ・・」小奥の頬が両方ともピクピク痙攣した。

「お父さん。ねえ分かった?」
『ふりかけにしとく』
「なんや。やれるやないか。風呂もやっときや!」

ミチルはハアハアと息切れしながら受話器を置いた。

「ハア・・・まったくドイツもコイツも・・・!」
「(一同)・・・・・・・・・・」
「役立たずが・・・!」

矢のような言葉がリーダーの胸に鋭く刺さり、彼女は少し泣きかけた。

「泣く!ほらすぐそうやって泣く!」婦長は日勤リーダーを正面視した。
「役立たずですみません・・・」
「フン。そう気づいてるだけ、マシなんとちがう?」
婦長はクールに答えた。

婦長の横、中野おばさんナースがフムフムと看護記録を読んでいる。
「みんな固まって。どうしたんかいね?」
「今日は覚悟がいるで!」

中野は少し眉をしかめ、婦長を見つめた。

「何!その表情は何!」
「・・・・・・」
「眉間にシワ寄せて!」
「・・・・・・」
「三田村邦彦の奥さんみたいに!」
「・・・・・・」

中野は少し間をおいて、ニコッと答えた。
「あたし、耳が遠いですねん」
彼女はゆっくりと補聴器を取り出し、右耳にかけた。

「おおおお。世界が変わる!世界が変わる!」
どうやら聞こえてきたようだ。

「何も聞こえてなかったの?」婦長は不服そうだった。
「ふんにゃ!いったん外してた!」
「新人は休みで・・」
「それは知っとるがな。何度も老人みたいに聞くんやな」
「なっ・・・?」

中野は何度か頷いた。

「ふーん。じゃあ、婦長さんは久しぶりの夜勤っちゅうわけやな?」
「そうよ。お手柔らかに!」
「こっちも遠慮、せんからな」一瞬ボソッと呟く。
「えっ!」
「さてと、この人は、フンフン・・・」

意外にも、上手(うわて)な人物かもしれない。

婦長はリーダーを正面視。

「さ!さっさと申し送りを!日が暮れるわよ!クレクレククレ!ヒガクレル!」
「は、はい・・・うう」

 さっきから踏み出したかったリーダーは、やっとの思いで申し送りを開始した。

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