ガタタン、ガタタンと天井の揺れは最高潮に達し、ついにその天井がドカンとへこんだ。強い高振動とともに、車の両側、フロントすべてのガラスが・・大粒で中へ上へ、下へと飛散していく。

あっという間に、ガラスの破片が床に散らばっていった。後方席、ストレッチャーのふとんの上にも無造作にバラバラと弾き落とされた。

いっそう大きくなったガタタン、ガタタンという音はやがて・・・やっと消えうせた。

「ふ、ふうう・・・」

ストレッチャーのふとんがハラリと開いた。と思うと、僕と田中君が寄り添って震えていた。
「はああ。死ぬ死ぬ!死んだか?」

 起きて見回すと、どうやら死んではないようだ。
「おい。もう行ったぞ。行った行った!」

割れた後部席ガラスの向こう、自転車のじいさんがスローでスルーする。
「った・・・よう・・・はぁ」
とにかく呆れていた。

昏睡みたいに縮こまった事務員を起こし、僕はゆっくりと足を下に降ろした。

「おいおい。今のうちに移動させろよ。早く早く!」
「はあい・・先生がやってよ」
「なぬ?」
「先生も運転してくださいよ。僕ばっかり」
「・・・・・」
「はいはいはい!しますしますって!かったよもう!」

 事務員はやけになり、ガチャリガチャリと床を踏み越えていった。
「た!」

思わず彼は、運転席の椅子から手を離した。

「血や血!ってえ〜!ボケ!」

どうやら振り払う時に、手を切ったようだ。
僕は後部座席のガラスを足で振り払い、なんとか座った。

「待てよ。住所はこの近くだから・・・やっぱ俺、降りるわ」
「だめだめ!アカンよ先生!」
「そっか?」
「もしそれで見失ったら、僕の責任になるし」
「・・・・・」

 彼はついキーを右に廻したが、ギーと不快音が鳴った。エンジンはすでに入ってる。

「いけますね。はい、はい」
「おいおい!バックしろバック!」
「いや。行けますよ!このまま行きます!」

 天井がへこんだせいか、車は上をこすらずゆっくり進み始めた。
 ダンダン、ダンダンと上下に揺れる。
 
 暗くなった空を斜めに見上げ、僕は途方に暮れた。

 事務員はいきなりブレーキを踏んだ。
割れ残りのガラスがその拍子でまた飛び散った。

「おい!いきなり止まるな!」
「先生!わかったわかった!はいはいはい!」
「はあ?」
「パンクしてますわ!パンク!」

 降りてみると、確かにタイヤがくにゅっとへしゃげている。

「パンクというより・・・空気圧の低下じゃないか?」

僕はそのまま訪問することとし、外で準備を始めた。
しかし、着ていた白衣は脱いだ。

「医者は、白衣がなければタダの人間・・・」
独り言をいいつつ、バンドの周囲にウエストポーチを巻く。

「しかしここでは、むしろそのほうがいいと見た!」
大型のナップサックに、DC。簡易の心電図は・・・手持ちバッグ。

座った僕の後ろのナップサックに、事務員がさらに補充。

「先生の予想では、患者さんは不整脈ですか」
「てんかん持ちとかもありうるけど」
「注射類は?」
「ウエストポーチにセルシン、入ってる・・・・おい。入れすぎとちがうか?」
「いやその。まだ余裕ありそうだから。これでよし!」
「よっと!」

腰に力を入れて、思いっきり立ち上がった。
「っしょっと!こらしょ!うわ?」

たちまちバランスを崩し、右に大きく傾いた。

「うわ〜〜〜〜!」
「ちょ、ちょっとしっかりしてよ先生!」

事務員は支えず、僕はそのまま右にこけた。

「てえっ!今の音!」
何かが壊れた音がした。

事務員は右手にあったバックのファスナーを開けた。

「あああ。こーわした!」
「なに?」

ポータブル心電図の非常電源を入れると、液晶画面がインクで潰れたように染まっている。

「どある!これじゃアカンわ!」
「先生。知りませんよ。私は、知りませんよ!」
「お前が、きちんと支えてくれんから!」
「ええっ?わかりませんよ医療のことは!医療はお医者さんが!」
「じゃかあし!お前も共犯だ!」

言いすぎたせいか、事務員はハーハーと息が荒くなってきた。

僕は車から紙袋を持ってきた。
「はいよ。いつもの」
「ヒー。ヒー。医者にころさ、ヒー」
「も、しゃべるな。分かったから」

 目の前、信号なし交差点。両側は細い路地。正面は大通りで工場らしき建物がずらっと向かい合っている。やっと照らせるほどの電灯が、ちらほらと灯っている。

「悪いけど、さっさと訪問して、入院勧めてここ戻るわ。ドクターカー2号に電話しといて。この車じゃ帰れんし」

「ヒー。ヒー。それはちと、ちとヒー」携帯をこれ見よがしに見せようとしている。
「ゴメンゴメン。落ち着いてからでいいよ」
「ホーガーヒーンへヒー!」

まさか、<ところが受信できないんです>という返事をしていたとは思わなかった。

「今は喋るな。じゃ!」

 最小限に減らしたナップサックを背負い、左手にポータブルエコーを持ち上げた。とにかく重い。背中に入れた挿管チューブが、早くも斜めにずれてきた。

 人気のない工場。数軒先に、訪問先の家はある。駐車場を過ぎたところの一軒家だ。

「お。あれだな?」

 2階建ての1階部分に電気がともっている。不思議と、仕事で疲れ切ったサラリーマンの癒される気分だった。

「よいせ、よいせ・・・」

 家の前でドカッと荷物を下ろし、引き戸のガラスを軽く叩いた。呼び鈴はあるが、何者かに中から分解されている。

「こんばんはー!真田病院でーす!」

 何の反応もない。若い男性がいるはずだ。

「くっ・・・?わんばん・・ああちがった。こんばんはー!びょういんでーす!」

 周囲の家々から、小さな窓かドアが開くような音がしてきた。いくつもいくつも。

かなりの視線を感じる。

「くっそ。いないのかよ?宅急便の人は偉いよな・・・おーい!おーい!帰りますよー!だっていないから!」

 周囲にも状況を分からせるため、わざとこう呼んだ。

 横に背の低いオバサンが押し車をひいてやってきた。60代くらいか。

「旅行にいっとりますって!」
「は?」
「旅行で、しばらく帰ってきませんって!あ?」
「う?」
「病院の人?」
「え?ええ」
「白衣、ないやないか?にせもんや!」
「いやいや。で、あなたは・・・本人さんの家族?お母さん?」

 オバサンは押し車を引き戸の前に置いて杖に持ち替えた。

「ホンマなんやろなお兄ちゃん。嘘やったらタダじゃおかへんで!」
「嘘なんか・・・どうして」

 オバサンは、僕の足元の荷物に注目した。

「あ。これですか?これは救命の道具で。念のため」
「息子はな。何回言うても病院に行かん。ホント困っとる!」
「ええ。その息子さんは」
「何回も倒れますねん。ほら、そこにシミがあるやろ」

道路の真ん中、5センチほどの小さな水たまりが反射している。

「これが・・?」
「こけて、そこで頭打った」
「まさか?」
「血やでそれ!血!」

隣人とおぼしき長身の男性が、ジャージで座り込んでいる。
「トメさん。これ、血ちゃうで。水たまりやで」
くくく、と年齢不詳のすすけた男性は不敵に笑いだした。

「で・・・お前。ホントに医者なんやろな?」
凄みのある声だ。

「ええ。そうです。だからこうして」
ウエストポーチから、焦って道具を見せた。
「注射器とか。注射液に」

「おうおう。ヤバいんちゃうか?トメさん。逃げたほうがええんちゃうか?こいつ、クスリ持ってるで!」
「いや、クスリじゃないです。でもクスリか」
「ま。ええわ。おれ、見張っといたるから」

座り込んだまま、ジャージの男性は僕を睨みつけた。

「長男はな。しょっちゅう倒れるっておたくの病院にかかったわけや。草波病院のときやな。知らんやろ?そんときの医者じゃないわなアンタ」
「ええ」

「わしも2回くらい足運んだんや。そしたらそこの医者ときたら・・・」
「なんと?」

「すいちょうけん」

とは言ってない言ってない。男は続けた。

「そこの医者がな。ちょうどアンタくらいの年の誰かや。当直みたいやったわ。ま、それはどうでもええ。するとな、そいつがな。<脈もフツーやし、脳も正常です!>帰ってください!で終わりや」
「終わり、っていうのは・・・」

「帰れっていうことやアホンダラ。しつこく聞いたらな、そこの事務員が出てきてな。<近頃、仮病で入院せがんでくる患者がおって困る>って説教しだしたんや!」
「仮病って、ひどいな・・・」

「わし思ったであのとき。火、つけたろうかって。そのときは何でもなくとも、何かあったのは事実や。だったら、いきなり倒れたりするか!」

 要するに、まあ一部予測も入るが。この患者は当時うちの病院のブラックリストに入っていたのかもしれない。例えばそれまで何度か受診したけど、受診の時間帯や態度などに問題があって・・・などなど。

 いつの間にか家にこもっていたオバサンが、また出てきた。何か薄長い冊子を持っている。

「これやこれ。近くの診療所でも<どうもないって>」
「心電図じゃないですか・・・でも脈はそろってますね?・・・う?ああ!」

驚きで、手から落ちていく見開き心電図・・・。

「ま、まさかそんな・・・!」

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