時代が進んでも、受験崇拝は変わりません。受験戦争を皮肉るメディアもありますが、勉強することでひょっとしたら偉くなれるかもしれない、という世界は一種<アメリカン・ジュリーム>であるものと今さら考えます。

 ただ、確かに格差社会で説明されるように、その教育の提供そのものが資金不足(塾に行けなかったり)や制度(ゆとり教育)で邪魔されると、伸びるものも伸びなくなってしまいます。

 ところでセンター試験。もうこの歳になると解けません。駄目です。英語の前半くらいはなんとかなるかもしれませんが。

 ただ、あの頃はまだ困難な敵に立ち向かおうという、しぶとさのようなものがありました。それはやはり、問題が解けたときの充実感あってのものでしょう。

 このような仕事をしていて充実感を感じることがあるとすれば、患者さんの病気が治ったときや感謝されたりしたときです。充実感を求めるために仕事するわけではありませんが、そこは人間。正しいと認められたいし、自分も報われたいのです。

 病気が治ったのは、それ相応に<自分が>努力して導き出せた結果なのだ・・・と思ってる医者は危険です(話しぶりですぐ分かる)。しかし受験地獄の延長で、どうしてもそういう発想になりがちなのは事実。

 かつてのマスター・オーベンは、以下が口ぐせでした。

「病気が治ったのはあくまでも患者さん側の免疫によるものであって、僕らはそれを補助するのに手を貸しただけのこと」(手帳より抜粋)

 そういう気持ちを大切にしたいのですが・・・。

「おいユウキ。お前が今つきあっている女は、俺の紹介があってこそ。よって俺のおかげ。だから今度、その友達紹介してえな!」とつきまとう同僚。

 いずれにしても、いい<仲介人>に出会うことが大事です。

 

 
 

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