詰所で検査伝票をしげしげと見ていたところ、ナースが1人入ってきた。

「医長先生」
「なに?」
「今、お時間ありますか?」
「ないけど、ある」
「こちらへ」
「?」

連れられていくと、そこは4人部屋。カーテンがかかっている右奥があやしい。
「何が?」

ナースと僕はカーテンの向こうに入った。

「あれ?医長?」慎吾だ。IVHを頸部より入れている途中。と思われる。
黄疸で入院の48歳女性。胆道系腫瘍の疑い。

患者本人は・・・布で顔が見えない。
「も・・・もう終わりましたか」
「いや、まだだよ」慎吾は患者の右頸部を圧迫している。

「慎吾。どうした・・入らないのか?」
「いや、さっき入りかけたんだがな・・・」

近くの座り込んだナースは、しかめっ面で首を横に振る。

「慎吾。オレがしようか?」
「いや、俺はトシキ先生を呼んだんだけどな」
「トシキはな。今トイレだ多分」
「トイレ・・・大のほう?」

患者に聞こえない程度の小声で喋る。

慎吾はまた穿刺にかかった。
頸部を刺すのは何度目なんだろう・・・。

僕が覗き込むと、慎吾の頭がゴン、とぶつかった。

「医長!痛いよ!」
「す、すまん」

「わたくしも痛うございます」
布の下の患者が呟いた。
「押すのが・・・」

慎吾は手を離し、汗をぬぐった。
「ふー。暑い暑い」
しばらくして、また首を押す。

「も、慎吾。代われ」
「いいって・・・そっか。そこまで言うなら」
慎吾は不服そうに、手袋を左右1つずつ外した。

僕は白衣を脱ぎ、手袋を1つずつはめた。
「慎吾。針を刺して、その向きなんだけど・・・乳頭部めがけたか?」
「ああ」
「頸動脈はここだ。よく触れる。あまり押さえるなよ。血流のこともあるし、迷走神経の圧迫だって」
「さ、はいどうぞ。患者さん待ってますぜ」

こいつめ・・・。

穿刺、ゆっくり引くと黒い血液が戻ってきた。
「よし。これだ」
「あれ?」慎吾は驚いた。
「点滴入れるぞ。用意しなよ」

点滴をつなぎ、滴下。

「問題ないな。糸ちょうだい。止めたら確認の写真」

座り込みナースがやっとため息をついた。
「は〜あ。やっと終わったね!」
布が取られ、患者の顔が見えた。

「どうもありがとうございます」
患者が礼をしたのは慎吾だった。

「え?いやいや!ま、時間はかかりましたがね」
「わたし、太ってるから・・・」
「そんなの関係なしです!うまくいきましたし!」
「ありがとうございます・・・」
患者は横になったまま、深々と礼をした。

僕は去り際、慎吾に聞いた。
「おい。入れたのオレだぞ。せめて慎吾、オレに礼しろよ」
「医長先生流に言おうか」
「?」
「(うなずきながら)以下同文!」
「だる!」

詰所へ。

「シロー。お前はもう終わったか?」
「疲れましたね・・・」
「医局へ戻りたいんだが・・・トシキが帰るまではここにいようか?」
「どうしようかなあ。今日」
「何かあったっけ?」
「医師会館の催しですよ。食事会」
「前座に症例報告がある、例の会か?」
「ユウキ先生は、新医長としての挨拶をしないと!」
「なぬう?聞いてないぞ!」

後ろに事務長が立っていた。
「ははは、どうするどうする?今度は逃げられんぞ!」
「だる・・・行きたくないよ。オレ」
「医長先生、お願いしますよ。医師会館の行事に参加するのは初めてでしょう?」
「オレは会いたくないんだよ。あの人に・・・」

名誉教授のことだ。

「医長先生。当院も医師会に、毎年数百万払ってるんです。その代わりにヨコの関係を築いてくれてる」
「それがメリットかよ・・」
「どこの病院だって、医師会になんか入りたくなんかないんですよ」
「ま、いやがらせ、されるからな・・・」

医師会に入ってないと、何らかの見えない形で村八分にされる。いろんな形でな。

「でも医長先生。名誉教授もクセはありますが、人格者なんですよあれでも」
「あれでも人格者、っていう表現自体が意味不明だな?」
「ホントにね、威張ってなくて欲のない優しい先生なんですよ」
「信者ですか?アンタは」
「今日の会。自己紹介、お願いしますよ!」

僕は言葉を考えた。

「なんて自己紹介しようかな・・マイネーム・・」
「ほらほら、もうウケ狙いはいりませんから!」
「マイネームイズ、グラディエーター」
「ギャグとか禁忌ですよ。なんせ・・<吾輩は>とかそういう連中ですよ」
「・・・吾輩は、医者である!」
「?」
「博士(号)はまだない。アイアム寒!以下同文!」

夕方になってきた。シロー、慎吾は夜診に向けて準備を始めだした。

「トシキはどっか行っていないし、残るはザッキーと俺だけか」
「先生・・・」そのザッキーと廊下でバッタリ会った。
「ザッキー。夜からピシバニール注入だろ」
「いえ。もう始めました。指示はしてます」
「でも夜、家族が来るんだろ?ムンテラ2件」
「夜にムンテラするなんて、うちの師長が勝手に決めたことです!それにムンテラは慎吾先生が代わりに」
「主治医はお前なんだから。主治医がムンテラすべきだって!」

しかも慎吾はまだ一人前とはいえない。

「医長先生。医師会館へは僕、行ってもいいですけど・・」
「医師会館は来なくていいよ」
「名誉教授から、僕宛に相談があるって」

その内容は知っていた。

「ザッキー。それな。俺やトシキも以前相談を受けたんだ」
「興味本位ででも聞こうかなと」
「聞くな聞くな。息子のな。つぶれかけの病院の跡継ぎ話なんだよ!」
「僕の耳で直接聞いてみます」
「あいつらはな。一見甘い話だけ持ちかけて。土方もそうだったろ?なあ!」

僕は必要以上に熱くなっているのに気づき、平常心に戻った。

「でもなザッキー。重症患者のムンテラありだろ。終わったら、面倒だけど病院に戻りなよ」
「慎吾先生がやってく・・・」
「なんだよお前。今日変だぞ?そんな重要な用事があるのか?」
「・・・・・」
「なんだよ。俺には言えないのか。慎吾には言えて」

ザッキーはプイッと顔を横に向け、去っていった。

気がつくと、事務長が僕の首を後ろから軽くつかんでいる。

「てて。なんだ?」
「医長先生。ザッキーの優しさも分かってあげてくださいな」
「意味が分からない。あわわ、トシキみたいだったな今!」
「分からなくていいんです。でも彼は優しいんです。本当は」
「でもショックだな。いろいろ隠されるのって嫌いなんだよ。俺」
「さ、そろそろ行く準備しましょうか」

事務長はエレベーターに乗りかけた。
「では、10分後に玄関前へ」
「俺、自分の車で行くから」
「ザッキー先生と研修生2名は私が乗せますんで」
「あっそ。勝手に」

ドアは閉まった。僕は階段を上がって医局へ。

ゆっくりドアを開けたら・・・トシキはいない。
机の上には荷物あり。

「よし!今のうちに!」
ザザザッ!とソファー近くの荷物を片付ける。今日は医長室を利用しておらず、荷物はすべてここ。
「ダッシュダッシュ!ババンバン!おっと!」
医師会館で公衆の面前でもあるから・・・珍しくネクタイを、と。

「よし!」
荷物を抱え、サンダルで廊下へダッシュ。裏玄関で靴に履き替え。

キュキュン、とGTRのロックが解除、ドサンと乗り込みミラー調整。

「なんだよ。どいつもこいつも・・・でも一部は俺のせいかもな」
バックミラーに映った自分の顔。髪をペタペタ整える。
「名誉教授なあ。・・・悪いやつほどよく生きる、ってのはホントウだな。なあにが人格者だ」

ドルンドルン・・とエンジンが暖まるのを待つ。

「だったらオッサン。退職金、全部募金してくれよ!ボッキーン!アイアムサム!」

ナビを<医師会館>にセット。MDの曲は当時流行の<小柳ゆき>。

エンジンがガオオン、と唸り、車は駐車場を駆け抜けた。事務長の車が続く。

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