僕は詰所横の待合室へ。向こうから球のようなものをナースが投げてきた。
「おっと。イタタ?」
よく見ると、ムンテラ用の冠動脈モデルだ。
「あ・・ありがとう・・・で、ご家族の方?」
若い女性が1人座っている。
「はい、妻です。心筋梗塞って先生・・・どんな?」
「心臓の周囲の血管の冠動脈。これです。これによって心臓が動くわけですが、おそらくどれかが詰まったものと」
「私の食事がいけなかったのでしょうか・・・」
「え?いや、そうではなくて。原因はいろいろと」
「私よく主人を怒らせてましたから・・・この前も昼のテレビでやってました。怒る人は死にやすいと」
「いや、そうでもないです」
「そうですか、では大丈夫なんですね?」
「いや、それも・・分かりません。詰まった冠動脈の閉塞を解除しないと。それが・・」
「ああ、あのカテーテル?」
「そうです。それで閉塞部位を特定して、必要と判断した場合拡げる・・風船ですね。最近はステントという金網を入れたりすることも」
「ええ。ええ。とにかくお願いします」
「同意書がこれです。合併症としては?感染?出血?血栓による塞栓が主なものです・・・・・もしもしカテ室?搬入は・・・30分後!」

いったん僕はCCUを出た。呼吸器科の畑先生とすれ違った。
「おはようございます」
「おう。重症か?」
「これから緊急カテです」
「AMIか?で、主治医は・・お前?」
「背景にもいろいろありそうですが。高脂血症とか・・それも家族性の」
「オイオイ、また大学のときみたいに、検査出しすぎるなよ。この前も・・」
「1ヶ月前ですか?反省してます」
「ちょっと蛋白高いからって、それIgG/M/E、それ抗核抗体、それ補体、電気泳動・・・ヤンヤヤンヤ」
「保険・・・かなり削られますかね」
「また事務職員の誰かがノイローゼになりそうだな!ワハハ!」
 畑先生はペタンとぞうりに履き替え、ICUに入っていった。

 僕はピタッと足を止めた。
「そうだ。外来はもう中止したんだ。病棟はどうなってるか・・?腹痛の患者。とりあえず最低でもイレウスの処置がいるだろう」
 一般内科のドクター診察に期待しながら、病棟へ駆け上った。

 星野先生が待っていた。
「おう、AMIが入ったんだって?onsetは?」
「数時間前のようです」
「カテは30分後だな。今日は横田と芝の番だな」
「はい」
「ああそう、お前の患者な。一般内科へ紹介する予定の。今日は一般内科、午前診が夕方4時くらいまでかかるようだぞ」
「そんな・・・」
「それまで待たないとな。看護婦さん?リーダーはカナちゃんか。カナちゃん!どうバイタルは?」
 病棟ではアイドル的存在のカナさんが小走りにやってきた。25歳くらいだろうか。
「はい!今から確認します!」
「カナちゃん彼氏と別れたんだって?」
「彼氏じゃないですよ、あんなの!星野先生のほうがよっぽどいいですよ!」
「ハハハ、わし困っちゃうなあ・・・」
 こっちも困っちゃう・・・。

新人の片山さんがバイタルを報告。高校生で通用しそうなくらい幼い。
「血圧は、130/60mmHg、脈は100/minです。BTは36度ちょうど。異常ありません!」
カナさんは横目で僕をちらっと睨んだ。
「先生。イレウスなんでしょうね、本当に!」
「少なくともイレウスってことだよ」
「はあ?どういうこと?」
「原因とかはまだだ」
「そりゃそうでしょ。まずはイレウスそのものの治療でしょ。はい!マーゲンチューブ!先生が入れてよ!早くやってね!」
「ああ・・」
「今から!」
「今?そうだな・・」
「もう早くしてよ!CCUのAMIも大事だろうけど!星野先生も言ってやってくださいよ!」
「う、うん。ユウキ先生!あっちこっちに患者がいて大変なのは分かるが、1つ1つきちんとこなしていけよ。時間がかかるなら
他の先生に相談して・・・。じゃ、心カテ見に行ってくる・・・・しっかりな!」

 相談か。それはしているつもりなのだが・・・。される前に気づいて欲しいことだってある。

 詰所横の重症部屋。ベッドサイドの横でMチューブ挿入。横に片山さんとカナさんが介助。
「片山さん、カナさん。バイタルは正常って言ってたけど・・・SpO2は下がってなかったかい?」
 カナさんはムッとした表情になった。
「イレウスでしょ、先生。肺や心臓は聞いてないけど?」
「イレウスで怖いのは穿孔や腹膜炎だけじゃない。循環不全だよ」
「はあ」
「サードスペースに体液が貯留して、循環血液量が不足・・・SpO2は?片山さん」
「はい、78%です」
「・・・なに?」
「78%ですが・・・」
「ですがって・・・動脈血!血ガスを!」

 詰所から声がかかる。
「ユウキ先生。カテ室から電話で、早くカテの下準備をしろと」
「血ガス取ったら行きますと伝えて!」
「はい。一般内科病棟からの伝言ですが。なるべく早く顔を出してくれと」
「よし!持っていって!・・・どんな用件で?」
「さあ、それは私には・・・」
「わかったわかった!」
 
 小杉が入ってきた。
「あら先生?いったい何人いるの?外来は?」
「中断したんだよ」
「これから横の患者さんのポータブル撮るんだけどー」
「今、止血してんだよ」
「へーっ。日雇いも大変だねー。いろいろさせられて」
「カテ室へ行くんだろ?」
「このあとね。なんかもうみんな集まってるよ」
「ブーブー言ってる?」
「ブーブーというよりモーモーって感じ」
「?・・・あ、結果!」

 片山さんが結果を持ってきた。小杉が覗いた。
「うっわー、やな感じー!ペーハーが7.13!」
「pHが?ホントだ・・・」
「また先生、間違えて静脈血取ったんじゃない?」
「いや、違う。酸素は74Torr、二酸化炭素は24Torr。静脈のはずがない」
「過換気ってこと?」
「BEがマイナス16だぞ。これは・・・代謝性アシドーシスだ。過換気で代償しようとしてる」
「待てよ、アシドーシスは、酸性だから・・・」
「とりあえず酸素吸入と・・・メイロン!片山さん!」
「はい。わたしよく分からないので、看護婦さん呼んできます」
「君も看護婦だろ!」
「ちょ、ちょっ・・・」
 代わりにリーダーのカナさんが入ってきた。
「ちょっと先生!ちゃんと診断ついてんの?」
「アシドーシスだ、アシドーシス!」
「で、どうすんのよ?」
「酸素!マスクで、それとメイロンを・・・ええっと、手帳、手帳・・・どこだっけ・・・」

『忘れたか。BE -2 につきメイロン1アンプルだ』

「そうだな!じゃ・・・8アンプル!」
「先生、誰かと交信してんの?宇宙人?」
「いや、これは・・・独り言」
「ちょっと!どこ行こうとしてるの?」
「心カテの準備だよ」
「指示をちょうだい!酸素が下がったときの、とか!」
「すまんが!」
「先生!オイ!コラ!」

 僕は早歩きでカテ室へ。

<つづく>
 キンキンは素早く後片付けに入った。紹介状の返事を・・と。
「心不全傾向ではありませんが、今後も定期的な受診を」

 こうして患者の数が雪だるま式に増えていくのだ。

プルルルル・・・外来の内線だ。
「もしもし?」
「外来婦長です。救急で見た患者さんは先生、ほったらかしですか?」
「ほったらかしとは何だ?」
「CT撮り終わってもうしばらく経つんですよ!外科の診察も終わったのに!」
「澤田先生の診察が終わった・・・?で、返事は?」
「外科は関係ない、と」
「澤田先生の外来につないでよ」
「それが、今は外来始まったから電話出れないって。でも先生、外科は関係なんだったら・・・」
「腹痛だろ。こっちは循環器外来だよ。一般内科の先生にでも」
「一般内科もすごい数なんです。先生の3倍はいるし」
「悪かったな」
「いえいえ。だからとりあえず、先生、そっちへ行ってもらいますから」

 電話は切れた。仕方なく、僕はイヤイヤながら他の循環器ドクターに相談することにした。

患者は苦悶様で、大汗をかいている。バイタルはやはり正常。
サングラス姿の長身の男性が後ろに立っている。
「先生、すまんなあ」
「え?」
「コイツがこんなんで」
「こんなん、って・・?」
「ふだんから大酒飲んでなあ!精神科の薬もまともに飲まずに・・」
「精神科・・・精神科から薬を?」
「ああ。でもな、どこの科かは知らんで。薬も見あたらへん。捨てたんちゃいまっかー」
「ご主人さんは・・・同居では?」
「いや、もう1年くらい別居中や」
「別居・・」
「まあコイツは無職やからな、時々食事持ってったりしたんや、このオレがな」
「時々ですか」
「週に1回かな?そんくらい。わしだって他の生活があるからな。息子や娘、まともに学校行かさないかん」
「子育てを、ご主人さんが?」
「ああだからもう、大変なんや。コイツが作った借金も返さないかん」

僕の背後では循環器科のナンバー2、40代の星野先生がデータを見ている。
「・・・・・これはオイ、循環器とちゃうだろ」
「外科はオペ適応がないと」
「せめて消化器だろ。イレウスしかはっきりせんし。とにかく循環器は関係ない」
「ではやはり、一般内科へ・・」
「そうだな。うちの病院は循環器、呼吸器、一般内科だけだしな。一般内科へ廻せ」
「病棟へ入院ということで」
「循環器の病棟、オレが1人退院させる。そこへ入れろ」
「ハイ、ありがとうございます」
ご主人はジーッとこちらに見入っていた。

「で?どうなったんや?先生よ」
「病棟のベッドが空きますので、入院になります」
「入院?病気はなんやの?」
「腸閉塞ということだけ分かるのですが・・」
「それだけやないと?」
「え、ええ。詳しくは消化器担当の先生に・・」
「でもあんたも内科医だろ?そうコロコロ先生代えんといてえな」
「ええ。しかし・・・」
「・・・・・・」
「しかし、それが確実かと」
「・・・・・・いくらや?金はあんまり出されへん」
「・・・看護婦さん、空く部屋ってのは・・」
「ハイ!個室で1日5千円です!」
ご主人は目を丸くした。

「なんやと?5千円?そんな部屋に入れるか!ンなんだったら、連れて帰るわ!」
 キンキンは時々後ろの患者を気にしながら説得しようとした。
「そんなことしても、一方的に悪くなるだけですよ!」
「痛み止めくれや。それでもアカンかったら連れてきたらええだろうが!」
 迎えに来ていた病棟看護婦がこちらへ歩み寄った。
「先生・・・先生のご判断で、個室料金はこちらでみる、という方法もあるそうですが」
「そうなの?」
「ええ、婦長さんから」
「そっか・・・婦長もいい人いるんだな。あのね、ご主人さん!」

患者は病棟へ上げられた。一般内科による1時間後の病棟受診、とした。

キンキンは積んであるカルテを1冊取り出した。
「入ります!45歳バイパス術後!」
「カルテを貸せよ!」
「タハーラーさーーーーーん!」
「先生、おはようございます」
「おはようございます。胸の痛みは?」
「ええ。退院して6ヶ月ですが・・どうもないです」
「じゃ、いつもの薬で・・小児用バファリン、と!確認造影をまた今度」
「はい。糖尿のほうは?」
「糖尿・・は。うちは専門でないので、一般内科、今日行きましょうか。じゃあ・・・次!」

プルルルル・・・また内線だ。
「もしもし・・・救急外来?オレが?今外来だよ、看護婦さん!誰か他の先生に・・・」
一瞬空白があり、ナースから別の人間に電話が代わった。
「何をボソボソ言うてんのじゃ、コラあ!」
「や、山城先生?」
「来いっちゅうたら来るんじゃ、ボケ!」
 電話は切られた。鶴の一声だ。

キンキンは行く手に立ちふさがった。
「どこ行くの?」
「山城先生の命令なんだよ。救急外来へ」
「待ってよ!ダメ!」
「ダメって何だよ?通せよ!なっ・・?」
 僕らはおしくらまんじゅう状態になった。クルクル3回転の上、僕は輪から外れることができた。

 救急外来・・・!

 救急室は複数の医師、看護婦、技師でごったがえしていた。
「これは・・・?」
 かなり肥満した患者が暴れている。点滴が入っていて、酸素マスク・・ついてないようなものだが。両端に2人ずつ、腕をつかんで抑制している。
山城先生はその足元で立って両腕を組んでいた。
「さっさと来い!そんなに忙しくないだろ!」
「いえ、それは・・・」
「30代後半の男性。AMI起こして数時間後だ。今からCCUに入れる。主治医、お前や」
「は、はい」
「点滴メニューの指示、家族へのムンテラ、カテの同意書ももらっとけ!」
 後ろからナンバー3の横田先生が肩を思いっきり叩いた。
「くれぐれも前みたいに、筋注なんかすんなよ!CPKが狂う!」
 ナンバー4の芝先生は患者を抑えていた。
「くく・・・早く指示出せよ!指示がトロいって評判だぞ!」
「は、はい・・・」
 頭側のベッドを持ち、エレベーターへ。空くやいなや、僕はベッドごとエレベーターの奥へ叩きつけられた。
「わあ!」
「ゴタゴタ言うな!」
 ナンバー3が叫んだ。

チンとエレベーターが空くと、キンキンが待っていた。
「もう!外来があるんですから、横ちゃんと芝ちゃんで診てよ!」
横田先生はベッドを運びながらマスクを下にずらした。
「メグちゃん、そんな怒るなよお。可愛い顔が台無しだよー」
「も、もう!」
 何喜んでんだよ、この女・・・。
キンキンは遠くから叫んだ。
「じゃあ!外来の人はみんな!くすりだけにしときますよー!」

 CCUに入った途端、大勢の看護婦が迎えてくれた。病棟の白衣と違い、黄色のケーシだ。
どのスタッフも体格がほっそりとしていて敏捷そうに見える。顔は目以外隠されている。
「主治医はユウキ先生ですね。こちらのBベッドへ!こちらが運びますので、先生はご家族へ説明を。指示も早めにお願いします。本体は?」
「あ、本体ね。時間20ml/hrでね」
「側管は何か?」
「み、ミリスロールを頼みます。原液、3ml/hrで」
「ではもう1本ルートが要りますね。本体は5%TZで?」
「あ、ああ」
 彼女は次々と腕にメモしていく。すかさず患者の前腕を握っている。
「徐脈・・・右冠動脈ですか?」
「ああ、たぶん。右誘導も取っておいてね」
「了解しました。ご家族がお待ちです。抗生剤テストを?」
「せ、セファメジンでお願い」
ピピピ・・・
「鳴ったか!院内ポケベルだ・・・・外来だ!もしもし!ええ。外来始まってるのは分かってますが・・・」
「キーッ!どうなってんの先生!」
自分の外来担当のキンキン声だ。
「ダメだ、今は救急が・・・」
「早く終わらせて!カルテがもう20冊!」

「ひえっ!」

「澤田先生、すみませんが自分、今からルーチンの外来が・・」
「ああん?」
「腹部CTの伝票は書きましたので・・」
「で?あとで返事したらええのか?」
「・・・申し訳ないのですが・・」
「・・・・・」
「し、失礼します!」

 駆け足で外来へ。待合室はもうごった返している。みんなが僕の顔を仮面様顔貌で睨む。
テレビの音がやかましく響く。

「すまない!」
外来の3診に座る。1・2診は既に始まっている。キンキン声は怒りの峠を越したようだ。
「いーえ!はい、この人から!・・・・ヨシダさーーーーーん!!」
 耳をつんざくような声だ。早朝にはキツい。

超高齢で小柄女性のヨシダさんは杖をついて入ってきたが、ナースの迅速強引な介助で瞬く間に丸イスに座らされた。
この人が1人目か。話が長いんだ、これが・・・。
「変わりないですか?」
「変わった事はないんですがな、先生、最近この左のわき腹のほうが・・・」
 
 変わったこと、あるじゃないか。

「・・・皮疹はないな。でも既往にヘルペスがあったら別かな・・」
「年が年じゃけえ」
「いや、そうではないと」
「癌じゃろか」
「いや、そうでもないと思いますが・・・。圧痛はない、と」
 と言いつつ、なるほどとカルテには採血項目が付け足されていった。総蛋白、カルシウム、CBC・・・。何か引っかかれば一般内科へ
廻したらいい。
「最近はなあ先生、孫がもうやんちゃしてやんちゃして・・・」
 話が長くなる・・・。いつものようにナースに目配せした。キンキンはすぐに対応した。
「ハイ!じゃあ終わりましたからね!外へ出て待っててください!」
「それと先生。血圧はどうやったら下がるんかいな」
「今日の血圧は140/76mmHg。まあまあいいと思います!」
「やっぱ薬飲まんといかんですかいな」
「飲んで、この数値ですからね」
「いや、実はわざとここ1ヶ月、止めてみたんじゃわ」

なんだと・・・?

「そ、それは困ります。また上がってくるかもしれないし」
「いや、ナンかその、薬ばっかり飲みよったら頭がパーになるって近所のオバサンが言うし」
「・・・・・ナンですか、それは」
「ハッハッハ・・・」
 キンキンが無理矢理手を引っ張った。
「はいはい!もう終わりですよ!くすりは!続けてください!やめないで!」

 そう、止めないで・・・これ以上・・・。

「センセ!この人!かなり急ぐらしいんで!」
「若干34歳で心筋梗塞の・・・ああ、この人か」
「写真がこれ!心電図がこれ!ミヨシさーーーーーーーーん!ミヨシさーーーーーーーーん!」
「・・・・・」
「いません」
「なんだよオイ!」
「次は70歳おじいちゃんね、afの人」
「ああ、どうぞ」
「カワイさーーーーーーん!」
「ウルサイな。ここにおるがな」
 患者は彼女のすぐ後ろに立っていた。
「キャッ?さ、どうぞ!」
 その隙にカルテを確認。ワーファリンコントロール中だ。今日のTTは21%。高齢にしては効きすぎだ。
「河合さん。以前のように鼻血出たりとかは・・」
「ああ、全然ございません。健康そのものです!」
「じゃ、診察を・・・」
 河合さんはいきなり立ち上がり、シャツごと上半身裸になり、下も脱ごうとした。
「し、下はいいですよ!」
 キンキンが止めにかかったが、患者はグンゼ1枚になった。
「聴診では・・・ラ音なし、と・・・脈は・・・イレギュラー・・・54/分くらいかな。心電図のHRは・・・78/分のaf」
 触診の脈と心電図の脈の数は異なる。この差が「脈拍欠損」だ。afの特徴。ナースもここまで注意できたら
大したもんだが。
「ちょっと薬が効きすぎみたいなんで、少し減らしますね」
「先生、わしの病名ってなんでっしゃろか」
「?もう14年ほどずっと同じ病名ですが・・・心房細動」
「しんぞうさいぼう?」
「しんぼうさいどう」
「しんどうさいのう?」
「しん!ぼう!さい!どう!」
「えらいスンマセンな。補聴器忘れてもうたから」
「次は忘れんといてね」
「え?なんて?」
 キンキンがまた飛びついては抱き起こす。
「ハイ!じゃあ外で待っといてください!」
「外?こっち?」
「ハイ!」

「急ぎましょうセンセ!はい、40代の尿酸高い人!」
「はいどうぞ。背中の痛みはもう?」
「ああ、ないよ。あのときは痛かったー」
「石はもう流れてたみたいだけどね。また出来たらいけないから・・。今日の尿酸値は11.0か。高いなあ。薬は飲んでますよね」
「ああもちろん。欠かさずにね」
「お酒も飲んでますよね?」
「ああ・・・・うっ!」
 シマッタ、という表情だ。いつもの誘導尋問で判明。
「どれくらい飲みます?日本酒3合くらい?」
 アルコール常用者は通常の1/3くらいの量で自己申告してくると言われているので、こうやって多めに聞くのがいい。
「ああ、まあそのヘンかな」
「そうですか。辞める予定は・・・」
「ま、ボチボチ」
「じゃ、仕方がないですね。もう1剤、追加しましょう。痛風と尿路結石はイヤでしょう」

「センセ!58歳女性の弁膜症!」
「大動脈弁閉鎖不全、といってもエコーで2度か・・・どうぞ」
「おはようございます、先生」
「ああどうぞ」
「そろそろエコーをしてもらおうかと思いまして」
「そうですね。予約は・・来月あたりに」
「あれ、そこにエコーあるのとちゃいますの?」
「ああ、これね。今は診療中だから・・・」
 しかしナースは単刀直入だった。
「今はね!ケンサしているどころじゃないの!忙しいから!」
「はいはいはいはい」

「センセ、産婦人科からの紹介!」
「妊婦?」
「4ヶ月みたいです。紹介状はこれ」
「・・・なんだこの字は。しかし読めるのがコワイ」
「すごい先生。こんな字を?」
「もっとすごい字のオーベンがいたからね」
「じゃ、入ってもらいます」
「失礼します・・・」
「確かにレントゲン見ると、大きめですね、心臓は」
「胸水がたまってないか、CTを・・・」
 キンキンが患者の後ろから小さく怒鳴る。
「センセ!この人妊婦!」
「え?」
「(いいんですか?)」
「(被曝の影響・・・?)」
「(そう!)」
 僕は患者へ向き直った。
「では超音波を予約して・・」
「あの、今日してくださると婦人科の先生が」
「今日?今はちょっと・・・」
 ナースは少し思いつめた表情でこちらへ近づいた。
「センセ、してあげましょうよ」
「今ここで?」
「妊婦ですよ、先生」
「いや、そうだけど」
「今検査して、すぐに返事できるじゃないですか」
「それはそうだが・・」
 結論待つことなく、キンキンは患者をベッドに寝かせた。電源もセット。消灯。
 しかし・・・患者は頑なにシャツで胸をガードしている。
「あ、あの・・・すみませんが。もう少し上に・・」
 キンキンがおもむろにバッとシャツを捲り上げた。

「・・・・HCMかな。これは・・・?壁が厚い。高血圧の既往なし。収縮力はいいが」
 キンキンは横から僕と患者を交互に見ている。まるで僕を監視しているようだ・・。
「胸水はない。心不全ってわけではなさそうだな。終わります!」
 キンキンは素早く後片付けに入った。紹介状の返事を・・と。
 救急車の音が明け方の空にどことなく鳴り響く。何台もいるかのように聞こえていた音は、やがて1つになりだした。

 救急の玄関前に僕と中年ナースが佇んでいた。

「先生、この患者を受けたら、今日はもう終わりですか?」
「なわけないでしょうが。今日は平日。そのまま外来業務ですって」
「はあ、私は夜勤の者ですから、もう帰りますがね」
「前みたいに、処置の途中で帰らないでよ!」
「はあ・・どうも」
「しかし・・病棟は一杯なんでしょ?」
「はあ、そう聞いてますが」
「救急隊の電話では、どうみても入院の適応だ」
「でもねー、ここは基本的に救急は断るなと」
「それは院長・・・県の職員の勝手な独断だろう?」
「それはちょっと!私では・・・」

 分かりかねます、だろ?・・・こんな職員、どこ行ってもいるな。

「来たな、やっぱうちだ」

 サイレンはやがて大きくなって近づいていた。

「あれだ!今日の救急車は・・・キレイなほうだ」

 どうでもいいことを呟きながら、僕らは1歩歩み出た。ピッ!とサイレンを止めた救急車は正面に横付けされた。
覗いた範囲では・・・心肺蘇生はしていない。

 救急の入り口からストレッチャーが入る。僕らも運びながら情報を聞き出した。
「隊員さん、で、腹痛・・だけ?」
「2時間前から痛くなったらしいです。1人暮らしの48歳女性!」
 48歳?かなり老けて見えるな・・。それにしてもかなり苦悶様だ。
「嘔吐はなし!バイタルは安定。メモの通りです」
「家族は?」
「1人暮らし。本人の電話で駆けつけたんですが・・家は酒の匂いだらけといった感じで。かなり飲んでます」
「アル中ってこと?」
「さあ、それは私には・・・」
「まあいい。さ、移しますよ!それ!」

 放射線技師の小杉が入ってきた。ガムをかんで余裕の様子。
「こっちはスタンバイオッケーだよ、先生」
「腹痛だよ」
「あっちゃー。これまた凄い痛がってるね!」
「先に撮ってもらおうか?」
「へい。じゃ、胸写、腹単は座位と仰臥位との両方ね?」
「ああ。でも座位は・・・取れそうにない。ベッド30度挙上で」
「あいよ!」

「かん・・・・すんません!お名前はー?」
 苦悶様の表情からは何も戻ってこない。
「サカイさんです」
 ナースが勝手に答えた。僕は苛立った。
「あんたに聞いてないって!」

採血提出、結果まで30分。ルートはとりあえずのポタ。
ナースが干渉してくる。
「先生、かなり痛がってますけど」
「わ、わかってるよ」
「何か射ちますか?」
「まだ何も検査戻ってないのに?」
「ブスコパンとか・・」
「今はダメ!」

 小杉がちょうどいいタイミングで入ってきた。
「お待ちぃ!先生のだーい好きな、イ・レ・ウ・ス!」
「あのなあ・・・」
「オペの既往があるんっすか?」
「オペのスカーは見当たらないな」
「スカーってなんスカー?」
「跡だよ。痕跡」
「音はグルグルですか?」
「グル音?いや、どうとも・・むしろ弱いような」
「補液して、外科に廻して病棟ッスね!」
「病棟が空いてないんだよ」
「もうすぐみんな出勤してきますから、何とかなるっしょ!」

 採血はWBCやや増加・・程度。
「・・・白血球だけか。これだけじゃな・・看護婦さん!家族は?」
「持ち物からすると・・・ここですかね、住所は?」
「電話して来てもらって!」
「は、はあ・・・・・・あ、もしもし!はい。県立病院です。ちょっと先生に代わります!」
「え?おい!」
「ハイハイ、受話器」
「なんだよ!・・・・あ、もしもし。医師の者です。すぐこちらに来ていただけますか」

 痛み止めとしてペンタジンを指示。ブスコパンはイレウスの増悪を懸念し取りやめた。
しかし患者の症状は全く治まっていない。ナースがまた干渉してきた。
「外科の澤田先生をお呼びになったら?」
「澤田先生・・・来るのか?いつも電話対応で!」
「医師公舎は近いのにねえ。ホント」
「この前もポケベル鳴らしてかかってこなかったし」
「あれとちゃいますのん?先生、日雇いだし、まだここに来て2ヶ月しかたってないから・・」
「そう、なめられてんだよ。でもま、呼んでみてくださいよ」
「はいはい」

 朝の8時過ぎになり、職員がゾロゾロと正面玄関に集まってきた。ほとんどが若い女性だ。
病院への出勤というより・・・デパートかどっかへ買い物にでもいくのか?っていう派手な格好が多い。

 モニターをずっと監視。SpO2は酸素なしで100%。呼吸回数は少し速い。アルコール臭がする。
酒飲んでてイレウス・・?酒の常用者がビタミン不足で腸管運動低下・・・ないこともない。
体はげっそり痩せてるし。あるいは悪性腫瘍か?大腸癌で腸管狭窄で、イレウス。

 待てよ。でもイレウスは1つの所見で、実は腹痛は他が原因だったりする。他の原因で腹痛が起きて、
麻痺性のイレウスが起きたってことも・・・。じゃあやっぱり腹痛をきたす疾患すべてのルールアウトが必要だ。

「じゃ、今のうちに腹部のCTを・・」
ナースが思いっきり顔をしかめた。
「先生、もう外科の外来にそのまま廻したら?澤田先生も来ないみたいだし」
「ポケベル鳴らして・・つながらなかった?」
「だから家まで電話かけた。奥さん出たけど。ムチャクチャ気ぃ使うわ!」
「で、来るの?」
「起こしますって。あの奥さんさあ、あたしキライ。ここの看護婦だったのよね。それで・・」

 長身の澤田先生が頭を掻きむしりながらやってきた。メガネの奥の目は死んでいる。
「ああ。何だ?今度は?」
 僕は反射的に駆け寄った。
「これが写真で・・・」
「患者は!年は!」
 朝から機嫌が悪い。
「48歳女性です。あちらのほうに。採血は白血球のみ・・」
「CT撮らんのか」
「こ、これから・・」
「撮らんのにもう外科か」
「いえ。撮っておくべきでした」
「ったく!ボケ!」

 早く患者を診察してくれよ・・。

 澤田先生は写真・カルテとずっとにらめっこだ。
外の廊下は足早な音で騒がしくなってきた。いよいよ外来の開始時間だ。

「うーん・・・・・・。んー・・・・」
 何やら写真を下から覗いたり、横から横目で見ている。それで何を見てるのか?
気管分岐部を見るために僕らが胸部写真を下から覗くのとおんなじか?
「で、何を注射したんや?何を?」
「ペンタジンです」
「なんで?」
「?・・・痛みを除こうと」
「アホ!何を疑ってたんや。それを聞いとんねや!」
「イレウスなどを・・」
「ケッ。イレウスは分かっとるわ。何によるイレウスや?」
「それが分からなくて・・・」
「超音波は?」
「すみません、自分はまだ・・・」
「ああ?もうレジデントの年は卒業したやろ?正職員だろが」
「いえ・・・日雇いです」
「何・・・?気の毒な奴。ま、時間外手当で稼いだらええやんか。毎日ここの当直してな」

 早く患者を診ろ・・・!

澤田先生はやっと患者の横に立った。
「・・・ここは痛いですか?」
「イタイイタイ!」
「・・・ここも?」
「アー、イタイイタイ!」
やはり痛みは治まってないようだ・・。
澤田先生がまた殻に閉じこもった。
「ふーん・・・・・」


ピピピ・・・
「鳴ったか!院内ポケベルだ・・・・外来だ!もしもし!ええ。外来始まってるのは分かってますが・・・」
「キーッ!どうなってんの先生!」
自分の外来担当のキンキン声だ。
「ダメだ、今は救急が・・・」

<…
学会3日目。

「肺線維症の治療。治療はいろいろありますが、生存期間が延長したという報告はない。かといって有効な治療法がないと
結論づけられたわけではないのです。

 治療のタイミングとしては、『非可逆的線維化が完成する前』がベストとされています」

 胸部CT撮ったとき、うっすらとした影が肺野に映る、あのときか。しかしそう思われる影をやれ「肺炎だ」とか「体動」だとか言われるのは
まっぴらだ。

「治療のベースはあくまでもステロイドとなっていますが、最近の報告でも有効率はわずか・・10%台しかないのです」

 肺線維症のステロイドパルスで著効した、というのは確かにみたことがない。あればそれは・・・NSIPやBOOPだった、ということだろう。

 昼を過ぎ、僕は会場を出た。明日から新天地という複雑な悩み・期待を代償するかのように、本を買い漁った。そのため金はほとんど底を
ついてしまっていた。なんせ気管支鏡の図解入りの本は3万もする。とにかく医学書は高いのだ。

・・・今月出た給料20万は1週間目にしてほとんど使い果たしてしまった。




 結局いろいろ道順を間違え、品川バスターミナルに着いたのは夜の8時ごろ。
少し時間があるのでどこか店に・・・と思ったが、残金の関係で結局吉野家になった。

 食べながら考えていたが、今回の内科学会は最初、伊藤と行く予定だった。しかしdissectionのことがあってから彼はムンテラなど
家族への説明・対応に追われている。とても学会どころではない。信じたくないが、今後そのオーベンは処分が検討されているらしい。
オーベンだけでなく、部長、ひいては医局そのものも。僕はギリギリのところで脱出したということだろうか・・。

 店を出てからもいろいろ考えた。
「もうこれからは、自分のことだけにしよう・・自分で精一杯だから」
 そう言い訳して、バスの待機しているターミナルへ向った。すると・・・

「ああ、いたいた!」
 小走りでネズミがやってきた。なぜここを?
引き続き4人のサングラス男が登場してきた。この前の例の奴らだ。ヘッドはいないようだ。
「こ、こんばんは」
「何言うてんねん」
 グラサンのうち1人がつぶやいた。ネズミは興奮気味だ。
「オマエな!山城先生に感謝しろよ!わざわざここまで来て、車で直接送ってくださるんだからな!」
「車で・・・?」
 よく見ると、向って右側にセルシオ、ベンツが並んでいる。
「いえ、僕は・・・バスを」
「さ、行こうや」
 チンピラの1人が腕をつかんだ。
「いろいろと考えたいこともありまして」
「今日はなあ、山城先生のセルシオでゆっくり反省会や」
「ちょっ・・・」
 僕は腕を振り解こうとしたが・・力が凄すぎる。

セルシオ助手席の窓が開いた。山城先生が酒を飲んでいる。
「おう。やっと捕まえたな。明日から同じカマの飯や」
「カマ?」
「なんや、また嫌がりおって。なんかあったんか?」
「・・・・・」
 僕は悔しかったことなど思い浮かべ、表情にあらわした。
ネズミが横から覗いている。
「ひょっとして、怒ってんの?パンしゃぶ行きたかった?」
 山城先生が制した。
「ドブネズミ、やめとけ」
「は、ははっ」
「・・・ま、いろいろあったようやな・・よう分からんが」
 他のチンピラはアレっ?ていう残念な表情を見せた。
「みんな、乗れ。ドライバー以外は今から熟睡や」
 車のドアは次々と閉められた。ネズミはベンツの運転席。

 僕はいちおう挨拶をしようとしたが、2台とも物凄い急発進で
国道を突っ走っていった。アスファルトの焦げた匂いと雨の匂いが残った。

 バスの最後尾に座り、やがてドアが閉められた。額を窓ガラスにくっつけ、
レンドルミンを内服。僕はゆっくりと眠りにおちていった・・・。

往生際の悪い僕は、まだ彼女の面影にすがっていた。
「ムニャムニャ・・・・グッチ・・・なぜ、言わにゃかった・・・・ムニュムニュ」

ウォークマンに繰り返し流れる、「非情階段」。救急に向うときに流れた曲だ。


『君を忘れて 生きてゆけば いいというのか?』



<第4部・完>



※ ゴールデンウイーク明け数日後より、第5部「フィフス・レジデント」を連載開始!
  レジデント殺し病院、と噂される病院で、僕は耐えていけるのか・・・?
「へえっくしょい!」

 で、僕の学会2日目が始まった。昨日はホテルの冷蔵庫の酒を何本も飲んでしまっていた。
晩ご飯は行く場所もほとんど分からず、結局吉野家。
 風呂も十分あったまらず、ほとんど裸で寝てしまったのだ。学会でこうして体調をくずすことはよくある。

 ホテルの朝のモーニングをゆっくり終えて、少し早めにホテルを出た。
今日の講演は「脳卒中」。afも関連しており、聞いておく必要がある。

 あ、そうか・・。昨日はたしか、グッチが山城先生たちを上手いこと誘導して・・。僕は見つからずに済んだ。
で、彼女は「友達」と帝国ホテルに宿泊して、今日帰る・・・。
「今日?」
僕は立ち止まった。彼女といったい何を話したんだろう?ぎこちない会話をしただけで・・・。
彼女と普通の会話がしたかったのだ。しかし学会会場という閉鎖された雰囲気では無理だったのだ。

彼女はとにかく今日、帰ってしまう。するともう次、いつ会えるか?学会が終わったら僕は職場から半径30分より
先は出てはいけないことになっている。

ならば・・・。

『こちらから行くまでだ・・・』

大学病院の医局秘書さんから、帰りの新幹線の時刻を聞きだした。
午前中の講演はとりあえず聴ける。

学会会場に到着。後ろの目立たない席に腰掛けた。講演は始まったばかりだ。

「心原性脳塞栓症の再発予防ですが、ワーファリンが第一選択である。この薬の副作用を恐れてアスピリンで済ましてしまう先生方も
多いのではと思われます。しかしアスピリンでは300mg/dayをもってしても再発効果は15%くらいしかない。データ上は非有意です。ですから
禁忌でないならワーファリンを積極的に使うべきでしょう。

特にaf、弁膜症なしの場合・・ですが、この場合はプロとロンビン時間を指標として、国際単位で2.0-3.0が推奨されます。これはけっこう
副作用の出やすい数値と指摘されたりもしますが、実際2.0以下のコントロールだと、再発は3.9%みられるそうです。2.0-3.0なら再発がない
といわれています」

確かに僕の周囲でも副作用を恐れてワーファリンを控えるような風潮がある。これも日本人だからか・・・。
最近では何かあったら副作用、訴訟だ。いったんレッテル貼られた薬は使いにくくなる。マスコミはそれでも容赦なく叩く。
 こういったことがますます医師たちの視野を狭窄させていく。

「脳出血の急性期の血圧管理。収縮期180以上、あるいは拡張期105以上が20分続けば降圧療法を開始します。
ただしオペ待機の場合は積極的に降圧を始めます。ヘルベッサー、ぺルジピンの点滴が頻度的によく使用されますね」

 ヘルベッサーは房室ブロックをよく起こしたりして循環器コールがあったりしたのを覚えている。そうなるとぺルジピンのほうが
無難と思える。

 講演が終わり、昼になった。そろそろと荷物を片付け、タクシーで会場をあとにした。
「この駅まで・・・。急ぎます」
「ちょっと費用はかかりますが」
「仕方ないです。お願いします」
「乗られるので?」
「見送りです」
「じゃ、帰りも?」
「帰りは・・ゆっくり電車で帰ります」

 タクシーは猛スピードで渋滞の国道にたどり着き、堂々と割り込みに入った。
「お客さん、よそから来たんだね」
「分かりますか・・」
「楽しんだかい?」
「下調べしてなくて。新宿のしゃぶしゃぶ店に誘われはしましたが」
「ああ、あれ!最近テレビで芸能人来てたっていう?」
「やっぱそこですか」
「うらやましいなあ。私も金があったら1度は行ってみたいですね」
「何かされるんでしょうか?」
「いや・・・ただその、肉を注文して、持ってきた女の子の・・・を見るだけ」
「え?それだけ?」
「そうだよ。それも一瞬」
「その一瞬のために?」
「そこがいいんだよ、分かってないなあ」

 車は駅に到着した。なんという駅だったかは覚えていない。
「ありがとう。おかげでまだ1時間ある」
 30分ほど昼ごはんに費やしたあと、エスカレーターを上ってホームに出た。

 もうすでに多数の客がいる。スーツ姿の人間も多い。学会に来ていた人間もけっこういるのだろう。
端から端まで歩いてみることにした。
 僕は明日までここにいる予定だが、別に今日関西に戻ってもいいなあ。なんせ明後日からは新天地の
勤務だし。1日、中休みが必要だ。

 小雨が降り出した。

アナウンスが何度か放送され、いよいよ客が列になって並び始めた。
「いったい、どこに・・・?」
キョロキョロあたりを見回す僕に、駅員が疑いのような視線を投げかけている。
「あ、そうか・・!あの、駅員さん!グリーン席は・・そうですか、どうも」
まだ見回ってないグリーン席のほうへ駆けていった。

 新幹線がプアアンとゆっくり入ってくる。

「う・・!」
 僕が目にした光景は・・・。

紛れもなく、元オーベンと彼女が並んで立っている姿だった。窪田先生とグッチだ。間違いない。
僕は反射的に身をかわし、斜め後方のベンチに後ろ向きに座った。少し振り向きざまに見ていた。
手をつないでいるその雰囲気は、もはや恋人同士のそれ以外疑う余地がない。

新幹線のドアが開き、人が出てくる。しかし僕の視線は彼らに釘付けだ。
やがて客は少しずつ吸い込まれるように車両の中に入っていった。

彼女らの姿が全くなくなり、僕はあわてて立ち上がった。
「あ?あああ・・」
少し離れているせいもあるのか、中はほとんど見えない。雨も大降りになってきたようで、斜めにうちつけてきた。

 こうなってる気はしていた。出発前にオバちゃんがそう言ってたから間違いなかったのだ。
ならなぜ、それを見届けに来たのか・・・。
謎のままのほうがよかった・・・。

 そうだ。違う。中が見えにくいのは、僕が泣いてるからだ。
新幹線はゆっくりと動き出した。
 僕はそのままベンチに手をかけたまま。膝も地面についてしまってる。

まるであの時のようだ。肩こそ痛くはないが。しかし心の痛みは非ではない。

「大丈夫ですか?」
さきほどの駅員が心配してくれた。
「大丈夫と、ちがう・・・」

オバちゃんの言葉を思い出した。
『オーベンはあんたを心配してた、一番』

「そういう心配だったのかよ・・・!」
もしかして元オーベン、あなたが彼女にあのことを喋ったのでは・・・。震災援助に出かけた日。
しかしもういい。疲れた。僕はやはり医者しかない。

しかしこの元オーベンは、許すわけにはいかない・・・。



これで僕の学会2日目が終わった。




・・・あとで知ったことだが、帝国ホテルはMRの方の名前で取られていたそうだ。
 

<つづく>

次回、第4部完結。
人だかりは徐々に散らばり始めた。ポスターセッションはこのブロックに関しては終了のようだ。
司会が汗を抑えながら礼をしている。

「えー今日はみなさん大変お忙しいところをどうも、ありがとうございました!」

一同は解散した。

僕はグッチの後ろから歩み寄った。
「やあ、お疲れさん」

グッチはゆっくり振り向いた。
「・・・来てたね」
目まいがしそうだった。

自ずと僕らは渡り廊下を歩き始めた。

「昨日は来れなかったのね。新大阪駅」
なんか知らない間に、女らしい雰囲気になっている?
「でも連絡は欲しかったな」
「で・・・これからどうするの?」
「約束してる友達がいてね。いっしょに泊まることになってるし」
「友達・・」
「あ、よその大学の子でね、そ、それで」
「そっか・・で、2泊するの?」
「あ、明日帰る」
「大学の用事?」
「院生でもいろいろやることがあってね。雑用雑用!」
 彼女は目をそらし始めた。

 僕には全てが、なんとなく分かっていた。
しかし、すぐに他の考えが頭をよぎった。

「まてよ!」
 ダン!と踏みとどまる。
「どうしたの?」
「学会、もう終わるね?」
「え、ええ。一折終わる時間ね」
「まずい・・」
「え?私?何かした?」
「ロビー入り口・・・奴らが」
「奴ら?」
「奴らが待ってる」

 学会会場で充電した携帯はまだ鳴ってはいない。しかし鳴っても出るつもりはない。
長い廊下の向こうからロビー入り口を見たが、人があふれかえっている。
 これじゃ出た間際に見つかる可能性がある。

僕は本の購買のところへ行って、いろいろ物色するフリをしていた。
「何、買うの?ああ、今日の循環器の治療指針・・あたしこれ、おすすめ!」
「・・・・・」
 僕は本は眼中になく、ひたすらロビーに行きかう客を眺めていた。
「あと腹部エコーのABC、もバイブルよね。腹部エコーはできる?」
「・・・・・いや。知らん」
「でも腹部エコーは見落とし怖いよねー。心エコーならそういう心配ないでしょ」
「・・・左房粘液腫と、心膜腫瘍・・・」
「そ、そうね。心臓でも腫瘍あるよね」
 僕らの会話はぎこちないままだった。

「あ!」
「何?」
「あれだ・・・シッ!」
 例の4人・・・とネズミがロビーのど真ん中にやってきた。笑顔で何やら下品にしゃべっている。
「あれ、畑先生じゃないの?大学を出て・・」
「今はどこに?」
「山城先生の病院よ」
「そうだったのか。しかしあれじゃ奴隷だよ」
「畑先生は論文が全くできなくてね。院生だったんだけどマシなデータがでなくて。それで助教授が他の
病院の先生に頼んだの」
「それが山城先生だったのか」
「あの先生は発表とかドンドンしてるしね。院生で泣きついてる人が多いの」
「汚いよ、それ。結局他の先生に論文書いてもらって、学位取るなんて」

 一瞬、彼女の顔が曇った。しまったと思ったが・・遅かった。

「・・・でも大学には貢献したでしょ。その見返りよ」
「そんなんで学位取れるんだったら、僕だって・・・」

「あたしが他の先生からデータもらったって知ってて、そんなこと言ってるの?」
「・・・え・・・」
「あたしは違うわ。ちゃんと松田先生の実験も手伝ってたし。だから引継ぎのような形で頂いたの」
「ああ。何もヘンな解釈など・・」
「自然な成り行きでしょ?私は汚い手なんか使ってない」
「そ、そりゃあ」
「でも皆ひどいわよ。陰でコソコソ。私だけぬけがけしたとか」
「それは・・ひどいな」
「結局理解してくれたのは・・・」

 その後の言葉はなかった。
「グッチ、悩んでたんだね・・・」
 グッチはうつむいて、あてもなく本を探すふりばかりだ。
「あたし、これ買う。異常値の出るメカニズム、病態で学ぶ呼吸・循環・消化器学。呼吸管理トレーニング・・・」
「そ、そんなに?」
「アイツは論文だけだって、言われたくないの」
「臨床の勉強を?」
「実験だけの院生終わって、民間病院でバカにされる医者は多いの。だから勉強しとく!」
「そ、そうか・・」

 それにしても僕の周囲の人はみんな頑固だ。しかも心に余裕がないというか・・。

「あれ、山城先生じゃない?先生はこれからお世話になるんでしょ」
「せ、先生って・・やめてくれよ、そんな言い方」
「挨拶してきたら?」
「それはもうした。今日はもう捕まりたくないんだよ」
「待ち伏せしてるわよ」
「だから、どうしようかと・・」
「もうお開きみたいだし」
 書籍コーナーもしまい始めた。
「くそっ、このまま新宿まで・・」
「行ったらいいじゃない。かわいいお姉さんたちがお相手してくれるんでしょ?」
「いやだ。君と行くなら別だが・・」とは言えなかった。
「・・・わかった。あたしがまいてあげる」
「まいて・・・って?」
「あたしが彼らのとこ行って、その間に先生は逃げればいいでしょ」
「え、ああ、うう・・・」
「それともあそこで捕まって、新宿まで行く?」

 どちらもイヤなんだ。君がいてこそ、なのに・・・。
しかし自分への防衛本能が上回った。
「・・・・じゃあ、その・・・お願いしようか」
「わかった。MCTDの子の借りがこれで返せるかな」
「?ああ、その件・・・」
「心配して病院に来てくれたのね、ありがとう・・・」
 
一瞬、唯一見せてくれた笑顔だった。

「じゃあね」

引き止める隙もなく、彼女はゆっくりと向こうへ歩み寄っていった・・・。
僕は書籍の横に隠れた。

彼らは一瞬盛り上がり、数分会話が続いていた。すると彼女は畑先生の
手を引っ張り、本会場へと進んでいった。こちらの目の前を通ったが・・・
なんとか見つからずにすんだようだ。

そして、どう見ても怪しい足取りで、僕は逃げるように出口を出た。

タクシーの中で、後ろを何度も何度も振り向いたが、何も見えるはずがない。

僕の学会1日目は「がっかり」で終わった・・・。

<つづく>
午後の講演だ。

「急性心筋梗塞の薬物療法」とある。これが終わったらポスターのところへ。

「では始めます。急性期の薬物療法、で話をしてくれとテーマを与えられたわけですが、このような内容を1時間程度
ということ自体、無理がありまして・・ま、可能な限り話してみます。スライドを

薬物療法の目的は主にはこうです。?不整脈の予防、?心室破裂の予防、?再発の予防、です。

?ですが、これはあくまで致死的なもの・・・VPCの連発やVTとかを指しますね。心筋梗塞の場合、心筋細胞は過剰に興奮した状態である。
そのため不整脈が発生しやすい。したがってVPCがみられたら即座にリドカインを投与する必要がある。

?、いわゆるラプチャーです。先生方みなさんもご経験あると思います。心筋梗塞、つまり壊死を起こした心筋の組織は薄くてもろい。血流の
圧力によって破れやすくなっている。このため血圧が上がり過ぎないようにコントロールしないといけない。しかし下げすぎると虚血を増悪することがある。
私なら収縮期血圧を110-120mmHgを目標に置きます。

これらの合併症・予後まで見据えた上で考えるなら、はい、次のスライド。

心筋梗塞の予後を改善させる2つの薬剤。βブロッカー、ACE阻害薬の投与、これは早めに行いたい。ただしですよ、収縮期血圧が100mmHg以上の
話です。どちらを優先すべきかは・・・私ならβブロッカーが先です。マイナスのイメージが強いかもしれませんが、さきほどの??に関しての強力な予防に
なるのですから。

しかしそれ以前に開始しておくべきものが・・ここには書いてませんがご存知ですね。アスピリンです。これはもう、診断がつき次第飲ませてほしい薬剤です」


 なかなかいい話なのだが、すごく眠くなってきた。夜行バスで体調を崩したようだ。横にいるレジデントらしい医者は目を血眼にしてメモを取っている。
3列目向こうの医者はビデオムービーで撮影。カメラのフラッシュもあちこちでたかれている。

 ではそろそろ・・・ポスター会場へ向おう。下見はもうしてある。
「D-21、D-21・・・・」
 大会場を出ると、左奥に大きな廊下。この向こうが出入り口。まっすぐ歩いて廊下・・・建造物どうしをつなぐ長距離の渡り廊下、をわたって隣のビル。
そのビルをエレベーターで3階分降りる。僕はその隣のビルへ渡っていた。

 渡り廊下から外を見ると、おびただしい数のタクシー、人、人。世の中こんなに医者がいるのか・・・。僕はなんてちっぽけな存在だ。

ポスター会場では1つの部屋が5箇所ほどに仕切られ、1ヶ所ずつ団体で回診のように巡っていた。40-50人はいる。演者の姿は最前列に
行かないと、ほとんど見えない。

 もう終わったのか?いや・・・まだのようだ。とりあえず団体にひっついて説明を聞いていた。

「・・・この系のマウスに300mg投与しますと・・・・」
 僕も『この系の』話は苦手だ。あまりにもマニアックな基礎系の話のようだが、みんな食い入るようにデータを見つめている。
やがてディスカッションが行われ始めた。
「・・・有意差は出ませんでしたが、差はこちらのほうが若干勝っていると思われ・・・」
「その後のデータは?」
「只今検討中でして」
「2剤の併用では?」
「それも検討中でして」
「皆さんかなり白熱されておるようですが、お時間のほうもかなり差し迫っておりますので・・・」
 司会が遮り、次の議題へみんな進んでいった。

「私の系では、前投薬として・・・」

 この声は・・?そうだ。間違いない。しかし・・最前列まで行けない。姿が全くnot detected。

「マウスの死亡例が多くなったため、投与量を減量し・・・」
 
 僕は割り込みながら、なんとか2列目まで来た。すると横の2人組がなんか言っている・・。
「・・・だよね、ひょっとして?」
「ね、似てるでしょ。そう思った。」
 関東の奴っぽい喋り方だ。
「それでも25歳過ぎてるはずだもんね」
「でも足は10代じゃないの」
「どう見てもね」
 
 こいつらどこを見て・・・!
 
 正面、人だかりの隙間から、やっと彼女の姿をとらえた。
スーツの着こなしはバッチリだ。足は・・見せすぎじゃないのか。
その顔、表情は・・・やはり完璧だった。しかも何者をも寄せ付けない、
そんな冷たさまでが感じられた。

 質問コーナーは延々と続いた。暑苦しく感じた僕は、いったん人ごみから脱出した。

 ようやく終わったようだ。人塊が移動していく。彼女の姿が少し離れたようだ。しかし彼女も次の議題に
そのまま参加していくようだ。ここはジャマをせず、ゆっくりと終わるのを待とう・・・。
<注>
 平成9年あたりの内科学会が舞台となっておりますが、日記閲覧の普遍性・エンターテイメント性を持続させるため、公演の内容は平成15年以降の現代的な内容としており、ごく最近の公演などを意識・総合した内容としております。したがって実際の学会の公演内容とは異なります。


 多目的ホールといった感じの中で主催された。会場は大から小まで無限にあるようだ。
受付は何箇所もあり、そのために雇われたお姉さんたちが上品に愛想を振りまいている。
時間より少し遅れてロビーへ到着。

「ありがとうございました。ではこれが名札です。胸ポケットへ」
名札をポケットに刺し、大会場へと向った。彼女が発表する会場・時間も確認した。山城先生らに見つからぬよう・・・。
しかし心配なのは、宿泊先だ。今日から2連泊するホテルはMRの方が取ってくれた。このホテルは彼らにばれてないか?

超巨大な会場にたどり着いた。おそらく数万人が入れるのではないか。会場のちょうど真ん中に出てきたわけだが、最前列の人間は米粒に近い。
後ろは何層にもなっていて、どこもかしこも人、人でひしめき合っている。その間が廊下で何箇所も仕切られていて、いたるところにマイクが置いてある。

日本の頭脳が、いま、ここに結集している。

どこを見回しても初めて見る顔。当然だ。しかしどこか恥ずかしい僕は、会場の隅っこに腰掛けた。途中で迷惑なく退出できるからだ。
後ろのドクターは早くもグーグー寝ている。僕はカバンからプログラムと学会誌を取り出した。

間もなく前置きが終わり、教育講演が始まった。

「死因別死亡率のグラフです。一位が悪性新生物つまり癌、二位が心疾患、3位が脳血管障害、そして4位に位置するのが・・これからお話しする肺炎です
。最近は高齢化が謳われておりまして、今後も増加の一途をたどるものと思われます。
大まかには

? 市中肺炎 ? 院内肺炎  とに分けられます。

? 市中肺炎。
 病院を受診されて、肺炎と診断。ここまではいいが肺炎の起炎菌がすぐに同定できない。そういうことで悩んでらっしゃる先生方も多いと思われます。
しかし大まかに菌を推定することはできますね、はい。昔ながらの方法ですが、グラム染色。それが、その判定に有用です。しかし技術そのものに手間がかかったりで、実際
されているところはほとんどないのが現状のようですね。はい、次いきましょ。」

 グラム染色はレジデントのしょっぱなに何度か実習した。1つするのに30分はかかったな。手は紫色になるし。その割に病院への利益は少ない。
だからあまり推奨する医者はいない。呼吸器オタクには多いが・・。

「実際に顕微鏡で見えた菌が犯人とは限りません。ならどういうのが理想的か?どんな像を出したらいいのか?といいますと・・・
このように、好中球に喰われている、まさにこういった像をつかまえないことには、自信もってハイこれが起炎菌ですね、とは言いにくいのです。はい、次いきましょ。
行きすぎましたね。1個戻って・・はい。

 市中肺炎の原因菌として多いのは肺炎球菌、それとインフルエンザ桿菌ですね。肺炎球菌は周囲にキョウ膜といううすい膜を持ちますのが特徴です。
一番頻度の多い肺炎球菌。以前はすぐペニシリン系、使ってました。私も使ってました。でも最近あまり聞かないという声もある。なぜか。どうやら彼らは
私らの知らないうちに、防衛能力を高めたみたいですね。それが・・耐性、これですね。はい、次」

 思えばMRSAだって、こういう奴らが薬使え使えっていってたあげく生み出されたものじゃないか。反省会はちゃんと開いたのか?ホテルでよく
開催されてるメーカー協賛の講演会では、結局は薬の宣伝になってしまうもんなあ・・・。本音と反省が混じった講演会が聞きたい・聞きたい。

「あ、これは私がユニバーサルスタジオの時計台で撮影した写真ですね。日本でも近々できますね。はい、次。

 耐性の菌っていうのを拾い集めまして統計にしますと、なんと全体の半分くらいっていうからオドロキモモの木ですね。あ、ペニシリン系だけじゃないですね。
セフェム系も耐性示します。じゃあ何がいいのか。何が効くのか。アメリカでははい、呼吸器系ニューキノロンを推奨してますね。日本でも薦めたいですが、
この薬、大事に取っておきたい。ですので日本ではあえて第一選択とはしておりません。しかしついつい手が出てしまう人もおられるかも」

 遅かれ早かれ、みんな先走って、耐性ができてしまうんだ。ならば早い者勝ちってわけだ。僕はそう解釈した。
しかしPRSPに効くのは結局カルバペネムと記憶している。

「?の院内肺炎。院内感染違います、院内肺炎。入院して48時間たってからの感染ね。それ以内のは違います。さてさて院内ということですから病人が多い
。?の市中肺炎は健康人が比較的多いわけですね。だが院内は病人。病の人。抵抗力弱い。日和見感染。するとさきほどのグラム陽性球菌よりも
むしろ・・・陰性桿菌、それとMRSAや真菌の合併も多いですね。

 ですから市中肺炎は健康人、グラム陽性球菌、ペニシリン系。耐性あったら別。院内肺炎はグラム陰性桿菌、セフェム3世代・4世代といったふうに
覚えましょう。健康人は陽気なので陽性菌、院内患者は陰気なので陰性菌!」

 きわどい表現だな。

しかしソファーの居心地があまりにもよく、僕は次第に眠りについていった。会場でナマで聞くより、離れたテレビ会場で気楽にジュース飲みながら観戦したほうが
よかったかもしれない。

 

 目が覚めると、会場は人の出入りが盛んになっていた。講演がたぶん一段落ついたのだろう。昼をもう過ぎている。
できればいったん宿泊先のほうで受付して食事に行きたい。せっかく東京に来たから。だが何の下調べもなしなので、身動きができない。

 会場に近いワシントンホテルへ向った。受付ホールはかなりの人間でごった返していて、あちこちでエキサイティングな会話が繰り広げられている。
これだけの医者が集まれば、経済効果はかなりのものなのだろう。書籍コーナーも設けられていて、見たことのない本がたくさん置いてある。
 よく見ると今回の学会の先生の本が主体だったりする。金をあまり持ち合わせてない自分は指をくわえてただ見ているだけだ・・・。

 ワシントンホテルへ着いた。宿泊はMRの方に肩代わりしてもらって助かっている。
「えー、予約の方ですね。ユウキ様。7階です。カギを」
「はい。ありがとうございます」
「ああ、あの!電話にてのご伝言が届いております」
「伝言?MRの方?」
「・・・このようなものですが」
 受付がメモ用紙を渡してくれた。
「今日の夜は新宿までパンしゃぶを食べに・・・・パンしゃぶ?」
 これって・・・?続きを読む。
「学会が終わったら受付の出入り口で立って待ってる。絶対に合流するように。携帯番号は・・・。以上。山城より」

あいつか!
冗談じゃない。夕方にはグッチのポスターセッションに行く。彼女に会った後、あいつ等に捕まったら・・最悪だ。

携帯がかかってきても、意地でもでるもんか。


<つづく>
僕はVf寸前だった。

『最悪の事態は、身内の内容で切り抜けろ』

「・・・両親です」
「あにぃ?」
「両親と新大阪で合流するんです。彼らの旅行をかねて今回の学会に」
「親?そんなん勝手に行かせたらいいだろがぁ!」
「あ、あまり体調が好ましくなくて・・・」
 畑先生が早足で近づいてきた。
「おまえなあ、天下の山城先生がいっしょに行こうって言ってくださってるのに!」
 山城先生は目を細め、サングラスをかけた。
「ネズミよ、まあいいわ。こいつは言ってもきかんようだし」
 他のドクターも諦めたようで、山城先生が振り向くと同時に後ろへ振り向いた。

一応外まで見送ることにした。山城先生はずっと後姿だ。

「でも・・・携帯は絶えず出れるようにしとけよな」
「は、はい。そうします。来週からは宜しくおねが・・・」
「おいネズミ!早く車出せ!」
 すぐそこに止めてあった大型ベンツは急発進し、あっという間に駅前を去った。

5時半過ぎ。しかしまだ間に合う!

改札へと急いだ。
「クソッ・・・さっきの電話。たぶん彼女だったんだ・・・!」

7番乗り場下の階段まで来た。大勢が降りてくる。
たぶん・・今ちょうど電車が来たところだ。
掻き分けながら止まってる電車のところへ。

なんとか乗れた。携帯はあれから鳴ってないが・・・
「なっ?」
電源が切れている。そうなんだ。当時の充電時間は相当短いものだった。
充電器は持ってきてはいるが。
「どうしよう・・どうしよう」
電車は大きな川を渡り始めた。夕日は地平線に隠れてしまった。

「・・・しかし、間に合いそうだから、いいか・・・」

 電車はゆっくりと新大阪に到着した。
「しん、おおさか、です・・・」

 再び人ごみを掻き分け、階段を登った。

登り終わったあと、ふと気づいた。
「・・・どこで待ち合わせを?」

 そうだよ。新大阪駅、そこまではよかったが。この駅のどこで?

 あまり考えてる時間はない。

 そこらの係員に聞く。
「あの、新幹線の乗り場は?」
「あああんた、そりゃあっちだ。逆方向!」
「ひえっ・・・」

足がもつれながらも、階段を歩き続けた。
 あれが改札だ。くぐるため、入場券を・・・。しかし列ができている。

前のオバさんがモタモタ1万円札を取り出している。横の列も同様だ。
「はやく!はやく!」
 足早に足踏みするが、オバさんの動きはとろい。こうしている間にも
時間は過ぎていく。
「もう何だよ!」
 オバサンはムスッとした表情でチケットを取り出したようだ。

しかしまだ前に2人いる。
「ダメだ・・・間に合わない」
 僕は肩を落とした。しかし最後の手段に出た。
「すみません。どうしても乗らないと」
 非常識にも先頭のおじさんに頭を下げ、割り込んだ。
チケットを持って改札の中へ。目前の階段を、一気に駆け上がった。

もう時計なんて見てる場合じゃない。

「行かないで・・・これ以上!」
 呑気にも頭の中では光ゲンジの歌が33回転で廻っていた。

 階段を登りきって、強くステップ・・・しかし、もう遅かった。

新幹線はゆっくりと加速していた。
「ああ・・・」
 客席を覗くにもよく分からない。どうしようもなく、客席の顔をただただ眺めた。

ファーン・・・と、新幹線はホームを離れていった。

 ドラマだったら、ホームにポツンと彼女が1人立ってたりするはずだが・・・そんなわけもなかった。

「寝台車の券ももうないし・・・どうしよう」
 このままホームに立っても時間が過ぎるだけだし。

 僕はトボトボと梅田の改札を出た。全ての列車に乗り遅れた・・・。車で行くにも無理があるし、金も足りない。
高速道路をフルに走ると片道2万はする。ガソリンでも片道2万。ヒッチハイクで横断、など電波少年での話だ。

 ある考えが浮かび、足早に歩き始めた。足はどんどん速くなり・・・・・。


 暗くなったころ、ガガガ、ガルーン・・・と1台の大きなバスが駅前に止まった。

その最後尾・左に僕は腰掛けた。両足を伸ばし、寝る体勢に。夜行バスだ。早朝には東京へ着く。

「絶対、出席するぜ!」




<つづく>
 やっと僕らの順番だ。オーベンは貴公子といった感じだ。
「先生、おめでとうございます!」
「おう!ああ!松本先生!学会の前なのに・・・」
「いやあ、わしは学会は行かんから・・」
 須藤さんは・・美しい。それで十分だった。彼女はニコッと大人っぽく微笑んだ。
「センセ。頑張ってね」
「オーベンの字のこと。しゃべったね?へへ」
「フフ。象形文字は笑えたわ」
「看護婦は辞めたんだね」
「うん。主婦業に専念する」
 子供も生まれるもんね・・・。
「でもなあ、須藤さん、いや、加藤さん。これ以上は言わないで・・・頼む」
「言わないで・・これ以上?」
「そう。これ以上!ハハ・・じゃ!」

 司会が入ってきた。
「それでは歌のほうを。ユウキ先生」
 と、トップバッターかよ?聞いてた順番と違う。
「それではどうぞ。『君がいるだけで』」

 音楽が始まった。歌詞は・・目の前だ。よかった。
「たっとえばぁー、きみがいるだーっけで・・・」
 目から火が出るほど恥ずかしいとはこのことだ。
しかし会場は全く関心ない様子だ。それにしても・・医者ばかりだ。

ここは結婚式会場というよりも・・・学会会場だ。
みんな家族でなく教授への挨拶に力が入ってるようだ。

「ララララーラララ・・・あれ?」
 音楽がいきなりフェードアウトした。画面でも歌詞がでなくなっている。
今の「あれ?」もカメラに収まったんだろうか、と考えながら退散した。
腕時計を見ると・・夕方の4時だ。川口は大学をもう出るのだろう。
彼女と合流したい僕は、大学へ連絡せぬまま、劇的な再会を期待することにした。

それにしても・・・梅田が会場でよかったな・・。

「新大阪駅に、6時、6時・・・!」

 会場はそろそろお開きの雰囲気だった。
佐々木先生が歩いている。オーベンのところへ向っていった。
「あ、佐々木先生・・」
「おう、歌、うまかったぞ」
「先生もご出席で?」
「オマエも来いよ!」
「さきほど挨拶してき・・」
「来いって!」
 彼も完全に酔っ払っていた。

 再びオーベンのもとへ。須藤さんは看護婦連中と写真撮影会だ。

「加藤!」
「佐々木!」
「オマエんとこのコベン連れてきたぞ!ま、コイツはこれからかな!」
「お前が手ほどきしてくれたんだろ?救急は」
「でもオマエ、オーベンだろ!もうちょっと厳しくあたらんと!」
「教えることは教えたよな、なあユウキ君!」
「ヒック・・・ちゃあんと教えておいたからな。DICにはアドナはいいけどトランサミンは・・」
「おいおい!心不全にメイロン1本250ml全部入れやがったのは・・・?ナトリウムどんだけ入ったことか!」
「ヒック・・それくらい!」
「ユウキ君はナトリウムにうるさいんだぞ!なあ!」
 
 僕は笑いが止まらなかった・・・。

披露宴は終了。万歳三唱で締めくくった。佐々木先生が握手を求めてきた。
「内科学会か、これから」
「ええ」
「新幹線だろ」
「はい。このあと大阪駅からJRで」
「もうちょっと行こうや、なあ!」
「喫茶店ぐらいなら・・」
「オマエがこの前言ってた店・・・・行きつけのほら・・・ババアのいる・・・ピエロかペテンかってとこ」
「ああ、ありますね」
「オマエがいいって言うからこの前行ったけど・・・なんか店閉めるような雰囲気だったぞ」
「閉める?」
「メニューもさっぱしでな。だから帰った」
「・・・・・」
「どうしたんだ?」

 ビルの外で、店に電話した。が、つながらない。
「本当に閉めたのかな・・・」
 まだ少し時間がある。僕は徒歩でそこまで歩いた。
店は・・・やはりまだ営業時間に入ってないようだ。
しかし・・・ドアは半開きだ。

「し、失礼します・・・」

 奥のほうでドン、ドン、といった音が聞こえている。店の中はテーブルが1つもない。壁に貼ってあった
ポスター・絵も全てなくなっている。
 ドン、という音が止み・・・向こうからオバちゃんは出てきた。顔はいつもの白塗りようでなく・・・ふつうの
老人、というか老婆だった。険しい表情だ。

「何」
「結婚式があってね。で、寄ってみた」
「何」
「店、今は・・やってないの?」
「もうやってないよ。見りゃわかるだろうが」
 オバちゃん・・老婆はタバコをスッと取り出し、つけた。
「春になったら花見がてら、お客を連れてこようかと・・」
「ああいいよ・・・・でもアンタ、いつもと同じだね」
「?」
「言い訳ばっかりだよ」
「・・・・・」
「口先ばっかりだしね、いつも」
「・・・悪かったな」
 険悪な雰囲気になってきた。
「なんか教えて欲しいことでもあるの?そうだろ?」
「・・・これから学会に行くんだが。川口もね」
「ああ?お嬢ちゃんね?はいはい。男がいるかって?」
「いや、そこまでは・・・でもオバちゃんはいろいろ知ってるだろ」
「ハン!あんたにはもったいない、よく出来た子だ。マジで。教えたろか?」
「あ、ああ」
「じゃ、これ!」
 老婆はトントントン、とカウンターを手で叩いている。
「・・・金?」
「善意で人助けして金もらってんだろ。あたしの善意も買い取ってよ」
「・・・こんだけしかないけど」
「・・・こんだけって・・・ま、これでいいわ」
 老婆は僕の財布から3万抜き取った。
「なんだったら・・・・するかい?」
「な、何をだよ?」
「ハッハハ・・・冗談だよ。じゃ、教えるよ。あんたのオーベンだよ」
「え?・・・・どの?」
「あんたを心配してたって、ヒント言っただろが!」
「く、窪田先生・・・?」
「そ、カマっぽい先生。アイツ、あんたの前では彼女に冷たくしてただろ?」
「そ、そういえば・・」
「その頃にはスタートしてたみたいだね」
「・・・・・」
「みんな知ってんだよ。知らないのは、あんただけ」
「・・・・そっか」
「女は待たされたら生きていけないんだよ。じゃ、もう勝手に帰りな!」

 店から追い出されるように、僕は商店街に躍り出た。


 今夕方5時すぎ。本来ならそろそろJRで新大阪へ向わないといけない。
そうか。彼女の横の席は、窪田先生の席だったのか・・・。で、僕が?
だとすると、これは屈辱だ。侮辱だ。

 しかしそれとは反対に、駅まで駆け出してる僕がいる。
コートに入れてた携帯をみると・・何度か電話があったようだ。着信元はもちろん不明。
ズボンに差し込んだ。

 正気でない僕は、みどりの窓口へ向った。
「これ、寝台の券。一部だけでも払い戻しを・・・!」
 お金をつかんで、時刻パネルを確認しようとした。

 ズボンの携帯がブーブー鳴ってる。彼女か?
「も、もしもし!」
「梅田か?今!乗ったか?」
僕は反射的に答えてしまった。
「いや!これから!・・・・誰?」
「ちょうどいいな」
 電話はプツンと切れた。
「もしもし・・・!」
 それきり電話がかからない。一体誰が・・・。


<つづく>
 次の日午前中の外来業務・・検査の手伝いを終えて、荷物出しを横から見守った。
事は順調に運び、部屋はあっという間に空っぽになった。
「1年か・・・・短かったな・・・」

 引き続き、不動産屋へ向った。敷金がいくら返ってくるか。部屋もほとんど傷がないし、けっこう戻ってくるんじゃないか。
「ハイハイ、お引越しされましたね。鍵ね、はいどうも」
「急ぎます・・・部屋まで一緒に」
「ハイハイ」

 明るく威勢のいい兄ちゃんと一緒にアパートに戻った。
「フムフム・・・・傷も特にないしぃ・・・」
「ないと思います。敷金が帰ってきたら引越し代の一部にしようと」
「フフンのフン・・・」
 天井を見回し、にいちゃんは軽くため息をついた。
「お客様のおっしゃいますとおり、弁償の対象となるような傷はございませんね・・・ただし」
「た、ただし?」
「その壁のクロス。引越し時はお客様負担の張替えとなっておりまして」
「?」
「1枚が1万なので・・・合計8万円です。それと、その他もろもろ総合的に見積もりますと・・・・合計13万円になります」
「し、敷金が12万でしょ?これじゃ、逆に・・・」
「そおですねえ、逆に1万円払っていただかないと・・・」

 この頃から、不動産の印象は悪い。

午後は車を医局前に移し、医局の荷物をまとめにかかった。またしても読んでない本が山ほどある。
それを大切に箱に詰めてしまう哀しさ。
 車の中は箱や本で一杯になってしまった。

 急いで新天地へ出発。車はいつもの勢いがない。本がそれだけ重たいということなのだろうか・・・。

 医師官舎。ツーバイフォーといえば聞こえはいいが、築30年以上は経ってそう。黒ずんだというか灰色の建物だ。
間取り的には3LDKはあり、家賃は月2万円と破格。家族への配慮がなされている。4月からここで1人暮らしだ。
病院は目と鼻の先。病院を抜けると海岸があり、砂浜が左右に拡がる。潮風が砂とともに吹き付けている。
 その病院は・・・前回勤務した病院ほどマンモスではないが、最近改装されたせいかキレイで、すごく近代的だ。

「この前見たような景色だ・・・」

 結婚式出席のためわざわざ購入したスーツ。お金を2万円ほどつつむ。貯金など全くない状態だ。
タクシーで、とりあえずJRの駅まで行こうとした。すると・・携帯が鳴り始めた。誰だ?ひょっとして・・・
あいつらか?学会が終わるまでは、電話は出ないようにしよう。
 しばらくするとまた鳴り始める。
「うっとうしいな!」
 電源を切った。しばらくして留守電を聞いた。
「・・・川口です。元気?」
「おおっ!」
 携帯を右耳に密着させ、僕は天を仰いだ。
「・・・今日の夕方の新幹線で行きます。医局員の1名分が都合で空いたので、よかったら・・・。2人で行くことになるけど、いいかな・・・」
「なに!2人!それイイ!」
 官舎のベランダからどこかの奥さんと思われる人が覗いている。僕は背を向けてゆっくりと歩き始めた。
「・・・では、新大阪駅に6時頃。早めに着いて待ってるね。無理なら、大学へ夕方4時までに電話を。わたし携帯持ってないので」
「よし!よし!」

 梅田発、寝台特急の券が払い戻しにならなくとも・・・!

式場は豪華絢爛なホテルの教会で用意されていた。ただし教会は身内のみで、僕らは披露宴からの参加となった。
丸テーブルが20くらい。1テーブル10人くらいいるんじゃないか・・・?カメラマンが2名。僕は中間よりやや後ろ。その前は
みんなドクターだ。司会のおきまりの挨拶が終わった。
「それでは入場です!」
ステージにモクモクと煙が上がった。すると・・・はるか上方からゴンドラのようなものがゆっくりと降りてきた。派手な音楽が鳴り響く。
そのゴンドラの中に現れた、オーベン、白装束。横に須藤さん。金のドレス。肩は丸出しで胸まで・・見えそう。
照明は激しく点灯し、爆発音みたいにも聞こえる。

ようやく落ち着いたようだ。

同じ丸テーブルの僕の右横には「伊藤」の字があるが・・彼は来てない。1つ向こうの主任ナースが話しかけてきた。
「大変ですねえ。伊藤先生も」
「え?」
「今日はムンテラがあって来られないと」
「ムンテラ?あいつも、もう明日から転勤でしょ?」
「ホラ、例の心カテの事件」
「事件?合併症なのに」
「家族が医療関係の人でね。これからかなりもめるんだって」
「・・・そうか、そういや吉本先生も来てないな」
「訴訟にするとか言ってたわ、その患者さん」
「・・・で、君は・・・?」
「?」
「そのとき、なんて言ったんだよ?」
 ナースは固まった。

左の松本部長・・一般内科の部長が話しかけてきた。すでに酔っ払っている。
「まあまあ、飲みなさいな!嫌なことも全部忘れて!」
「あ、ありがとうございます」
「あそこにいるだろ、前の・・・白髪の!あれね、彼の医局の教授」
「教授・・仲人なんですね」
「わしも仲人したいなあ」
「え?」
「仲人はいいよ。ヘッヘ。教授なんかさ・・」
「何か・・・あるんでしょうか」
「大学の医局員の結婚式で仲人っつうたらアンタ、教授しかおりませんがな」
「え?じゃあ・・式の日取りもそれで?」
「当たり前よ。教授の都合に合わせないと・・・アンタ結婚は?」
「まだです」
「金、貯めとめよ。医局にもよるが、仲人への相場っちゅうもんがあるからなあ。はい、グイっと!」
「ウプ・・・・どれくらいで?」
「100万が普通の相場だろ」
「ええっ?」
「伝統のあるとことかは300万とかね。医局員に聞いてみなよ。ヘッヘ」
「そんな金・・・」
「教授っちゅうのはアンタ、給料少ないんだよ。今のアンタの2−3倍だ、せいぜい」
「はあ・・」
「だからこういう舞台で儲けるんだ。あとお中元、お歳暮ね」

 この人、飲んだら面白い人だったんだな。救急のときは印象悪かったけど。
嫌な奴はいても、悪い奴はいないんだな、きっと・・・。

 タキシードの兄ちゃんがやってきた。
「ユウキ先生でございますか。歌のほうですが・・」
「え?もう?」
「申し訳ありません。ガッツ出せ、のほうはまだ入荷しておりませんで・・」
 タイトル違うよ。
「あの、ガッツだぜ、なんですが?」
「ガッザーゼ?」
「違う!ガッツだぜ!」

 周囲が部分的に静まり返った。

「申し訳ありません。このような曲しか・・・」
「こんだけ?てんとう虫のサンバ、娘よ・・・いつの歌だ?これ?あ、でも冬のファンタジー・・・」
「どれになさいますか・・・」
「しょうがない!これ!」
「かしこまりました」

 みんな上座のほうへ1人ずつ歩いている。僕も行かないと。
「松本先生、ちょっと行って来ます」
「わしも行く!」
 タコのように赤くなった部長と僕は、列の後ろに並んだ。
「ユウキ先生。佐々木君がえらく君を褒めてたな」
「佐々木先生が?」
「救急で2回ほどいっしょになったんだってな」
「いや、それほどじゃあ」
「いやいや、能力的にという意味ではない。その手段を選ばないところがいいらしい」
「?」
「まあ適当にウソついて小児科医呼んだりとか問題にはなったが。すべて患者のためやったことだ」
「そのつもりなんですが」
「だが大学の支配下にこれからもいるのならな、流れには逆らわんほうがいい」
「流されろ、と?」
「そこまでは言わんよ。だがあまり目立ってもいけない」
「・・・・」
「なんか見てると心配でなあ。君が。いったん病院も休んだってな」
「体調がちょっと・・」
「ま、気持ちは分かるがな」
「・・・・・抜去します!」

 カテーテル検査が終了。まだ冬なのに汗だくだ。帽子、マスクを勢いよく外した。
後ろで西岡先生が手を叩いている。
「そうだ。わかってきたな!」

 それは、やっと・・・合格のサインだった。3月、転勤前のまさにギリギリのことだった。
後ろから伊藤が肩を組んできた。
「やったな!」

 西岡先生はすぐに真顔に戻った。
「さ、次は前下行枝のPTCAだ!伊藤!早く着替えんか!」
「は、はい!」
「セカンドだからって、なめるなよ!」
 術者は吉本先生。伊藤が右について補助。僕はカテ患者の止血をしながら、ガラス張りの向こうを眺めていた。

58歳男性患者が語りかけてきた。
「・・・・もうあんな血管見てしもうたら、無理やな」
「無理って・・・何が?」
「もうタバコは辞めなあかん。あれを見て悟った。あれがわしの血管なんや」
「そうですか。そう決心されたなら・・・」
「動脈硬化はこれで押さえされまっか?」
「動脈硬化を進めるもの・・・このうちどうしても防げないものがありますがね」
「タバコ辞めて、糖尿も血圧も問題なくてもでっか?」
「ええ、それは・・・加齢です」
「カレー?」
「年齢です」
「ああ、まあ年が年やからな・・・」

 ガイディングカテーテルという太いカテーテルが挿入された。入れているのは・・・伊藤だ。上目遣いで必死だ。
この太いカテーテルを冠動脈入口部へ持って行く。そこを通して風船セットが入るわけだ。だからこの管は・・
太い。

「なあ先生、先生よ」
「あ、はい?」
「先生もやっぱどこか行ってしまうのかいな」
「ええ。今月末で退職です」
「なんや、もうお別れかいな」
「仕方ないです。大学の・・」
「ああ、教授の命令やな。絶対に逆らえん、逆らったらあかん。嫌われたら終わりや」
「ある意味当たってますね」
「教授さんはあんた、雲の上の人やで。あんな人に見てもらうなんて、ほんと一握りの人間なんやろな」
「え?それは・・・」
「先生もはよう博士になって完璧な医者になって下さいな」
「博士っていうのは・・」
「博士は博士やんか。100人に1人しかなれんだろ?」

 こういう化石の記憶を持った人、いるよなあ・・・・。

 いつの間にか、吉本先生が造影をしている。何やら、終了のようだ。バルーン拡張は終わったのか・・・?

職員が中に一斉に入り、片づけが始まった。こちらも止血が完了した。

しかし・・・中の様子が変だ。伊藤がかなりうなだれている。吉本先生も思いつめたような表情だ。

林部長が外の廊下から入ってくる。西岡先生と一緒だ。フィルムを再生している。
「西岡君、やっぱいかんだろう、早すぎだよ」
「ガイドカテならいいかと・・・」
「でも君、どう本人に説明する・・・?」
「そこは私が、なんとか説明を」
「フー・・・君のそういうところ・・・危なくて付き合ってられんな」

 部長は捨て台詞を残し、廊下へ出て行った。西岡先生が悔しそうに画面を見ている。
僕は技師さんに問いかけた。
「何度も映ってる血管・・・これ、左冠動脈の・・主幹部ですよね」
「ああそうだ。造影したら、それ以降の2本に有意な狭窄」
「拡げなかったのは・・・」
「主幹部、見てみろ。造影の画像がこれだ」
「・・・よく分かりません」
「動脈の壁が剥がれてる。これがダイセク、ディセックション・・解離だよ。狭窄を作っちまった」
「作った?」
「あの太いガイドカテを、押し込みすぎたんだ。運悪く、血管にとって太い径のカテだったんだ」
「・・・じゃあ今後は・・・」
「バイパス術だろ。心臓外科の奴ら、怒るだろうなあ」

 本人が一番ショックだろう。伊藤は弱気な顔のままだ。職員は次々と引き上げた。
吉本先生も手袋を外し、立ち去った。僕は伊藤の斜め後方に立っていたが・・・。

 何も言葉をかけれない、この無力さ。それだけを感じるだけだった。

 伊藤はそこで、静かに泣き崩れてしまった。

 しかしその男泣きは、明日のための泣きだった。


 僕の勤務もあと2日。入院患者はほとんど他のドクターへ申し送った。
医局に戻り、そそくさと帰ろうとした。オーベンが入ってきた。
「おう!さてさて!」
「?」
「結婚式では何を歌ってくれるのかなー?」
 オーベンが後ろから肩を揉み始めた。
「いいっ?やっぱ歌わないと・・」
「歌う歌、早く教えてくれい!」
「そ、そうですね・・・じゃ、ウルフルズの・・・ガッツだぜ!はどうでしょうか」
「ガッツ・・・ほお、なかなかいいタイトルだな。看護婦さんらは、冬のファンターとか、アイムプライドらしいな。最近の歌は分からん」
「じゃ、練習しに帰ります」
「ああ、それと。2次会はどうする?」
「結婚式が夕方ですよね。内科学会への列車のチケット時刻が・・・これです。披露宴終わって3時間後に駅を出発」
「夜行か?で、次の日が学会か。申し訳ないな」
「とんでもない。先生今日で終了ですね。オーベン、ありがとうございました」
「ま・・問題はいろいろ残るが。頑張れよ」

 僕は自転車で急いで帰った。引越しの準備があるからだ。
約束の時間、宅急便の人は待っていてくれた。
「こんばんは!」
「ああどうぞ、この部屋です」
「・・・じゃ、予定通り、明日搬出ということで。大阪府外ですね?」
「はい。新しい勤務地は隣県なので」
「地図はここですね。ここから2時間。夕方5時に合流して荷物の運び出しね」
「はい」

 次の日の昼、病院からいったんアパートへ戻って、運び出し。不動産へ行って鍵の返却。で、また昼から勤務。夕方早めに早退して、
隣県へ車で。そして荷物を入れる。今度住むのは強制的に医師官舎となっている。で、次の日が結婚式。また大阪へ戻る。
披露宴が終わったら1時間かけて駅へ。寝台に乗れたら一段落だ。

「明日は忙しくなるぞ・・・」
ダンボール箱の海の中で大きく伸びをした。
と、セルラーの呼び出し音が鳴った。
「もしもし」
「わしや。山城や」

 どうしてこの番号を?

「こんばんは」
「今、どこや?」
「ここですか、ここは・・・まだ仕事中です」
「いつ終わる?」
「申し送りがいろいろとありまして」
「だから、いつなんや?」
「夜中だと思います」
「あさって、一緒に行くぞ」
「え?」
「明日引っ越してくるんだろ。わしらのもとへ」
「は、はい」
「そこから車で行くことにしてるんや」
「車で?」
「ああ。わしのセルシオでな。運転も途中で代わって欲しいしな」
「先生、自分はもう寝台特急を・・」
「それキャンセルな。学会終わったら翌週からわしらの仲間や。一緒に行こ」
「出発日には結婚式もありまして」
「ああ、加藤な。あんなアホの結婚式なんか行くな」

なんて失礼な奴だ・・・。

「アイツは講演会で質問攻めでボコボコにしたったからな、わしが」
「・・・・・とにかく先生、自分は自分で行きます」
「ちょっと待て、みんなに聞いてみる・・・・・・・・・わかった。向こうで捕まえることにする」
「捕まえる・・・」
「東京に着いたらケータイに電話する。じゃな」

なんて感じの悪い・・・!

<つづく>
 夜中3時、ポケベルが鳴った。

「も、もしもし・・・」
「伊藤だ」
「伊藤?今日の拘束医は俺じゃないぞ・・・」
「急患だ。AMIだ。全員集合だ」
「そうか・・・わかった・・・よ」
 
 電話を切り、3秒だけ長いため息・・・。
「こんな時間にもう!よし、行くぞ!」 
 眠りかけたのは朝1時。しかしこんなのは日常茶飯事だ。果たして何歳までこの仕事が勤まるのだろうか。
自転車をこぎながら考えた。カテ年齢は40歳代までという。50歳からは眼がついていきにくいと。しかし西岡
先生のように50過ぎてもカテに命をささげる人もいる・・・・。
 自分はいったい、どうなりたいんだろうか・・・。

 このまま流されていいのだろうか・・・?

 一生使われる身なのか・・・・?

 カテ室へ。患者は既に運ばれていた。西岡先生が着替え始めていた。
「伊藤、t-PAは準備したか?」
「オッケーです!」
「同意書は?伊藤?」
「これからです!」
 伊藤が横になった患者の耳元でつぶやく。
「あのですね。これは治検薬でして・・・新しい血栓溶解剤なわけです。今から投与しようと思います」
 50代で働き盛りっぽい男性は苦悶状の表情だ。
「ああ、もう、何でもいいから!早くこの胸の痛み、取ってくれい!」
「それでですね。治験薬ということなので、本物でない場合もあるわけでして」
「ハア?もう何でもいいから、説明はあとにしてくれい!」
「そのですね。説明してから同意書というのを頂かないと・・」
 
 西岡先生が患者の間近を通りかかった。
「伊藤。早くしろ!家族は来てないんだ。本人から早く同意書を!」
「は、はい!・・・あのですね。こちらにサインを。拇印でよろしいですので」
「ああ・・・!こ、これでいいだろ!」
 伊藤がオッケーサインを出した。
「投与開始です!」
僕は伊藤と反対側、患者の頭右側についた。
「伊藤。治験なのか、これ」
「ああ。新しいt-PAのな。末梢静脈投与だ」
「もしこれがハズレで、血管が拡がらなければ?」
「そのときは西岡大魔神が風船で拡げてくれるさ」
「なるほど・・・」

 しばらくして、血管造影の体制に入った。西岡先生の横はオーベンだ。
「加藤君よ。大学へは助手で戻るのか?」
「ええ。また貧乏ヒマなしで」
「30万くらいか?」
「大学はね。でも名義は他の病院です。そこから40万くらいでしょう」

 大人の会話だ・・・。西岡先生がコロナリーを造影。
「右冠動脈の起始部に完全閉塞。もうちょっとして造影する」

 患者はまだ苦悶様だ。僕は話しかけた。
「患者さん、いや、失礼。痛みは一番ひどいのが10なら、今は?」
「20はあるんちゃうんかああああ!」
「伊藤、薬が当たりかハズレか知ってるのは・・・・?」
「医者は誰も知らないよ。薬を管理してる役人に聞けよ」
「・・・・・」

 モニターのSTは上がったままだ。西岡先生はまた会話を始めた。
「加藤君よ。これから子供作るんだったら、被曝せんほうがいいのでは?」
「・・・それがその・・・」
「んん?」
 西岡先生が不意に足のペダルを踏んだ。うっかり部屋に入っていたオバサン看護婦が一瞬被曝した。
「うわ!」
「ああ、すまんすまん。じゃ、加藤君よ・・・・・オメデタ?」

 オーベンの露出した眼がニッコリ笑った。

 そうだったのか。なぜか、ショックだ・・。

「おいユウキ、輸液速度!」
「え?」
「吉本先生が横から指示しただろ!本体輸液!時間60ml/hrへ上げろ!」
「あ、ああ!時間!60ml/hr!・・・ふう」
「君が大好きな、右室梗塞っぽいよ」
「伊藤が診断したのか」
「ああ。来週はPTCAも少し手伝えるって」
「2年目でか?凄いな」
「ガイドカテの挿入だけだよ。だが、これで大学に自慢できる」

 モニターのSTが、突然下がり始めた。伊藤がうなった。
「西岡先生!ST、改善してきてます!」
「そうか!じゃ、造影のじゅ・・・」

 突然、波形が乱れアラーム音が鳴り始めた。西岡先生が素早く反応した。
「VTだ!そら!」
 胸部殴打。しかしVTは改善しない。患者は意識不明で痙攣し始めた。
僕らは全力で押さえにかかる。西岡先生、オーベンも患者を支えるのに精一杯だ。
伊藤は患者の左側で、器具も救急カートもない側だ。

西岡先生が患者を抑えながら必死に声をかける。
「き、キシロカインを!」
患者のブンブン振り上げる手が、右側の点滴台を倒し、救急カート上の薬瓶が次々と倒され、割れていった。
「何やってんだ!キシロカイン!・・・・レジデント!頼む!レジデント!」

伊藤はパニクって患者を抑えたままだ。

どうしたら・・・?

『先生・・・君がやるんだ』
「僕が・・・?しかし・・・」
 看護婦が救急カートへ走ったが、手が震えているようで何もできてない様子だ。
 と、部屋の隅に、それはあった。
『あれで、やるんだ!』
「よし!伊藤!押さえてろ!」
 僕はDCを引っ張ってきた。幸い充電中のままだ。

『慌てるな。君はジェームズ・ボンド君だ。クールに!』
「僕は、ボンド、ボンド・・・・」
 周囲は大パニックとなっていたが、目の焦点を中心に合わせたとたん、気にならなくなった。
『台は患者のなるべく近くに!』
「なるべく、近く・・と!」

以下、スローモーションのつもりで。



 両手でパッドを取り出した。西岡先生が気づき、患者に被せてる布をバサーッと剥ぎ取る。
大魔神というより、闘牛士のようだ。

充電セット、ウィーーン・・・・と電圧がみなぎる音。

オーベンがDC用の湿ったシートを2枚被せた。伊藤はモニターを外す。

あとは・・・

『右と左は間違えてないか?』
「?」
 よく見ると、間違えてる。患者の体の上で交差し、持ち替えた。
「200ジュール!いきます!」

 西岡先生が頷いた。

 ズドンという音とともに、患者の体がエビ反りに一瞬反り返った。

 一瞬辺りが沈黙し、伊藤がモニターを再装着した。みんなが一斉にモニターを見やった。
伊藤が絶叫した。

「やった!サイナスだ!STも!戻ってきてる!」
 すかさず西岡先生が血管造影。
「よおし!閉塞解除!」

 ウォー!と周囲が沸いた。ガラス張りの向こうの技師の人々もだ。
残りの造影も終了し、汗だくの西岡先生はマスクを下に外した。
「ユウキ先生!よくやった!」
「ええ、こちらにDCがあったもんで」
「よく落ち着いて行動した!」
 よく見ると、西岡先生は泣き顔だった。
「そうだ。それを忘れるな!この経験を一生忘れないことだ!」

 ストレッチャーは総勢8名で、病棟へ上げられた。先頭は僕と点滴台だ。
 誰にも見られてないのをいいことに、僕はしたり顔だった。

『フォースはいつも、君とともにある・・・』

 
<つづく>
 昼の平日、伊藤と僕、坂本は昼食をいつもの食堂で終えて、長い廊下を歩いていた。
年月が経つにつれ、言葉遣いも馴れ合いになってきたのは良いことだ。診療がスムーズ
に運ぶ。

「ユウキ、山ザル先生の病院からのお呼びは?」
「山城先生の病院?気が滅入るなあ、その話題。そこのレジデントはノイローゼになってるらしいんだが。重症患者のことがあるので任期が延びてる」
「山城先生の独断でか。大学が任期を決めるんだろ、本来は?」
「君の大学病院はどうか知らんが、大学以外でも主導権を握っている病院ってのはあるんだよ」
「人事に口を挟めるってわけか」
「でもなあ、重症患者がまだ片付かないからって、まだ病院に引きとどめるって・・・よく問題にならないな」
「そのうち誰か死んだりして問題になったりしてな」
「誰かって・・僕のことかよ?」
「さ、さあ、私では分かりかねますが・・・」
「こいつ!その言葉、イヤだって言ってるだろっ!」
 僕はふざけて彼の首を掴み、揺すった。坂本が呆れている。
「なーんか、もーいいかげん大人になってほしーなー・・・」

 彼女の研修も2月末で終わる。あと数日を残すのみで、心はもうここにはない。

「さ、総回診だぞ」
 吉本先生が全員を揃わせ、回診を始めた。部長は今日は出張でお休み。
「Unstable APで54歳。主治医は伊藤か」
「はい。ニコランジルの点滴で症状は改善しています」
「じゃ、カテーテル待ちか」
「はい。予想は?どこの病変を?」
「エコーでは後壁の動きが悪いような・・」
「悪いような・・・って表現はないぞ。なんとかなカンジ、とかそういう言い回しもな。最近の若い奴に多いな
あれたしか・・・パヒーかいうグループだったよな、そのような・・・」

 みんなクスクス笑い始めた。緊張の合間に自ずとこういうリラックスムードが出てる職場は魅力だ。

「次は・・・ユウキ先生か」
「誤嚥性肺炎の患者。低ナトリウムあります」
「輸液・・ナトリウム多いな。それと利尿剤か。ひからびてないかい?」
「確かに浮腫はありませんが、これは・・」
 吉本先生はカルテを覗いた。
「SIADH?確かか?」
「はい、血中浸透圧<尿中浸透圧ですし」
「しかしナトリウムは今でも124mEq/Lと低いままだぞ」
「デメクロサイクリンを追加しようかと」
「抗生剤がナトリウムを上げる?どういう機序で・・・?」
 坂本が待ってましたとばかりに前進してきたが・・・
「ああ、もういいもういい、僕も調べとく。坂本くん、ようく分かったから」
「あたし、まだ何も喋ってませんが・・」

 循環器の医者は、とかく長い話を嫌う。

「次もユウキ先生か。労作性狭心症」
 吉本先生は高価な黄金聴診器を患者の胸に密着させた。
「・・・で、ユウキ先生。病変はどこが疑われる?」
「病変・・・責任病変ですね・・運動負荷心電図がこれです。II・III・aVFでST低下が2mm以上あります」
「エコーのほうは異常なしか・・・うん、で?」
「右冠動脈かと」
「そうなの?」
「後・下壁の虚血でないかと」
「どうして分かるの?」
「え?だって・・・II・III・aVFだから・・・」
「心筋梗塞のST上昇だったら分かるがな」
「え・・ええ」
「君はレジデント2年目か。まだ分かってないな。週間ジャンプばっかり読むからだ」
「は、はい」
「運動負荷試験というのはあくまでも定性試験なんだ。部位特定はできない」
「そ、そうだったんですか」
「おいおい。STが下がる誘導はR波が高い誘導なのだ。だからR波の高いII・III・aVFが下がったんだよ。しかし、こんなことも・・・」
「申し訳ありません・・・」

 後で聞いたが、意外にもほとんどの医局員が知らなかった。

 みんな詰所へ入った。オーベンが近づいてきた。
「そろそろ僕のほうも転勤の準備をしなきゃならん」
「先生、それに結婚式も。内科学会は?」
「行かない、というより行けないよ。新婚旅行もあるしね」
「大変ですね・・・転勤後は帝大へ?」
「ああ」
「須藤さん、いや、奥さんもそこへ?」
「知らないのか?彼女はもう辞めたよ」
「そ、そうなんですか」
「・・・なんか、伝えておこうか?」
「いえ・・美男・美女カップルで何よりです」
「しかしな、大変なんだよ、これからが」
「?」
「別れた妻・子供3人への養育費・・・これからもついて回る」
「3人?」
「大学勤務で養育費とは、痛すぎる・・・」
「しかし寂しいです。先生のカルテもお目にかかれなくなるとは・・」
「彼女から聞いたぞ、こいつ。俺の字が象形文字だと!くっくく・・」

 彼女はアイドル系、オーベンはダンディ系・・・勝ち目はないや。

 いい男には、かなわないなんて、言い訳だよね、あーーーーーあ・・・・・。

医局へ戻ると、手紙が置いてあった。大学・・・川口からの診療情報提供書だ。
中身はひょっとして・・・ありえない、ありえない。

「今回は紹介患者を精査・加療頂き、誠に有難うございました・・・」

 何を改まってんだよ。

「ユリちゃんは治療に協力的で、症状にも改善を部分的ではありますが認めるようになりました」

 なんだ、これだけか・・・。

 すると、もう1枚・・メモが入っていた。

「なになに・・・先生、内科学会は来るの?会える日を楽しみにしています。私はD21会場のポスター会場で発表を・・・」

 伊藤が医局に入ってきた。
「・・・何、読んでるんだ?心カテの手伝いに、そろそろ・・・」
「ちょっと待て!」

「宿泊は帝国ホテルの・・・・よし!」
「え?」
「行くぞ!内科学会!」
「え?学会?発表でも?見るだけだろ?」
「見るだけ・・・ンなわけない!」

 僕の心は、もうこの病院にはなかった。


<つづく>
 週末は行きつけの飲み屋へたむろした。野中を誘った。
「オバちゃん、こんにちは。お客さんをもう1人連れてきたよ!」
「ああ、ユウキ先生!元気かい?野中先生も!」
 僕と野中はスキスキのカウンターに腰掛けた。
「僕は・・ジントニック。野中は・・」
「モスコミュール」
 店の中が少し寂しい。そういえば、いつもオバちゃんの横にいた女の子もいない。
「最近は景気が悪くてねえ・・・あんたらはいいよ、その点」
 僕はかなり気をつかった。
「こっちは大変だよ。バイトはほとんど禁止だし。部屋代と光熱費を出したらほとんど残らない」
「バカいうな。俺のほうはもっと悲惨だぞ」
 野中が言い返した。
「ユウキはいいさ、しばらく大学に戻らないんだろ?これから給料は上がっていくさ」
「しばらく、って・・戻らんよ。永久に」
「そうはいかないって」
「大学だって時間外のバイトでかなり儲かってるだろ?」
「上の院生はね。月80万って先生もいる。休み全くなしでね」
「よその病院で臨床の修行してるのかい?」
「まさか。寝当直だよ。俺たちに廻ってくるのは山奥の健診や献血車ばっかだよ」
「・・・臨床はやってるか?」
「院生になって、ほとんどやらなくなったな。カンファレンスには出てるけど。たぶんお前のほうが出来るだろな」
「いや、そんなはずはない。野中や川口らのほうがよほど・・・」
「グッチか。彼女はもうティーテル取れそうだな」
「学位を?」
「ああ。バックアップもいいしな。手取り足取りだしなあ・・」
「手取り足取り・・・?」
「松田っちを大学から追い出して、そのデータをすべて彼女に提供したんだぜ」
「だ、誰なんだよ、それ」
「そいつ多分、グッチに気があるな・・・」
「あそう、まあいいじゃないか」
「お前のために言ってやってんだぜ」
「こ、困るな・・」
「そうだ。困っただろ。さあ、どうする?彼女をそのままそいつに取られるか・・・」
「誰だよそれ。その提供した先生は」
 オバちゃんがなんか嫌そうな顔をした。野中が横目で察したようだ。
「ま、俺が言いたいのは・・・女は待たせたら、冷めるってことだよ」
「・・・・・・」
「どうでもいいなら、早く昔の女とヨリを戻せ。今のオーベンの女に見とれてる場合じゃねえぞ」
「野中、それ、どこから・・・」
「ああもう、話変えよう」
 オバちゃんの動きが止まっている・・。大学の情報ってのは意外と飲み屋とかに眠ってるからな。
特に人間関係。みんな様々な憶測や嫉妬、悪口をここでばら撒く。
 オバちゃんが近寄ってきた。
「ねえあんたら。マジで・・お客引っ張ってくれないかい?」
「え?客引きを?」
「そうじゃないよ。あんたらの知り合いとかこの店に連れてきてほしいんだよ」
「お客・・・少ないの?」
「ダメなんだ。最近は2次会とかがメッキリ減って。カラオケボックスとかに客取られてるんだよ」
 オバちゃんは必死だ。
「大学はねえ、最近いろいろ不祥事があったりでね。医局がらみで来る事がなくなったんだよ」
「不祥事。ああ、接待とか厳しくなってきたもんね・・・」
「あたしも借金抱えてるしさあ」
 あまり関わりたくないな・・・。
「アンタら、ちょっと前借りできないかな?」
「オバちゃん。野中も僕も今は慢性金欠病だよ」
「ちょっとでも貸してもらえないかい?」
 どうしたんだ?オバちゃん・・・。いつもと違う。
 野中は立ち上がった。
「オバさん。それはルール違反だろう?」
「あんたらの力が借りたくてね・・」
「昔からの知り合いがいるだろ?僕ら貧乏人にお願いするのは間違ってる。まだ5年は早い」
「じゃあせめて、誰かまとめて連れてきておくれよ・・」
「それがルール違反なんだ。ユウキ、お前・・店、選べよな」
 僕は戸惑った。
「オバちゃん、分かった。周りの人間誘ってみるよ。明日からあたってみる」
「ユウキ先生、頼むわ。マジで。期待してるよ」
 
 妙なことを引き受けてしまった。しかしあの温厚なオバちゃんが・・・。ショックだ。
とりあえず僕らは店を出た。凍えるように体を萎縮させて歩いていく。
「ユウキ、お前。あまりあんな奴と関わるな」
「大学の人間か?」
「違うだろそれ。それにしてもお前は大学に対して、偏見を持ちすぎてる」
「・・・・・」
「松田っちが大学辞めて、どこ行ったと思う?自分で雑誌の広告見て民間の病院に面接に行ったらしい」
「広告か。年収2000万とか、ああいう?」
「ああ。手取りはその3/4だがな」
「それで?」
「老人病院だ。大学のしばりはないが、あくまでも経営者主体の病院だ」
「経営者が・・問題でも?」
「まともな臨床はさせてくれず、経営第一主義。寝たきり老人に、心カテ、ペースメーカー・・・」
「それで儲けてるのか?」
「そういう病院は多い。それを良しとしている医者もいる」
「抜けられないのか?」
「経営者の方針に従わなければクビだよ」
「そんなの評判悪いだろう?」
「分かってないな。だから広告で釣るんだよ」
「・・・・・」
「お前を見てたら、なんか心配でな」
「すまんが野中。もう帰る」
「怒ったのか?相変わらず気が短・・」
「じゃあな」

 僕はタクシーを拾った。
「商店街を抜けてください」

 タクシーのソファにぐったりもたれ、ため息をついた。
「お客さん、かなりお疲れですね」
「え?ええ・・・」
 かなり疲れた。ユリちゃんの助言に従ったつもりだが。

 語り合える医者は、もう・・・いないな。

心のオーベンにつぶやいた。

「アイツが最後の希望でした」

『いいや、まだ他におる!』



<つづく>
西岡先生は回診に出かけ、話題が元に戻った。坂本は余裕の笑みで答えた。
「ユウキ先生。これじゃないですか?」
「む・・・・!SIADHか?」
「私、もう3例ほど見たんです。認定医試験用に、1例貸しましょうか?」
「・・・あ、そう。じゃ、指示出してくれる?」
「わかりました」
 なんかホントに楽しそうだな。だからどうも・・一般内科というのは・・・いっぱんというより・・・いっぺん・・しばくぞ。

 彼女の指示は丁寧に書かれていた。
「どれどれ。血中浸透圧、尿中浸透圧、尿中ナトリウム濃度。これらを2日間」
「点滴の指示はこれに変えてください。そのあとで検査に出してくださいね」
「本体は生食1リットル、それに10%NaClを1日2本。こんなに塩分多くていいの?水分少ないし」
「先生の嫌いな国試内科学にありますが・・・治療はまず、水分制限ですよ」
「あ、そ、そうだったな!でもオイ、血中ADHの測定は?」
「ああそれ、あまり意味ないと思います」
「へ?」
「むしろ正常の場合もあるので」
「あ、そ・・・」
 やっぱ内分泌オタクには、叶わない・・・。

 医局に戻って、休憩。スタイル抜群で人気の医局秘書がいた。
「あ、先生。いいところに!」
「な、なにが?」
「これまで貯まりました医局費、1万4千円!」
 スーツ姿の彼女は細い手をサッと差し出した。
「・・・金、ないんだよ。分かるでしょ?」
「でもみんな払ってます!」
「みんなはそりゃね。レジデント以外は40万以上もらってるんでしょ」
「さあそれは判りかねますが」

 またその言い方・・嫌いだな。

「伊藤は払ってるの?」
「はい。最初の就任時に1年分をまとめて」
「嫌な奴・・・」
「転勤までには必ずお願いしますね!それと未完成のサマリーも。およそ40枚」
「やっぱ部長のハンコが要るのかなあ」
「部長はもう確認なしのハンコ押しでいいと」
「よし!」
「あと先生、年度末にあります内科学会はどうされます?」
「日本内科学会?あ、それは聞きに行こうかと」
「みなさんといっしょに行かれますか?」
「部長がそう言うからね。レジデントは質問を必ず1回しろって・・・でもオーベンの結婚式とほとんど同じ日だよね」
「さあそれは判り・・」
「はいはい。で、出張費は出るんですか?」
「病院から一部出ます。出席した証明が要ります」
「前払いでちょうだいよ」
「それは無理です」
「旅費・ホテル代で・・2泊3日しても5万は要るだろう?学会そのものも金が要るし。買い物もしたい」
「さあ、それは先生が責任を持って負担されないと・・・」
「まあいいや。何とかしよう」
「すごく楽しそうですね。誰かと合流するとか・・・?例の女医さん?それとも遠距離の・・・?」
「さあ、それは・・・私では、判りかねますが!」
 
 ナニッという表情を尻目に、医局を出た。

 職員食堂に入ると・・今日も一番乗りだ。混んでないときが一番。
そしてナースらの休憩中に詰所でゆっくり過ごすのが僕のスタイルだ。

 トレイにカレーライスを載せて、窓際のテーブルに腰掛けた。
外は快晴で、目の前はビル群が立ち並ぶ。このビルの向こうは山があるはずで、海も見えるかもしれない。

「内科学会か・・・みんな集まるんだろうなあ」
 ポケットに丸めてあった雑誌の日程を破って取り出した。
「東京・・・・3日間。講演のプログラムと、発表のプログラム・・・いったい何万人来るんだ・・?」
 片方のポケットからメモ帳を取り出す。
「オーベンが入籍、結婚式は3月末に大阪のホテルで、か。バツイチなのに、よく式までやるな。しかし、かなりの出費だ。これは」
 よく見ると、日程的に無理がある。式が3/31で、学会が4/1からの3日間。
「それまでこの病院にいれるのかどうかも心配だな・・・」

 食器を返却口へ戻し、廊下へ戻った。

 詰所へ戻ったら、みんなちょうど休憩中のようだ。
カルテを確認。
 MCTDの子・・・坂本には逢わせないように回診したが。この子は結局大学病院へ戻されることになった。当院は稼働率が高いため、
しばらく置くこと自体婦長が猛反対なのだ。内服は再開できていることになっているが、真偽の程はわからない。

「明日退院か。気が重いが・・・行くか」
 嫌なことは早めに終わらせておく。

 個室をノック、入室。
「失礼します」
 誰もいない。だが荷物がかなり片付けられている。ボストンバッグが多数。知らない間に多くの花が届けられている。
「いないか・・・」
 と、個室内のトイレの流れる音がした。どうしようかと思ったが・・・待つことにした。

「あ、先生。こんな格好だけど・・・」
 彼女はジャージ姿、タオルで手を拭いていた。
「ああ、気にせずに」
「お世話になりました」
「いやあ、何もしてない」
「ひどい事とか言いましたね・・・傷ついてる?」
「え?いや全然」
「嘘。あれから先生、病室来る回数、減ったもん」
「いろいろあって・・・」
「川口先生が言ってたよ。もっと自分を正直に出したらって」
「自分を・・?」

 彼女は窓の外を眺めていた。
「先生、さようなら・・・」


<つづく>
「正月ボケもそろそろ直さんといかんな・・・じゃ、連絡事項」
 いつものように毎週の医局会が始まった。司会はいつものように林部長が仕切る。
「循環器グループの人事だが、今年3月に異動がある。ユウキ君のオーベン・加藤先生が地元の帝大へ戻り、吉本君は開業のため退職」
 オーベンが・・出て行くのか。でも僕が先かも。
「坂本くんは2月でローテ終了だな。評価は副部長が行う。成績は・・地元の関東の大学まで送られるからね、はっは・・ま、君なら大丈夫だろうがね」
 坂本は自信満々といった表情だった。
「え、ありがとうございます・・」

「以上だ!」

 全員、一瞬のうちに散り散りに。坂本が僕の横に突っ立っていた。

「先生、今日はどういう予定でしょうか」
「ああ?今日は外来業務の手伝いはなしで・・病棟患者の回診かな」
「私も一緒に・・」
「ああ。でもあまりでしゃばるなよ」
「どういうことでしょうか」
「え?いや・・・」
 見慣れてきて、だんだん魅力を感じなくなった・・もちろん外見だけど。中身はもともと・・ない。

「誤嚥性肺炎の患者。呼吸器病棟に入院していたが、こちらのベッドが空いたんでね」
「エビタがついてますね。サーボなら分かるんですが」
「・・・呼吸器はどれも基本的には同じだよ」
「そうでしょうか?」
「基本を押さえておけば、実質的にはそう大差ないと思うんだけど」
「それは何故ですか?」
「まあいい、そのうち分かる」
 僕も実はよく分かってないんだ・・・。
「抗生剤は何ですか?」
「その重症板見りゃ分かるだろ?チエナムとバンコ」
「バンコ?」
「バンコマイシンだよ」
「MRSAが出たんですか?痰の培養は・・・」
「まだ結果が出てない。でも十分考えられたから」
「・・・どういう理由で?」
 うっとうしいなあ・・・。ここは、大学らしい逃げ方で・・・。
「自分で調べなよ」


「57歳。ICM」
「ICM・・・国試内科学には載ってませんけど」
「そんな本持ってくるな!」
「いえ、これけっこう働いてからも使えるので」
「患者に失礼だろ」
「こうしてカバーを外せば・・・」
 なんて奴だ。
「虚血による心筋症なのですか?」
「ああ、まあね。それだけ」
 もうあまり関わらないようにしよう。

「66歳。MRが高度。最近flutterになって入院した」
「治さないんですか?」
「左心房径が6cmくらいあって、経口薬も効いてない」
「不整脈薬は入ってないんですか?」
「入ってたけど、効かないと判断して止めたんだ」
「でも、入っていたほうが・・・」
「CAST STUDYを知らないのか」
「え?」
 勝った・・。でも僕もよく知らない。
「flueerのほうが心房細動よりも血行動態が不安定なんだ。だから心房細動になったほうがむしろ・・」
「え?どうしてなんですか?」
「え?」
「flueerは脈が規則的なのに?」
「う・・・うん」
「どうしてだろ・・」
「ま、調べておいたら?」
 マズイマズイ。しかしオーベンってけっこう大変だな。

僕らは詰所へ戻った。
「おはようございます」
詰所は申し送り中で、かなり緊迫した状況だ。
リーダーの須藤さんが声をかけてきた。
「あ、先生。ちょうどいいところに」
「何だよ?いや、何ですか?」
「呼吸科病棟から転科で来た患者さん、挿管チューブの閉塞があります」
「あ、そう?」
「はい。午前中に交換をお願いします」
「チューブの交換・・・オーベンが居る時がいいんだけど」
「加藤先生は・・」
 彼女が少し照れくさそうになった。周りのナースたちもニヤニヤし始めた。
「外来がお忙しいと思うので・・・」
 何コイツ、恥ずかしがってるんだ?
「オーベンが外来終わってからにしてよ」
「ええ、じゃあ私が聞いておきます・・・」
 なんかいきなり女っぽくなっても困るんだがな。

 主任がこちらへツカツカやってきた。ヒソヒソ声で話す。
「しょうがないでしょ先生。須藤ちゃんも今が楽しいんだから」
「楽しいって?申し送りがか?」
「先生のオーベンよ」
「ああ知ってる。でもオーベンって独身かぁ?」
「バツイチですよ、先生」
「バツイチ・・ああ、最近流行ってるね」
「もうすぐ籍、入れるんだって」
「なに?籍!」

 辺りが静まり返った・・・。

「先生、静かにしてよ・・・シッ!」
「みんな知ってるのか?」
「知らないのは先生だけですよ。でも知ってますよ、先生。けっこう・・」
「何?僕が?あの子を?」
「デレデレしてたじゃないの、ダテに30年もこの仕事やってないわよ。ああ、年ばれてしもうた」
「30に、20を足して・・・ほうほう。でも何とも思わないよ。どうぞお幸せに」
「あたしに言ってどうすんの?ま、先生もヨリを戻したら?」
「だ、誰と?」

 でもオーベン、もうすぐ転勤じゃなかったっけ・・・。彼女、どうすんだ?

 詰所の検査伝票をゴソゴソ見ていた。
「誤嚥性肺炎の患者、ナトリウム118か。低いな」
 坂本が覗き込んだ。至近距離だが、もうドキドキしなくなった。
「点滴のナトリウムが少ないんですか?」
「いや。十分入ってる。心機能も良好だと思うし」
 彼女は自製のマニュアルを見ている。国試内科学も。イヤーノートまで・・・。
「嘔吐・下痢はありますか?」
「嘔吐してこうなったんだろうけどさ・・今はしてないよ」
「発汗が多いとか」
「そりゃ熱も出るしな」
「サードスペースへの体液移動」
「胸水・腹水はないようだけど?腸管だったりしてね」
「慢性腎不全」
「血液検査では正常だし。ハルンもジャンジャン出てまっせ」

「何を楽しそうにやってるのかな?」
 西岡先生だ。心カテ前の回診に来たんだ。
「べ、勉学です」
「ん?イヤーノート?こんな本あるのか?わしらの頃はこんな便利なもの、なかったぞ」
「今、坂本さんとナトリウムについて見てたんです」
「ああ、ナトリウムか。わしらの専門じゃないな。心不全なら低ナトリウムにはなるよな」
「ええ、それ以外の原因を見てまして」
「それ以外?・・・肝硬変・・・塩分喪失・・・ああ、あれあれ!あれよ!あれ!いかんなあ、年取ったら・・」
「?」
「待て待て、ユウキ先生!言うな!まだ言うな!」
「え、ええ・・」
 西岡先生はグーで額をかきむしった。
「原発性アルドステロン症!」
 しかし坂本が真っ向から否定した。
「先生違います。それは高ナトリウムのほうです」
「なに?そうか?」
「はい、違います。副腎のアルドステロンの過剰な分泌によってナトリウムが蓄積するのです」
 坂本は内分泌の勉強したいとか言ってたな。しかし・・これじゃロボットだ。
 しかし西岡先生も負けてない。
「ああそうだそうだ。何かと間違ってた。そうそう。原発性アルドステロンはそう。それで血中のレニンが下がるんだよね」
「ええ、正しくは血漿中ですが」
「RPAだよな。測定したのか?」
「違います。PRAです」
「何ぃ!それぐらいいいだろが!」

 こいつら、何をムキになってんだ?

 どいつもこいつも、専門になった途端の態度のデカさといったら・・・・。

『君も例外ではない』
 
 確かに・・・。

<つづく>   
 消毒・手袋・布かぶせ、再開。
「あの、佐々木先生は・・・」
「病棟のどこかのようです」
「じゃ、麻酔を・・・」

『まず内頸動脈はどれだ』
「ハッキリ触れる、これだ」
『それと平行に針を置け』
「こうか・・・」
『で、そのまま時計方向にゆっくりずらせ』
「30度くらいか・・・」
『針の方向が乳頭に当たった時点で止めろ』
「そうだな・・この向きか!」
『これならまず、動脈は刺さない』
「よし、刺すぞ・・・ダメだ、全然血が戻らない」
『針の角度が浅いのでは・・・』
「ああ、深くだな・・・・よし、戻った!静脈血だ!穿刺針で同方向だ・・・よし、同様に戻ってきた!」
『そこで止めるな。気持ち、進めておけ』
「進める?し、しかし、肺を刺したら・・・」
『気持ちだ』
「ああ、抜けかけたらいけないもんな。気持ち、進める・・・」
 内筒を外す。静脈血が戻ってくる。カテーテルは抵抗なく入っていった。
「よし!逆流もオッケーだ。つなごう・・・・終わり!レントゲンを!」

 循環器の酸素ありの大部屋へ入院。

佐々木先生がようやく現れた。
「入院した患者のことで呼ばれてな。ご苦労さん。もう6時か。そろそろ明るくなってきたか」
 僕は首・腰が痛くなってきた。思わず空いてるベッドに腰掛けた。
「しかし、俺たち・・労働基準法は全く無視だな。なあ先生」
「あと3時間くらいですねえ」
「ああ。正月休みはどうする?」
「・・・・入院した患者を診ます」
「ああ、そうだったな」

 佐々木先生は診察室のカルテを眺めた。
「残り3冊。あと来るとすれば脳卒中だろな。よし!後は俺がやる。医局ででも休んでろ」
「医局・・ああ!」
「どうした?」
「やかん!お湯!お湯!」
 僕はダッシュで医局へ駆けて行った・・・・。ずっと待っていてくれたしゃっくりの患者・・がまだ残っている。
肺癌の高リスク患者の胸部CT・・・肺気腫だ。血ガスではpCO2 54mmHgでO2 67mmHg。
佐々木先生もデータを眺めた。
「ほう、pH 7.34か。アシドーシスでなくて良かったな」
「でもアルカローシスも怖いですよ」
「そ、そうなのか。ま、専門じゃないからな、俺は・・・」
 アルカローシスの怖さはまたいずれ触れることになる。
「内服処方の上、呼吸器外来受診。HOT適応について検討してもらいます」

佐々木先生はほとんどカルテを終えたようだ。
「さあて、初詣の客がこれから事故ったりするんだよなあ。まあ隣の外科救急が見るからいいが」
先生はカチャカチャと後片付けをし始めた。悪い予感。
「じゃ、一段落ついたことだし」
僕はカルテがまだ10冊はある。
「そろそろ・・・」

僕も今度ははいそうですか、と言うわけにはいかない。
「先生、申し訳ないのですが」
「ん?」
「こ、交代で休むというのは・・・?」
「休む?誰がそう言った?」
「いえその、今から先生・・」
「トイレへ行くんだよ」
「トイレ?」
「小のほうだよ。お前も行くか?」
「ええ。後で。せ、先生先にどうぞ」
「トイレ行ったら、ちょっとタバコでも吸ってくるかな・・」
「ええ、どうぞ」
「じゃ・・・」

 機嫌よく先生は廊下へと出て行った。

 残りのカルテをザッと見ると・・・いいぞ。軽症っぽい。

 事務の人間はウトウトしている。救急も途絶えたか。

 横にしゃっくりしてる人がいる・・そうだった。
「すみません、忘れてました」
「先生、さっヒック・・・の開業医の先生と話したんだが」
「イレウスの・・・ええ、それで?」
「カキのヘタというのをヒック、飲めって」
「カキ?」
「どうも漢方みたいヒック、やねん。この病院の薬局ヒック、からそれもらって、飲んでみるわ」
「そうですか。じゃ、今日はそれで・・」
「やかん貸して欲しいねん」
「やかん?」
「それとコンロはありまんのか」
「ええ。看護婦さん。病棟のコンロでも」
看護婦は細かかった。
「先生、こんな夜中に外来患者さんを上げるわけには」
「いいじゃないか?たかがやかんとコンロだぞ!」
「最近泥棒が入ったりで・・」
「何?ドロボウ?」

 あたりがシーンと静まり返った。
僕は我に返った。

「この救急室の近くにうちの医局があるので・・しょうがない、そこでお湯をわかしてきます」
 僕は医局のやかんに水を大量に入れ、その中に薬の入った袋を入れて火をつけた。
「これで、よし・・・」
 トイレも済ませ、救急室へ。

 事務員がすれ違いざま報告した。
「さきほど帰られた心不全の患者!」
「心不全・・ああ、利尿剤注射した人ね!従業員を心配してた!」
「それはわたくしたちでは理解できかねますが」
「な、なんだよ。で、それが何か?」
「夜8時頃、商店街で倒れました。しばらく店で休んでいたそうなんですが・・救急車でこちらへ向かうそうです」
 急いで空港へ行くって言ってたのに・・・なんで商店街にいるんだ?
「じゃ、事務員さん、ちょっと医局のコンロを・・・」
「来ました先生!」

 救急車が猛スピードでやってきた。現在深夜の3時。佐々木先生は・・予想通り行方不明だ。たぶん爆睡している。

救急隊が入ってきた。
「意識はあります。近所の店で休んでいて、そのまま崩れるように倒れたとのこと。血圧88/44mmHg。SpO2 84%。お願いできますか!」
「ええ、帰っていいですよ」
「あれ!上の先生は!」
「下の先生で悪かったね!」

 患者がベッドに移され酸素吸入。看護婦が血管を探す。
「さっきも分かりにくかったけど・・・ないわね」
 僕はエコーを準備した。
「ないって何が!」
「血管です。先生も探してください!」
「こっちはエコーだよ。こりゃ全体的にハイポだな。動きがかなり悪い。やはり利尿剤1本では・・・」
「先生やっぱりダメです!あきらめます!IVH入れてください!」
「そ、そけい部からだったら出来るけど・・・」

 そけい部を見ようとしたが・・・。
「白癬か、これ・・・?よくこんな、放っておいたな」

『ここからは刺すな。感染の危険が大きい』
「しかし、ここからのほうが・・肺を刺したくない」

『循環器なら鎖骨下からだ』
「あ、ああ。やってみよう。独断で成功したことはないが・・看護婦さん、IVH準備」

 消毒2回。手袋。穴あき布。
「注射器10ccの2本。それから・・・」
 言わなくても次々とピンク針、23Gブルー長針が渡された。
「1%キシロ、それから生食を」
 それぞれの注射器に麻酔、生食を吸う。
「・・・・・どっちが麻酔だったかな」

 辺りが凍りついた。
「ゴメン、注射器、最初から・・・・よし、こっちは麻酔!いきます!」
 看護婦は冷淡に覗き込んでいる。
「よし、返ってきた、血が!今のは・・静脈血だよね?」
 看護婦は無関心に覗き込んでいる。
「たぶん静脈血だ。じゃ、穿刺します」

『穿刺の方向は確認したか?』
「・・・・・もういっぺん、麻酔を、と・・・この方向だな」

向こうの看護婦が大声で叫んだ。
「センセ、しゃっくりの人がまだかって」
「しゃっく・・・そうだ、お湯!お湯!」
 付いていた看護婦が眉をしかめた。
「お湯!やかん!やかん!誰か・・・!」

周囲はしらけムードだ。

 手が震えた。方向を定めて穿刺したが・・・。
「よし、返ってきた。ちょっと赤いかな・・・じゃ、内筒を外すよ。用意はいい?」
「はあ・・・。ずっと待ってるんですけど」
 内筒を外すと即座に勢いのよい動脈血がピュ−ッと看護婦めがけて飛んできた。
「ぎゃああ!」
 僕は反射的に止血した。
「おおっと・・・!うーん、こっからは・・・どうも・・・・・うーん・・・・うーん」
 看護婦ら2人は僕を取り囲み、プレッシャーをさらにかけてきた。

『男なら、潔く・・手を変えろ』
「手を変える?」
『鎖骨下からの自信がないのなら・・・』
「そうだな。右内頸静脈へ変えます。手袋外してやり直し。いったん不潔にするよ!」
 奥から残り1人のナースが現れた。
「えっ、まだ入ってないの?」
「うるさいなあ!」

『ユウキ、意識は指先に。フォースを指先に集中しろ』
「そ、そうだ。自立訓練法だ。指先が温かくなる、温かくなる・・・」

 僕なりのフォースの高め方だ。

<つづく>

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