夕暮れ。バカ井は、塾の教壇でひとり立ち尽くしていた。
生徒は1人もおらず、みな辞めた。と聞かされたのはつい先ほどのこと。

バブル時代でもあり、そこまでの苦情もなかった。

「この2年間・・・」

 バカ井が黙ったので言うが、この2年間つまり教養学部が今、風のように過ぎ去ろうとしている。
 アルバイトに明け暮れ、役にも立たない授業にほとんど出ず、ボランティアに精を出した。
そうだ。先日のあの1件は忘れられない。

バカ井は内線で友人に電話した。
「バカ井です。適当先輩ですか?」
「ただ今留守に・・・すまんすまん、冗談だ。お互い、無事専門課程に上がれたな」
「ええ。おめでとうございます!」
「留年して同い年になったんだから、もう先輩っていうのはやめろよな?」
「はい先輩!」
「(ガチャ)」
「あれっ?」

実はデリケートな先輩を、またもや傷つけた。

自家用車に乗るべく外に出たバカ井を待ち構えていたのは・・・

「よぉ先生」
「コナン坊!塾にどうして来てくれないんだ?」
「だってよぉ」私服で雰囲気が遊び風。
「?」
「高校卒業、しちゃったんだぜ。しかも飛び級で」
「え?」
「おたくの医学部さ。へっへ」
「それは・・・?おめでとう!」

しかしコナン坊は実は不満があった。

「まぁよ。本当は帝大に行きたかったんだけど。安全パイの地元を選んだわけさ。医学部でも3流・4流があるからね」
「うう、うるさいな!」
バカ井はこれからというときもあって、プライドが人一倍傷ついた。

「でも、あんたの姿を見てうらやましくなってさ」
「僕の・・・姿?」いろんなポーズを取るが、分からない。

「大人になっても、依然として大人に抵抗し続ける、その無邪気ささ」
「む、無邪気ってその何かいやだな。子供みたいで嫌だな」
「そうでもないぜぇ」
「でも大人って何なのかな。エロ本読んでいい許可証だけなのかな」

それを言われるとコナン坊はうろたえた。

「でもよ先生。いや先輩。いつかあんたが就職したら、こっちもお世話になるかもしれないからねぇ」
「て、適当先輩みたいに留年して、同級にならないようにしないとな。しないとな」
「そのうち、そこでも飛び級してやるぜぇ」

そんなの、ないない。

専門課程は、(当時)まず最初の1年の解剖から始まって、生理学・生化学、細菌学なども加わって生物らしくなってくる。
やがて臨床実習となり病院側からのスカウト作戦が始まる。

バカ井は疑問を感じていた。
「道徳の時間って、ないんだな。ないんだな」
「だからよぉ。気付かなかったのかよ。教養学部は、道徳の時間だったんだよ」
「そうか・・・それなのに僕は塾で生徒に講釈たれまくって。家に帰ったらエロ本で」
「でもよぉ・・・」

コナン坊は、街の雑踏を指差した。

「バブルってこの周囲が浮かれてる時代によ。バカ井さん、けっこういい経験したんだと思うぜ」
「け、結局損したんじゃないかな。損したのちがうかな」
「損なんかしてないよ。きっと将来、いいお医者さんになれるよ」

自信ないまま、バカ井は家路へと向かった。
最終回ということもあり、家ではみな集まっている。

シンゴが既に酔っていた。
「あのよ!みな進級できたお祝いによ!ここでもう集まったってわけよ!」
「・・・・・」
「俺たちのおかげで、じいさんが1人助かったんだよ?喜べよ!ま、それだけかなこの2年でよかったことって!あっはは!」

適当先輩もサトミも酔っている。適当先輩もさっきのことは水に流していた。
「バカ井。俺たちはこうして2年進級できた。それを祝ってこそ残りの4年が生きるんだ」
「に、2階級特進で・・・」
「ん?」
「2階級特進だけで。それだけ。あわわ。それだけなのかな?」
「何言ってんだ?」
「こ。このまま僕らは、大人と同じになってくのかな?けっきょくは」

兄がテーブルを拭き掃除しながら答える。
「なら。子供でいればいいんだ」
「えっ?」
「何も大人にならなくていいじゃないか。子供でいるほうが、初心を忘れずにすむだろう?」
「そうか・・・」

バカ井は、トントンと階段を昇っていった。

シンゴはさきほど書店で買ってきた本の束をテーブルに並べた。
「すげえだろ!解剖学!これ1冊3万ほどすんのよ?オールカラーだよ?」

適当は本を読んでいる。
「プラティスマ、プラティスマ。ラテン語で考えろっつーの!」
「ファイヤーフォックスかよ!それにしても自分だけ予習とはな!」

焦ったサトミもノートを読んでいる。
「骨学、もうまとめたわよ!」
「げっ!もう終わったのかよ?」シンゴは慌てた。
「触らせて!」彼女はいきなりシンゴの顔をつかんだ。
「おっとラッキー!キスミープリーズ!」

しかし・・・
「これが下顎神経で、これが・・・!」
「オイオイオレを標本にすんじゃねえよ!」
「ここがソケイ靭帯で」
「いひひ!彼氏じゃないのにいいのかよ?いひひ!」

適当はさらに内科の本をドサッと乗せた。
「オレな。今日でハリソン1冊ガブ読みしてやる!」

バカ井が、いっこうに降りてこない。
兄は少し翳った。

「あいつ・・・ひょっとして今のオレの言葉を気にして」
「うそ!」サトミが悲しんだ。
「子供でいろって・・・大人になるなって」
「それちょっとまずいじゃないの!首でも・・・」

適当は本から目を離した。
「首!やっぱりプラティスマ!だ!みんなどうした?」

みな見合わせ、一斉に階段を駆け上がった。
ダンダンダン!と家が揺れそうになるくらいに。

ふすまがガラッと開けられた。

「(皆)うわああっ!」

そこで寝ていたのは、ベイビーおくるみのカッコしたバカ井だった。
「バブ。バブ。バブ」

「(皆)・・・・・・」

「バブ。バブ。バブ」

彼の心は、遥か向こうの世界へ。
それはもう、2階級特進どころではなかった・・・。







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