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2009年6月30日 連載

 夜になっても、桜田はフィルム庫から出てこなかった。ここは空調が絶えずきいている。このようにして、フィルムが厳重に保存されている。フィルム缶に、DVDのRAMなど多数のメディアが時代を経て混在。

 桜田は携帯をカチカチ押しながら、隅にうずくまっていた。髪の手入れも最近していなく、映った鏡がまた彼女を虚しくさせた。

「どっか・・どっかないの!」

 ダイヤルがつながる。

<◎◎病院です>
「あ、あの。総務へお願いします」
<お待ちください>

しばらく音声。

<総務です>
「あ、あの・・・医師。医師は・・足りてますかぼ、募集があってそれで」
<え、ええ!>

声色が急に変わった。

<ぜひお聞かせねがいますか!>
「あたし、もうついていけなくて・・」
<先生!ぜひ先生のお話を伺いたくて!いやあ、ちょうどよかった!>
「もう、生きていけなくて・・」

向こうは興奮を隠せない。

<先生なんでしたらあっ・・?いい、院長に変わります!>
「大事にしてくれるなら、どこでも・・・」
<院長です>声の主が低音に変わった。
「・・・あっ?」

女医は手首を掴まれた。彼女にはめっぽう強い力だった。

「・・・・・」
「生きないなんて言ったら・・・」大平の顔が数センチ前にあった。それなりに男前ではあった。

「・・・・・」
「俺がほっとかない」
「あ、いや」彼女はわざとらしく唇を逸らした。
「なあ」
「ちょっ」
「なあ・・・」

彼女は観念したどころか、落ち着きはらったように正視した。かえって大平が目をそむけそうになる。

「ん・・・」
 彼女の口が相手の口に埋めたまま前のめりになり、大平は目を閉じてうっとりしながら後ろにずり退がった。

「とと!と!」大平の後ろ、ドカッと上からフィルムの箱がまとめて落ちてきた。

大平の数センチ視線の下、彼女の眼が輝いた。
「ご、ごめん・・・」
「いい。いいよ」

 今度は大平がまっすぐ迫り、勢いで歯と歯がぶつかった。だが誰も指摘しない。
あとは、止まりそうなほど激しい吸気と呼気が、延々と繰り返されていく。呼気が吸気を、吸気が呼気を追いかける。

 パチン!と彼女の白衣上部の・・・ボタンが跳ね跳んだ。

 お互いの寂しさで抑えていたものが、爆発した瞬間だった。

<もしもし?先生!もしもし?>

 受話器の声にこそ、節操が感じられなかった。




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