朝。アルバイトしなくていいはずの研修医だが、実際は人手不足となると・・・
「じゃ、頼んだよ」と、古谷先生が渡す地図。
「遠いですね」
「すまない。僕ら末端に回るバイトは、おいしくないんだ」
「この病院って。医師会の?」
「肺癌の患者さんだよ。この前の」
「ああ・・」
カズは表情が一気に暗くなった。あの怒られた光景が、未だに焼き付いて離れない。ゆとりの僕らは打たれ弱い。それは認める。でも、そんな教育方針は許されない。体罰でなく、理屈でまずきちんと示してほしい。こちらの言うことを、そんな怒らないで聞いてほしい。
カズの父もそうだった。開業医だが・・・いつもカズを見下してばかりだ。カズの発する文章も途中で横槍、感心もしてくれない。いつも自分のことだけなんだ。自分のことだけでそれが正しいってアンタは言えるのか。それで育ったのがアンタのこの息子なんだからな。
ハッ、とカズはいかつい顔をミラーに見出した。ハンドルを握る。PHSで医局秘書へ。
「カズ、出ます!」
タイヤがキュルキュル、と過剰に回る。
その姿を、大学病院の屋上から見下ろす古谷。
「ゆとりの子守は、大変ですよ」
「それがお前の役目だ。仕方ない」デンゼルがタバコ。
「いいんですか。医局長。呼吸器専門医が、タバコ吸って」
「わたしは呼吸器の申し子。呼吸器の患者をたくさん見届けてきた。非常に罪深い私は!その病気でもって自分の命をささげようー!」
古谷はデンゼルを筆頭とした呼吸器科の一員だ。准教授もいるが、役に立たない。うちの呼吸器科は、以前より循環器と対立している。前者は保守、後者は好戦。前者は理性、後者は本能、水と油。
「紹介患者の振り分けがありますが、医局長」
「めんどくさいから。お前やってくれないか」
「医者は、患者様の神なんでしょう?」
「主治医なら、の話だ!」
そうやってデンゼルは消えた。古谷は、雑用を任されるのには慣れていた。もちろんこの件は違うが。
古谷は数枚のコピー用紙片手に、循環器グループの戸を叩いた。大勢が「ふーい!」と返事。
「いいかな?入るよ」
大きなテーブルに、トランプやマージャンの散乱。夜間の名残りか。6人くらいが、結膜炎のような貼れた両目を持ち上げる。
「40代でまだ若い女性だ。骨盤病変の後遺症で、肺塞栓を繰り返している」
「肺はおたくの専門だろ?」と島という太った医師。これが影の仕切り番長だ。
「以前詰まっていた血栓も除去され、下大静脈フィルターも入ってる。予防含め、治療の方針は確立している」
「なら、なんでここに?」
ヒュー、と誰かが口笛。島がにやつく。
「右心系の負荷が不安定だ。息切れ、浮腫の状態もフォローがいる」
「若いんだろ。やだなオレ。もめたくねえし」
おお~、とゴマすりの周囲。
「精神科もかかってる。ワーファリンを含め、内服の管理は重要だが」
「待て待て。なんだよこれ。胃洗浄とか何度も救急でやってる。ダメだ。保証できん、こんな患者は」
「待ってくれ。まだ話は」
1人ずつ、医師らは引き揚げていく。
「マウスみよーっと」「遠心!とう!」
島が見下した笑顔で見つめる。
「うちでは、診れません!」
「そちらで診た方が、患者さんのためには安全だと思うんだ」
「そりゃ、こっちだって管理はしたいさ。だがな。言うことを守ってくれる条件がないと、リスクが高いんだよ。ワーファリンって飲みすぎると恐ろしいんだぞ?」
「それは知ってる。その管理もそちらの工夫のアイデアで」
「見ないみなーい!おっかえりー!」
背中を押されつつ、古谷は廊下へ出されかけた。
「待て!自分たちは関係ないって?じゃあその患者がどうなってもいいって言うのか!」
「はーいがんばってー」
「そんな態度だと、いまに患者の信用を失うぞ!」
言うだけ言ったが、結局締め出された。が。
ドーン!と再びドアが開けられた。デンゼル大塚だ。
「たのもう!入るよーん!」
「医局長?」古谷はへたりこんだまま、言葉を失った。
「なーんだよ。しっつけーな!」島は刈上げの頭を両手でアップし直した。
「じゃ、座らせてもらうぞー。おーこれはこれは縁起がいいなー。スペードのエースだ。さ」
「?」
「この中から引いてみな.どっちがジョーカーかな」カードを2枚提示。
「ふん。なら、これを!」
ジョーカーだった。
「ほう。その顔だと、ジョーカーかな?神よ!我はジョーカー!規則正しきトランプ世界の変数なりー!」
「おいおい、やめろっての。あの患者の件なら済んだから!」
デンゼルは部屋を見回した。
「お前とは長い付き合いだなー」
「そうすか?」デンゼルが年上なのを思い出し、言葉をただした。
「いや、ここで会ったのは3か月前だ。何ぶん、異動の多い職場でね」
「俺がここへ戻ってきて、3ヶ月ってことですけどね」
「あーあのお前のーそのーなー、評判だが」
デンゼルは近くの雑誌を手にした。名簿だとは分からせず。
「その、お前が前にいた病院なんだっけー」
「俺っすか?2年、徳洲会にいましたけど」
「とくしゅう、とくしゅう、ふーん。いろいろあったのは俺も知ってる」
島は、ちょっと不機嫌になった。
「な、なんですか。俺は単に、呼び戻されただけっすよ」
「そうだ。大学は嫌がる医者を吸い寄せるブラックホールみたいなもんだ」
近くのリンゴを、シャリッと食べ始める。
「うーん。うまいな。で、部長の八木先生はどうだったあん?」
「部長ねえ・・」島は天井を向いた。
「この部長は俺の長い付き合いでな。実は、お前の事はいろいろ聞いたんだ」
「えっ?な、なにを・・」動揺している。
「何でもだ。毎日メールの仲だからな」
「・・・・・」
デンゼルは名簿を利用しての適当な会話だが、島は引っかかった。この<八木>というのは呼吸器だ。やはり循環器とは仲良くなかったか。
「中には目を覆うこともあったが、まあここだけの話にしとく」
「お、恩に切りますよ」
「俺は万年助手になる運命だ。論文のテーマも准教授にとられてばかり。アチャー!」
島は一瞬だがビクッとした。
「・・・で。僕は先生に何を・・・?」
「んー簡単なことだー。さっきの患者を。パク。診ててほしいんだ。お前の科でな」
デンゼルは足を組み替えた。
「だが、お前のその適当なところは信用できん。さっきは態度も悪かったしな」
「す、すみま・・」
「点数つけとく。2次試験で頑張れよ。傾斜配点を祈ることだな」
デンゼルは立ちあがった。
「腐っても鯛だ。内服管理、圧評価、しっかりやってくれよ。当科でも、半年に1回は診るからな」
「くっ・・・」
「こちらの守備範囲外の場合は、容赦なくたたき起こすからな。プッププー!ラッパの起床時間だー!循環器グループは一斉蜂起せよー!」
デンゼルは廊下へ出た。聞いていた古谷は、お辞儀した。
「さすがです先生。心理作戦ですか。お得意の」
「いや、双子作戦だ!」
「なんだって?」
ピラ、とデンゼルの手元から・・・もう1枚のジョーカーがヒラリと舞い降りた。
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