ES-MEN 23
2007年8月29日満月に近い夜中。僕は当直中。
真田第二病院の山の上から、山道を下へ走る人間の姿があった。
「はあ、はあ、はあ」
勾配が急になってきたせいもあるが、気が急いたせいか一段と加速した。
女性はついに悲鳴らしき言葉をあげた。
「うわあ!うわあ!ごめんよおお!ごめん!」
背中に小さな子供を背負って、たすきがけの中年女性は病院の横の階段を駆け下り・・・正面へと回った。
ビー!ビー!という呼び鈴を聞き、事務当直はゆっくり起きた。事務的な町の元役人が担当。
「どうされました?」マイクに向かう。
<開けてください!開けてください!>
「どなたさまですか?お名前を」
<先生よんでください!よんでください!>
「かんじゃさんの、おなまえを。初診ですか?」
<そうです!しょしん!はやく!>
「どなたを?家族の方?」
<男の子!>
リモコンでロックを外したとき、やっと気づいた。
「オトコノコ・・・?ってことは?」
開いたとたん、ドカンと母親が走ってきた。帯で子供が背中に結わえてある。顔が真っ赤だ。
「はやくう!はやくう!」
「子ども?」
「そうや子供や!はよみてくれへんのか!病院だろが!」
怒りでパニクった母親は紐をほどき、活気を失った子供を待合に寝かせた。
テントの中、PHSが鳴る。
「は・・はい。もしもし」
<事務当直です。患者さんがお見えになっておりますです>
「どんな?」
<それがね。2歳くらいの子供で>
僕はガバッと起きた。
「しょ!小児科はやってないぞうちは!」
<母親がね、強引に入ってきてそんで>
「断われよ!無理だってば!よそ、行ってもらえ!」
『はよせんかー!』
電話口でなく、下のバリアフリーから声が通って聞こえた。ガラスが振動。
2階正面窓から見下ろす。
PHSをおそるおそる持ち上げる。
「ちょ・・・ちょっと待てよ。待てよ!小児なんて経験ない!」
『そういいましても・・受付に参られているので』
待ってても解決しないので、とりあえず近くの滑り台へ走る。
スル〜、と滑り台を降りて、砂場に着地。ゆっくり歩く。
診察室の奥、電気で明るい。不安は的中した。
「ああ、ああ。大丈夫やないかね」老ナースが、聴診器を外している。泣きわめく子供。見るからに高熱だろう。
「もうねもうね!さっきはもどしてもどして・・・死ぬんやないかと!意外といけるかもな!はっ!おお先生来た来た!来たでぇ〜!もう大丈夫やでぇ〜!」
母親は寝巻のまま両足をドスドスと動揺していた。僕はとりあえず・・・聴診した。しかし子供の泣き声で聞き取れない。
「い!いきなりやったらおどろくんちゃうんか!」母親は目くじら立てた。
「す、すんませ・・・」脈をとる。首を触ろうとするが、子供は巧みに両手で振り払ってくる。
「ぎああ!ぎああ!」
「ちょっと、ちょっといいですかあ!あ。ごめん」
「げああ!げああ!うぷっ」
「うだっ!」
噴水のような吐物が僕の胸に飛び散った。
母親は僕の背中をたたいた。
「点滴とかほら!せないかんのとちがうんか!ふぬけが!」
「え、ええ!てて、点滴!」
「アンタがするんやろおが!医者やろがあ!」
「やるってよ・・やるってよ・・!」
泣きそうになりながら、駆血帯を巻く。
しかし、当直老ナースには母親としての包容力がある。どことなく余裕。これが女性特有の優しさなのか。さっきは女を見下してはいたが・・・。
ルート確保しようとするが、失敗。十分、抑えていなかった。
「す、すんません!血管が細くて・・脱水もあって細くて」
「ぎああ!ぎああ!」子供は今度は足でけってきた。
見かねたナースが、家族をなだめて抑えを指示した。
泣きがちょっとおさまったとこで、ナースは翼状針をピンと上に向けた。
「ぎあ!ふげ・・・」
点滴が入ってみなの手が離れ、子供はやがて泣きやんだ。
僕は医局から持ってきてもらった医学書をあちこち飛ばし読んだ。
「小児科のページ、ページ・・・!」
ある程度頭に叩き込んで、子供に近づくが・・そこは母親のオーラが遮った。
「この先生、ちと頼んないなあ!」
「う、うう・・・!」
研修医のとき以来の屈辱だった。
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