ようやく立ち上がり、白衣の埃は払った。
股はやや乾いてきた。

「ったく。あいつらときたら最後まで・・・!」

退職祝いに何かくれ、とは言わないが。
しかしスタッフから何ももらえないのも、さびしい。

「先生。いつ先生がここに戻らないと言いました?」事務長が携帯をパタンと閉じてやってきた。今日は茶スーツだ。
「忙しそうだったな。今日は」
「いえいえ。先生に朗報です」
「おっ?何か知らんが、待ってました!」
「トシキ先生は、明日来ます」
「だる・・・なんだそれか」
「なんだそれって・・先生ひどい。ようやく来てくださるんですよ?」
「そりゃまあ、オレのせいかもしれないが、そう簡単に病院を休んでいいのか?」

人のことは言えないか・・・・・ハハ(コナン、汗)。

事務長はチラ、チラとメールを気にする。
「ふむふむ・・・」
「なあ。いろいろと謎が多いんだが。トシキが何、<調整中>とか・・なんのだ?」
「人生、謎だらけですよ。私だって先生が未だに」
「そうか?オレはオープンレンジだよ。いつも」
「ユウキ先生、いつぞや言ってたじゃないですか。<人の心は分からない>」
「荷物の手配は、クロネコに頼んだから」
「ちゃんとダンボールに入れてくださいよ!エロ本とか!」
「ないってそんなの!」

トランクを閉める。ケーキのカスなどが散乱している。

「スレッガーさん。きたね。きたねよ!ところで事務長」
「はい?」
「女って、ホント分からんな・・・」
「脱がせばいくつか」
「だる・・・ま、いい。今日の朝な、詰所で」
「知ってます知ってます。澪ナースが、怒って申し送りを中断したんでしょ?」
「早いな。情報が」
「先生が遅いだけですって!あ。すんません」

事務長はメールを読み・・打ち返した。

「あ。どもども」
「でな・・・そのナースとは月曜日の時点では、仲は良かったんだよ。ダンナの愚痴まで聞いて。それが突然・・・」
「そんなもんでしょ先生。いつまでも熱くないって。いつまでたっても腕組みされたら、正直うっとうしいですしね」
「なんか、次元が違うんだよな・・・」
「ま。たぶん先生がね。どこかでホラ。冷たくしたんじゃありません?」
「俺が?覚え、ないな・・・」
「何か断ったとか」
「そういや、飲みに行こうとか言われたな・・」
「えっ?えっ?」
事務長は血相を変えた。

「ま、まさか先生、そこでことわ・・」
「断ったよ。飲み会はみんなで行くものだしな。というか彼女はご主人と別居状態・・・」
「このバカ!このバカ!」
事務長はネコパンチで叩いてきた。

「なんだ?だっておい?」
「あああ!なんでこの男はバカなんだろ!男の風上にもおっけん・・・!」
「そりゃ若い子だったら分かるが。昔と違うぞ。今は付き合うなら結婚が前提で」
「ほお?意外とカタイんですな?」
「相手は人妻だぞ!」
「臆病!」
「ハレンチ学園!」

双方とも、譲らなかった。

外来に戻る。看護士はカンカンだ。

「ちょっと先生!かなりの分、真吾先生に回したっすよ!」
「わりいわりい・・・」

すると真吾がまたサーッ、とイスで後退し覗いてきた。
「こんなに多く、診てたのか?医長」
「午前で50、夜診のあるときもそれくらいが当たり前だ」
「それらを・・俺たちで振り分けるのか?」
「それは事務長らが振り分けてくれる」
「これ以上忙しいのは無理だぞ?」
「引継ぎの後なんて、そんなもんだよ。後任のドクターに大半は回るよ」
「後任はしばらく後みたいだし・・・」
「ま。がんばれ」
「その言葉、やめろよな」

僕は彼に思いっきり近づいた。

「が!ん!ば!れ!」

28歳女性。かなりの痩せ型だ。下を向いている。母親がついてきた。母子家庭だ。
「実は退職になりまして・・」
「びっくりしましたよ。もう・・・」母親は焦っていた。

この女性は・・・何度か夜間に救急で来ていた人だ。ちなみに真田病院は精神科病棟はない。しかし救急を標榜しているわけなので、搬送の要望には応える。

ふだんは精神科を受診、しかしそのかかりつけの病院は夜間救急をしておらず、もしものときは最寄りの病院を受診することになる。
そこで当院に送られてくるわけだが、内容は内服の中毒症状によるものが多かった。

内服は本人が管理しており、母親はそれに<立ち寄れない>状況なのだという。本人がそれ(家族が内服を管理することを)を許さない。
母親は朝から夜遅くまで、娘のために働いている。

明らかに自殺企図のための内服過剰摂取なのだが、ドラマでない限り根本的な解決が難しい。

「ユウキ先生が、入院の翌日には必ず主治医になってくれてたのに・・」
「そうでした・・でも他のメンバーでも大丈夫だと」
「本人も、とても残念だって」
「すみません・・・」無責任な言葉が出た。

「しかし、お母さん。夜間救急を兼ねた総合病院に変えるというのは・・」
「そうなると、遠くなるんです。日ごろの受診するのにここから1時間」
「ダメですか・・・いい病院とかあるんですが」
「そういう話もありました。でも待ち時間が4-5時間とかで」
「うーん・・・」

押し問答のように話は踊る。いくら知識や経験を積んでも、総合的に考えないといけないこともある。

<総合医>という言葉もあるが、それは<全科を総合的にやれる>というより、まず<ものごとを総合的に考えれる>意味だと解釈するべきだ。可能な範囲で何が最善かを、悩む人といっしょに考える力。であれば、いろんな科の知識が必要だなという必然性が自然に生まれる。

医学生だけでなく、今の日本の教育で学ばせておきたいのは、そこだ。苦悩する人(理由は何であれ)とマンツーマンで対峙し、共に調べて議論する。そういう訓練はないか。

しかし
「私は囚人です。どうやったら脱走できるのか」
「反省はしてますか」
「それはもう」
「では、これが鍵です」
「ありがとう。この銃もらっていいですか?」
「どうぞ」
「フリーズ!」

では困るしなあ・・・。

それと、今の教科。<国語><算数><理科><社会><英語>のほかに、<医学>を入れてもいいのではないか。こちらのほうが将来使えるからだ。

外来は途絶えた。昼の1時。両手でイスの両端をガシッとつかみ、立ち上がる。

「これにて閉廷!」

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