「眠れないとき」

2007年5月9日
 医者も人間なので、気になって眠れないことも多々ある。患者の病状であったり、その日あった嫌なこと、言われたことが頭をよぎる。いろいろ考えていると目が変にさえてしまって眠れない。もし安定剤飲んだら、もしものコールのときに目覚めれない可能性がある。

 自分は、体力的につらかったことを思い出すと(なぜか)徐々に疲れてきて、なんとか眠ってしまう。例えば何百段の階段、連続当直、胃腸炎の脱水状態。

 つまりそのとき(眠れないとき)に置かれた状況より、もっと苦しかった状況を思い出したということ。
 外来に入って患者の顔色をよく見ろとか指導されたが、実際外来に何度か出入りする機会があれば、待合室でその患者の別の表情・事柄に気づくことがある。診察室でみせる表情は<優等生>の表情であることが多く、気を使って無理してる人も多い。

 些細なことだが、「この人はさっきからかなり待たされているな」とか「検査でずっと待たされてるみたいだ」「苦しそうだ」「ちょっと近寄って何か言いたそうだな」とか気づいたら、そこを何とかできないか配慮すべきである。思わぬ情報が入ることがある。患者は短い診察時間より、ここでかなりの待ち時間を強いられることが多いからだ。彼らはその間、いろんな事情を抱えて耐えてくれている。

 ちょっと見渡して状況をみて、必要に応じて融通をきかせるだけの余裕がほしい。

 診察室でしか外来患者をウン十人診ただけで、満足してはいけない。
 長続きする程度に早く出勤したら、思わぬ情報が手に入ることがある。脳卒中や虚血性心疾患の発症は夜間・早朝に出くわすことが多いため、たまたまその状況に遭遇して早期治療にもっていける可能性も。ついでに夜勤の申し送りも聞ける。日勤帯の申し送りに頼ると入院患者の情報収集が遅れたり、情報漏れになる可能性も。

 何よりも後から来た連中に、やや高めのテンションで「おはようございます!」と圧倒できるのが清々しい(笑)。
 ときに医者の見る目は高圧的である。その医者がそうでないつもりでも、白衣を着た人間にずっと見つめられるのは異様で意味深とも取られる緊張感を生み出す。その緊張感とはつまり、有無を言わせない雰囲気のことである。

 大事なのは相手の眼に視線を移すときの動きであって、好意的でオープン(開放的)な眼の動きである。極端に言うなら「何も隠してない」「教えてくれませんか」という、謙虚な目線。

 目が合ったときの瞬間というのは、ズバリその人間を印象づけるので重要。

 
 患者や家族に説明するとき、言葉と同時に<書く>必要がある。当たり前のようだがあまり実践されてない。実践されてても結局話が雑だったり、書いた紙の絵がゲジゲジだったりする。

 そういう意味では、過去に家庭教師・予備校講師などの経験が(まともに)ある者は工夫がうまい。なぜかというと、相手が理解できてないとき「なんで分からないの?」という発想でなく「どうやったら分るだろうか」と腰をすえて考える習慣ができているからだ。学生・研修医・家族など相手にしてでも、この能力を鍛えるべきである。
 何度も注意したがこれは厳しく言わないと、と判断した場合にやみくもに複数人の前で激しくあたる必要はない。艦の雰囲気を乱し、妙な危機感・警戒心を与えかねない。いくら正しい説教でも、職場の不安定感を生みかねない。

 それと相手によっては周囲に加担を巧みに迫ったりして冷静な討論ができない場合もあり、結果的に自分の思わぬ失態(冷静さを失い不必要な言動になったり)を招くことがある。

 なのでこういう相手にはまず1対1での場をもうけ、あくまでも感情的でなく建設的に結論へ持っていく。相手もひょっとしたら初めて何か事情を話してくれるかもしれない。
 これはストーリーでいったん触れた。

 どんな職場でも各部署というのがあって、どこかに必ず重圧がよりかかってしまう。それに不公平・嫉妬などが手伝って知らない間に冷戦を引き起こす。

 しかしどの人間も自分の立場にリスクは持ちたくないので、できれば誰か<救世主>にお願いして、自分が無傷の形で<敵>をこらしめたいと思う。

 その<救世主>が君だった場合、彼らは執拗に一方的な情報で君を同情させ、扇動してうまいこと敵の陣地におびき出し戦わせようとすることがある。使命感に酔いやすい医者はときにこういう罠に引っ掛かる。

 この<彼ら>は事務員であったりナースであったり色々だが、退屈で窮屈な人種はこのパワーゲームを自家製昼ドラとして、意図的でないながらも楽しんでいる。

 大人になってから気づく、落とし穴。

「おみやげ」

2007年5月9日
 長期の長い休みがやっと取れると、その間の病棟はナースや他のドクターらスタッフに任せっぱなしになる。<自分だって人間だから休ませてもらう>というのは本音すぎるが、やっぱり後ろめたい気持ちは持ちたい。

 休みが終わって、何事もなかったように出てくるのはあまりにも情がなさすぎる。患者・スタッフらへの申し訳ない気持ちと、それと形としての<気持ち>はまんべんなく用意すべきである(各部署あて)。

 ただし礼も言わない部署には、する必要はない。

「説得」

2007年5月9日
 医者が治療を勧めたいとき、その必要性がどうしても伝わりにくいときがある。しかも治療の選択を勧められる場合が増えている。一方的な催促がトラブルを引き起こす、という過剰な警戒心が医療側には最近あるからだ(主にマスコミの責任)。

 かといって患者側が選択できるほどの知識が持てるかというと、それは難しいことがほとんどだ。

 患者側も治療を受けるかどうか迷った時は、(使い古された表現だが)こう聞くべき。ただし主治医に信頼をおいての話。

「私(患者)が先生の家族だったら、どちらを勧めますか?」

 これを聞くかどうかで、かなり違う。

 これに答えれない医者は、正直問題がある。
 ネットの住宅情報、雑誌・ネットの病院の医師募集は、基本的に一度どこかを巡って、それでも買い手がなかった情報と考えたほうがいい。医師募集は広告料を払って載せているわけだから、いい条件だと思っても、実はどこかワケアリだという先入観をもってたほうがいい。

 本ストーリーでも、院長職を勧められる場面があった。 

 おいしい情報というのは(何でもそうだが)まず身内、そのコネクションへと流れるのがふつう。待ってるだけで降ってくるような情報など、すがる価値はない。となると、自らアクションを起こして調査する必要がある(ストーリーの中にヒントを埋めてある)。

 だが病院選びの場合、いったんそこで(妥協して)身を潜め、一方でまともな非常勤先を一ヶ所作り、やがてシフトするという裏技もある。
 偏った内容ですが、変に誤解しないよう。

 僻地医療が見直されている時代になんだが、田舎には田舎特有の雰囲気というものがある。NHK特集だけ見ていたら田舎はいい人でいっぱいだが、あれは演出。むしろ都会人より腹黒い、ダークな一面をもつ。深入りするなら、心してかかる必要がある。

 ヒエラルキーを崇拝し古い伝統を守る(変えない)という習慣は、根付いてるとこでは長年守られる。変化=生存の危機感みたいな反射神経がある。過疎化して若者が帰ってこない理由の一因でもある。

 医療を改革する上で重要なのは、国家レベル的にこういった体質そのものを(ある時期に)世代交代=リフレッシュさせることだと思う。医療側もサービス精神だけでなく、正面から本音(どこまでが限界か)をぶつける必要がある。

 田舎者→高齢化地域→弱者、という公式を立てて言うなりに地域医療を正義視するのはよろしくない。ホントの弱者が僻地に集中していると思ったら大間違いだ。

 早期の僻地実習で学んだものが「都会のありがたさ」でなければいいが。

 
 プレイボーイ、という言葉自体が死語だが、今でも当然存続している人種だ。田舎では「女狂い」とか言われて軽蔑されることもあるが、医師にも彼ら(プレイボーイ)に見習うべき点がある。それは・・・

 さりげないこと。通常なら照れくさい言葉でもサラリと流すなど、その才能。

 いや、具体的には難しいことは要求しない。要は<オアシス運動>・・

オ:おはよう(ございます)
ア:ありがとう(ございます)
シ:しつれいします
ス:すみません

 が(傍から見て)明るく爽やかに実践できているかどうか、ということである。

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