信念の失敗例 ⑧ 「重症への付添い」
2013年6月9日 連載 いや、これは誤解を招きそうな言い方だ。重症患者は常に病態が変動するし、1秒後に何か起きるかさえ分からない。医師が患者に張り付く行為は、できそうでなかなかできることではない。
一方、通常・・・経験が乏しい研修医はその低能力の分、患者に張り付くことが勧められる。しかし、今はそんな風潮はない。
低能力だと低能力なりに、アイテム的な考えなく知恵を絞るという訓練が身に着く。訓練が身に着くのであって、能力が身に着くのではない。この訓練がいかにその後に役立つかは各個人のその後に生かされる。
たとえば「俺は何度も病院で徹夜した」とかあっても、その事実だけなら単に診療を独占しただけであったかもしれない。他の意見・医師を遠ざけることになり、真相が藪の中になる原因にもなる。徹夜の連続で患者が良くなるならするべきだが、重症化が進むほど(プライドを捨て)他の意見を取り入れるべきだ。
なので、本当に患者が心配で付き添いたいくらいの気持ちなら、藁をもつかみたい気持ちのはずだ。そういう態度で臨んでいるのか、それとも違うのか。自分をいかに客観的に見られるか、ということだ。
一方、通常・・・経験が乏しい研修医はその低能力の分、患者に張り付くことが勧められる。しかし、今はそんな風潮はない。
低能力だと低能力なりに、アイテム的な考えなく知恵を絞るという訓練が身に着く。訓練が身に着くのであって、能力が身に着くのではない。この訓練がいかにその後に役立つかは各個人のその後に生かされる。
たとえば「俺は何度も病院で徹夜した」とかあっても、その事実だけなら単に診療を独占しただけであったかもしれない。他の意見・医師を遠ざけることになり、真相が藪の中になる原因にもなる。徹夜の連続で患者が良くなるならするべきだが、重症化が進むほど(プライドを捨て)他の意見を取り入れるべきだ。
なので、本当に患者が心配で付き添いたいくらいの気持ちなら、藁をもつかみたい気持ちのはずだ。そういう態度で臨んでいるのか、それとも違うのか。自分をいかに客観的に見られるか、ということだ。
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